いつも京都に行くと時間があれば行くし、

遊びに行った時には必ず行く神社が下鴨神社で、

そこの参道の糺の森が大好きなので、

糺の森の入り口でタクシーから降りて

参道を散策しながらお参りしてます。

 

帰りには必ず摂社にお参りしながら

最後に河合神社お参りして、

境内に有った方丈 (四畳半ほどの広さ)の庵のレプリカを拝見して、

人生終盤はこれで生活すれば良いと思って拝見していました。

 

今は河合神社の境内には無くて、

神社の北側の糺の森の中に建てられていますが、

長い間立ち入り禁止のままで、

拝見する事が出来ないので残念です。

 

親が下鴨神社の神官の倅だったのが、

親が亡くなって後ろ盾を失うと、

人生を転げ落ちるようにして

放浪生活に入った鎌倉末期の鴨長明の庵のレプリカで、

シンプルで生活に最低必要なモノだけの見本に見えて、

花柳界の華やかな世界で太鼓持ちとしてお仕事して来ましたので、

真逆の世界観にとても惹かれます。

 

 

方丈記の冒頭

「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

にも惹かれて、

方丈が有ったと言われている場所にも行って来ました。

 

京都の郊外東南の伏見区の日野山の中腹に岩があって、

その岩の上に建てられていたと書かれた看板もありました、

庵の下には小さい沢が流れていて

ここで生活していたのかと思うと感無量でした。

 

この方丈で、

世の中の仕組みから離れて当時の世間を観察して、

思い通りにならない人生について、

仏教の無常観にもとずく髄筆で、

1巻で完結する短い文章にまとめたのが方丈記で、

後の平家物語などの中世文学に大きな影響を与えたそうです。

 

方丈を拝見し方丈記を読むと、

お茶屋遊びした旦那さん方の中にも、

いつの間にやら亡くなっていたり、

会社のビルもいつの間にか違う名前の会社や、

壊されて駐車場になっているのを拝見します。

 

京都の街中も同じ様に見えても、

絶えず変化していて、

以前お仕事で行かせて頂いた料亭やホテルが無くなっていたり、

新しいビルが建てられていたりして、

常に変化してるのがシャバなんでしょう。

 

それを見ている自分も年老いて来ましたし、

今では足腰膝が悪くなって正座が難しくなったので、

お座敷に揚がる事も無くなった、

そこにコロナで追い打ちを掛けられて

時代は大きく変化してしまった、

その現実を単に受け入れるだけしかありません。

 

変わらないように見えても、

変化しないモノなど無い、

全ては常に変化していて、

常のモノは無い、

やがては滅んでいくモノ、

人生とはそんなモノとの「無常観」に心は沁みます。