おおい町の青戸大橋を渡るのも

大島半島に行くのも初めて橋を渡って北上、

橋も道も大飯原発が出来たので作られたモノ、

先端のあかぐり海釣公園へ、

海釣りやバーベキューが出来る施設がありましたが、

老人2人は釣りもバーベキューもしないので、

チラリと拝見して橋の方へ帰ります。

 

海の青さと山の緑の自然の営みを拝見しながらのドライブ、

小浜からは国道27号線から離れて国道162号線で海岸線を通ります、

ヒマ老人は国道の路線は分かっているらしく、

ナビが付いてない車なのに、

国道や県道の表示板を見て運転して行きます。

 

古い車なのに故障も聞いた事が無いし、

エンジン音や他の異常音も聞かないし、

乗り心地は悪くないし、

車を買い換えようか迷っていると言っていますが、

古くても今の車で何の問題も無いので、

人生後しばらくなので、

これで良いのではと返事しています。

 

ヒマ老人は運転しながら

今走っている所の地名は何々と言いますから、

私はフンフンと言いながら、

地図を片手に持っていても何処を走っているのやら分からず、

時折今はどの辺りと聞きながら乗ってるだけでも疲れてきます。

 

ヒマ老人は運転しているのに大丈夫からぁと思いながら、

時折トイレタイムと称して

車から降りて一休みしながらのドライブです。

 

小浜市から国道162号線で

三方町近くに内外海(うちとみ)地区の中の

田烏(たがらす)には棚田があるので、

そこに行くと言って連れて行かれます、

何でも百人一首の舞台にもなった100枚の田んぼで、

海に面した風景は日本の原風景と言われているそうです。

 

帰ってから調べてみると、

何でも田烏地区は昔はサバの水揚げが盛んで、

この棚田で作られた米と合わせて「サバのなれずし」が

田烏の伝承の食文化だそうです。

 

古来より若狭は大陸との交易の地として榮、

朝廷に食材を送る御食国(みけつくに)としての地域であり、

貴族や寺院の荘園も数多くあった場所だそうです。

 

平安時代の二条院讃岐姫が詠んだ小倉百人一首の一首に

「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」

の沖の石が田烏の沖に浮かぶ小さい岩礁だそうで、

讃岐姫の父親が源頼政が平家との戦に敗れ、

讃岐姫も当地に流された時に詠んだ歌だそうです。

 

昔は交通の便が悪く、

自給自足の生活だったので、

米も手に入れるには山を整地して

棚田を作って食料を確保して来たのでしょうから、

そのご苦労までが海と山と空を眺めていると実感できました。

 

そこから三方町の方へ、

ウナギを食べられたらと思いましたが、

どの店も閉まっていました残念、

相棒のヒマ老人は夕食食べると飲みたくなるので、

何時も遊びに行っても夕食はせずに帰ってきます。

 

再び国道27号線を通って、

敦賀で国道8号線を通って福井へ、

海岸線のクネクネ道をアチコチ回りながらのドライブなので、

信号にはほとんど引っかからないし、

対向車線の車も少ないので、

景色を見ながらのドライブでしたから、

おそらく400Kmは走ったと思います。