体調のご報告です。飛ばしてお読みいただいて構いません。

数ヶ月の間、原発巣が分からないまま来てしまいましたが、ようやく肺に腫瘍が見つかり、これが原発であるかどうかを確定し、治療法を探るために7月中旬に入院・手術の予定となりました。

見つかれば見つかったで、やはり不安も頭をもたげてきます。お釈迦さまは『自分の思い通りにならないことを思い悩むのは無駄なことであり、それは執着以外の何物でもない』とお教えくださいました。まだまだです。『諸行無常・諸法無我・一切皆苦』を身をもって思い知らされる、有り難いご縁をいただいています。

 

さて今月の法語です。

思えば、数年前の米大統領選で「アメリカファースト(自国第一主義)」がスローガンとなり、その時は、あのアメリカが、と驚きましたが、その後、追随するように「都民ファースト」など、自分が一番という考え方・言葉が市民権を得たせいでしょうか「私さえ良ければ、今さえ良ければ」それでいいと言う言動も、恥ずかしいこととはとらえず、路上や電車内などで傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いをする人も多くなったように感じられます。選挙の妨害やポスターの掲示方法なども「法に触れていないんだから文句ないだろう」との悲しい考えのようです。今や、インターネットの世界では「メシウマ=他人の不幸でご飯が美味い」と言う、失礼この上ない言葉さえ使われていると聞きます。

「ひどい奴らだ」と思うのが私たち。しかし、よく考えてみれば、地震や台風などの災害があった時、自分や家族の居る場所を外れてくれると、被災された方のことを案ずるよりも先に、まずは「良かった。助かった」と安堵(あんど)するのが私たちでもあります。

それこそが人間の本質なのかも知れません。

私ども浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、ご自身を含め人間は『悪性さらにやめがたし=悪い性質・考え方は簡単には止められない』『こころは蛇蝎のごとくなり=その心は蛇や蠍のように他に危害を加えるものである』と見抜かれました。

表題の「自分さえ良ければいい」と考えている人には他人だけではなく「私」も含まれているのですね。「私」を含めない人は「自分だけは正しい、他人が間違っている」と勝手に思い込み、モラハラをしていることにさえ気づかないのでしょう。

そしてそんな私たちを仏様は悲しんでくださっているのです。 

仏様の慈悲は『無縁の慈悲』と言い、ここでの『無縁』とは『無条件』という意味です。

私たちは他人に、また自分にも、つい条件を付けて評価してしまいます。仏様は、それを何の条件も付けず、しかも悲しんでくださる。

ここで自分の存在を自分で問い直さずに、いつ問い直せるのでしょう。もう一度しっかり自分と向き合ってみたいものです。

       

 

 ご心配くださっている皆様、ありがとうございます。まだ生きています(笑)

先日の検査によると、放射線照射から2ヶ月経って、腫瘍の大きさが当初の約半分まで小さくなっているそうです。ただしこれ以上は、とのこと。しかし小さくなってくれたおかげで、一時は全く動かなかった左の手足も少しずつ動くようになり、ほんの数メートルですが、杖を使って一人で歩けるようになりました。今後も日常生活の中でなるべくできる事を増やして行き、手、足のリハビリにつなげ、頑張ってまいります。

 ただ、もう3ヶ月検査を続けておりますが、相変わらず原発巣が見つからず、幸か不幸か、抗がん剤の化学療法には至っておりませんので、外見はあまり衰弱して見えないようです。人間いつかは必ず命の終わりを迎えるわけですから、こうして元気そうに見えることも有り難い事と捉えております。最後まで明るく、笑顔で過ごして行きたいと思っています。

 

 さて、今月の法語です。

 病気になった時や、物事が思い通りに進まない時、私たちはどうしても、過去を懐かしく振り返ったり、未来こそうまく行くようにと願ったりしがちですが、お釈迦様は次のようにお説きになりました。『過去はすでに過ぎ去ったものである。追っても無駄だ。未来は未だ来ていないものである。虫の良い期待をするな』非常に厳しい言葉ですが、確かに真実です。そして教えはこう続きます。『今なすべき事をしっかり見きわめ、揺らぐ事なく、動ずる事なく、ただ今日なすべき事を熱心に実践して行け』過去に囚われ、あの頃は良かったと思い、未来はきっと上手く行くと根拠なく期待をしてしまう。私には耳の痛い言葉です。

毎月のように書いていますが、仏教とは、祈ったり願ったりすれば、自分の思い通りにしてくれるおまじないではなく、どんな状況であれ『今、ここ、私』をどう精一杯生きて行くかの教えです。

少し前に流行った言葉に「いつやるの?今でしょ」というのがありました。私たちはなかなか『今、ここ』を生き切ることができず、ついつい物事を先送りして「いつか、どこかで」と考えてしまいます。『私』を精一杯生き切ることもせず「あの人いいなあ、あの人になりたいなあ」と自分の存在すら、ないがしろにしてしまうことさえあります。

仏教が問題にするのはあくまでも『今、ここ、私』です。『今、ここ、私』を精一杯生き切れているか、もう一度、自分と向き合ってみる良いご縁をいただきました。

       

 

 幸か不幸か、未だに原発巣が見つからず検査が続いています。週に2回ほど外来で通院しなければなりませんが、それでも家にいられる有り難さを噛み締めながら過ごしています。

 

 「大病をして、見るもの全てが真っ黒に見えた。世界が真っ黒になった。」と言った方がいたそうです。確かに私も「脳腫瘍」と分かった時は一瞬目の前が真っ黒になりかけましたが、逆にすぐ、すべてのものが色鮮やかに見えるようになりました。今までろくに目もくれずにいた様々なものが、これで見納めかと思った時、それぞれが光り輝いていたことに気づかせてくれたのです。

毎回のように書いていますが、仏教は、自分にとって都合の良い願いを叶えてくれるおまじないではありません。『諸行無常=良いことも悪いことも、すべてのものごとは同じ状態でいつまでも続くことはない』に代表される、人生の真理・生きていく上での智慧を示してくれる教えです。

私たちはどうしても、自分にとって都合の良いこと=嬉しいことばかりを求めてしまいますが、もちろん、そんなことばかりが続く訳もなく、嫌なこと悲しいことも、必ず起きてしまいます。しかし、そうしたことを、無かったこととして見て見ぬふりをするのではなく、しっかり受け止めることによって、他の人の悲しみ・痛みに寄り添うこともできるようになりますし、自らの人生に深みも加わることになるのではないでしょうか。

 

 誠にお恥ずかしい話ですが、私は病気になって初めて「健康」の有り難みを、文字通り骨身に沁みて感じさせてもらいました。

私ども浄土真宗の第八代、蓮如上人の『仏法には明日ということはあるまじく候』という言葉も、私は分かったつもりでいたのでしょう。

 『いただいたいのち』を最期までどう生きるのか。改めて自分と向き合う、大切なご縁をいただきました。