近世日本の身分制社会(166/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか94/95 本能寺の変の全体像40/41 2025/06/27

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~39」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述足利義材の要請


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 ※ 本能寺の変の全体像15 で先述

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 ※ 本能寺の変の全体像16 で先述

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )

 ※ 本能寺の変の全体像17 で先述

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし

 ※ 本能寺の変の全体像18 で先述

 

 小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後

 ※ 本能寺の変の全体像19 で先述


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり

 ※ 本能寺の変の全体像20 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~18/19

 ※ 本能寺の変の全体像21~39 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )19/19

 ※ 前回 永正十四年 1517 年8月まで、からの続き。

 

守護代織田氏と熱田社千秋氏の関係を介して、その特徴を知る上で戦国後期に向かうまでの情勢を 愛知県史 資料編10 の清書文献を用いての説明を続けてきたが、1559 年まで続く 資料編10 をこのまま続けていたらあと2年はかかりそうなほどの分量になる。

 

大口を叩いてきた以上は、の筆者の、40代以内にウインドウズプログラムの説明( 反オブジェクト指向説明 )に入っておきたいという主体都合の、その時間面もいい加減に考慮しなければならなくなってきたため、惜しいが千秋氏の項目は今回で締めくくることにする。

 

1517/09/06、甘露寺家領である尾張( 春日部郡 )雲福寺郷などを安堵する綸旨が、文亀二年一月十四日の日付に遡って作成される。守光公記。

 

1517 年10月、熱田社渡用殿の建具・祭具・装飾品・神宝等についての注文が作成される。熱田社渡用殿内院注文写。粟田家文書。

 

1517 年関( うるう )十月、尾張国妙興寺、同寺領の安立彦七郎らに誓文を提出させる。安立彦七郎誓文 妙興寺文書。


1517/11/14、これより先、熱田社、焼失により造営を遂げる。この日、遷宮につき綸旨が下される。宣胤卿記

 

1518/01/30、戸田政光、三河国長興寺に、今川勢乱入の際の部下の狼藉を詫びる。戸田政光請文 長興寺文書( 田原市 )。※ この長興寺は臨済宗東福寺派と見られるが、原文では、三河全体の寺家代官役として三河に乗り込んだ駿河今川氏が、三河渥美郡( 渥美半島。今の愛知県田原市 )にあった長興寺の分寺領に対し、今川序列権威通りの統治がされていないと問題視され、それについて渥美郡の代表格の戸田政光が、今川氏親( いまがわ うじちか。駿河今川氏の当主 )に対して「不手際でした( 今川序列権威に合わせます )」と釈明した書状。ここは言葉だけに振り回されてはならない所で、実際に乱暴狼藉があったかどうかだけを考えるのではなく、その序列敷居通りでないことの是正勧告に従おうとしないこと自体が違乱・狼藉・反逆扱いの制裁対象という、その広域総家長権の選任の敷居を巡る上同士視点の見なし合いの性質( 広域領域敷居観 = 上同士の手本の作り合い も見渡せなけれぱならない。のちの織田信長の畿内再統一もそういう所が一層強まるため、政権議会再建に向けての敷居荒らしに対する厳しさを上から順番に強めたひとつ、比叡山焼き討ち( 全寺社領・教義界全体の手本でなければならないはずの公的教義が、次の段階の敷居の世俗議会側・寺家代官総裁の官民再分離・寺社領物的権威再統制との連携・意見交換・交渉すら否定の、目先の派閥利害次第の反織田的・反物的序列権威再統制の閉鎖有徳運動を起こすとは何事か! 浄土真宗の聖属物的相続武力に対する停戦・解体調停の手本に動こうとしない所か、大事なことを急に思い出したかのようにそれに便乗するかのように世俗間闘争に乱入とは何事か! 何を日本の教義界・聖属議会の地政学的敷居荒らし合い壊し合おうとしておるのだ! そのような退廃的な低次元化・偽善老害化を乱立拡散させ合うために寺社領特権・禁門叙任権・教義序列統制権があるのではない! など良い例だからこそ、なお見誤ってはならない。この文献項の頃には戦国後期( 選任的・支持選挙戦的な家長権争いによる、まずは上同士視点での地方全体・近隣の地域間敷居の見直し合い )の気風が見え始めてきた、つまりそういう所が上同士で、特に畿内でできていなかった応仁の乱の時の気まずさ自体は上同士で少しは認識するようになっていた様子が窺える。渥美郡の戸田氏は三河衆の中では大手ではあるが、地方の主導候補としては今一歩だった立場になる。内心では今川序列権威への全てのいいなりになるつもりなどはなかったのだとは思うが、東海道権威において表立って尾張斯波氏よりも格上を強調の、勢いがあった駿河今川氏との対立は避けなけばならなかった当時の今川氏と戸田氏の力関係が窺える。今川氏親は、次代の今川義元に有利な権力基盤固めをだいぶ進めることができた名君だったといってよかったが、今川義元はその権力基盤を継承後、同じく有利な先代基盤を継承した織田信長のようにそこからのなさらなる大幅な、次の段階への地方再統一に踏み込むことができずの、だから強国化が進む一方の尾張織田氏と、内部崩壊の凶兆を隠し続けていた駿河今川氏との、東海道権威での力量差が顕著となった。一方で国衆の都合としては、三河松平氏による三河再統一の気運ももうしばらくだったこの時期の戸田氏はやむを得なかったともいえる。なお 関連文書 としてその戸田氏への返信の 今川氏親 書状写 古簡雑纂 の紹介もあり、国衆たちに対し、上同士としての地政学議会的な選任敷居( 目録管理・誓願文写し管理の異環境間の領域敷居管理といえる上同士視点の手本の作り合い )の問い合いを目先の利害次第に何を逆らっているんだ、そんなこともワカランノカの顔色の窺わせ合いの老害慣習・偽善憎悪の押し付け合いで上同士でうやむやにし続け、上同士の選任的( 誓願式的・前近代議会的 )威厳をただ荒らし合い壊し合う下の作り合いをしているだけの、上同士失格の応仁の乱の問題点への教訓( 次世代下剋上社会化 )も少しは意識された戸田氏に対する、表向きだけであったとしても国衆に対しての一定の尊重もしている親書的な返信内容になっている。

 

1518/05/16、松平( 安城 )長家、上田弥一郎に三河国赤松の田地を売る。松平長家売券 大樹寺文書。※ 三河松平氏と、その良好関係の大樹寺との監修下でされているだけでも、だいぶ良い方だったと見てよい。

 

1518/05/20、松平信忠、三河( 額田郡。ぬかたぐん )西方寺の寺領を安堵する。松平信忠判物長 長仙寺文書。

 

1518/06/05、後柏原天皇、尾張の一閑院の住持( 代表和尚 )の柏悦道根に褝師号を与える。諸宗勅号記。


1518/06/09、後柏原天皇、山城の円福寺末寺の三河の某寺に香衣 当時は かい・かえ と呼んでいたと見られる )を認める。※ 原文では、三河の浄土宗の分寺への香衣についての綸旨と書かれているため、三河松平氏と協力関係の大樹寺( 三河における源空派浄土宗の中心。三河の寺領再統制の主導的立場 )からの分寺に対してのものと見られる。地方分寺に対してのこうした、禅師号や香衣( 法衣 )の下賜( かし。陛下またはその代理人が公的な評価によって、その序列権威的な証明品を臣下に授けること )、また経典の第一人者的な公認などの典礼は、聖属議会側の教義序列統制権を意味するが、旧態序列認知のままだった禁門権威( 地方の前に畿内の旧荘園領をまとめ切れていない教義叙任権 が、地方分寺からのさらなる地域分寺などなお把握できる訳もないからこそ、尾張織田氏や三河松平氏のおかげで寺社領再統制の努力はできていた方だった地方頼みの綸旨の発行で、表向きの威厳だけでもその叙任権が維持できているかのような体裁を、廷臣たちが陛下の名をお借りする形でなんとか整えようとしてたに過ぎないのが実態になる。つまり、中央吏僚側がしっかりしているから地方吏僚の統制権( まずは上同士の等族指導・身分制議会 )が行き渡っているのではなく、いったんの地方分権化の領域敷居競争的な寺社領再統制ができている方の、その現地で頼りになる織田氏や松平氏のような地方主導候補( 寺家代官役の手本 )がそこに居て、それで中央吏僚側の体裁がなんとか維持できるという有様の、まさに行政執行権( 総家長統制権・総有徳統制権 など皆無な無政府状態( 地方への公認保証力・謄本登録力・序列再統制の手本を示さなければならない側の畿内権威側が、次の段階に向けての旧廃策的な次世代選挙戦の敷居改めをいつまでもしてくれず旧態序列権威をたらい回し続けた = 堺衆も大津衆も白い目を向けていた部分 = だから織田氏がのちに、そのための畿内再統一にとうとう乗り出すことになった )もいい所の中央と地方の関係がいつまでも続いていたのが、この頃の戦国後期の前身の次世代下剋上社会期の特徴になる。地方側から見て畿内側の次世代政権議会の見通しもはっきりしない時期だったからこそ、領域敷居競争が地方側から統計的に整理されていったことは、いずれは上同士の誰かが畿内再統一に乗り出さなければ、やがては上同士の誰かがそれをしなければならない気まずさも認識され始めることを意味する。次の段階の姿がはっきりするまで( その統計的な力量差が地方間で顕著になり始めたのが戦国後期 )は、畿内再統一( 旧廃策 )に乗り出せない上同士の気まずい横並び段階では、畿内がいくら形骸化していてもそこへの表立った批評を上同士が目先の利害次第に無神経・無関心・無計画し合う 次世代身分制議会といえる組織構想観・地政学的領域敷居観に至っていない同士が解った気にケンカ腰に迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラし合う偽善憎悪を乱立拡散し合おうとする )こと自体が、ただでさえ曖昧な上同士視点の根拠を上同士でただ壊し合い弊害禍根を作り合うことにならない、応仁の乱の繰り返しでしかない気まずさくらいは、畿内はともかく地方の上同士では少しくらいはその認識はできていたのである。だから地方としても当面は、畿内再建の協力に向けて努力しているかのようにやり過ごさなければならなかったに過ぎず、陛下の名義に対する気遣いを除けばそれ( 畿内の寺社領再統制などできていない廷臣たちの、教義統制できているかのような気まずい体裁 )を( 地元の寺社領再統制をそれぞれ地域分権的に努力するようになった地方が )なんでもかんでもありがたく拝領していた訳ではない。その体裁だけで上同士の等族義務的な義理が生じる訳もない 政権議会的な中央吏僚と地方吏僚の道義連携、目録管理的な信用関係の地政学的連携ができていないのに、そこへの改善化や良好関係が生じる訳がない )こと自体は上同士では解り切っていたのが、当時の畿内と地方の関係の実態になる。その関係はそのまま表向きの将軍権威( 室町総家長 )と地方有力者の間も同じで、将軍が上質な刀剣を武士団長( 檀那代表 )に授ける典礼によって、足利一門の支え役の有力被官として公認、その寺社領における公認武士団であると認知・典礼を授けた所で、畿内再統一( 次世代身分制議会のための中央吏僚と地方吏僚の人事敷居の仕切り直し もできていない中でそうだと安堵状・特許状・公認状をただ発給した所で、綸旨( 教義序列統制 )の発給でも国債・債権( 経済法統制 )の発給でも同じく、それに向けての次の段階への議会的な等族指導体制( まずは教義圏内地政学間の領域敷居管理・目録管理・誓願文写し管理を可能とする、まずは上同士の議席敷居改め )といえる上同士視点の手本の作り合いが間に合っていなければその重みを軽々しく壊し合うのみ 状況回収不能にたらい回し合い低次元化させ合う原因 )にしか向かわない原則は現代でも同じ。のちの織田政権時代の畿内再統一・天下静謐戦が大きな手本以降の、豊臣政権時代の天下総無事戦、徳川政権設立の関ヶ原の天下泰平戦に向かわせることができたのも、そうした愚かさだらしなさを繰り返させないための、そのための総家長交代( 特に、公務吏僚側にしても庶民政治側にしても、の各階層の相続保証権・保有権の謄本登録の手本のための家格再裁定 )の次世代政権議会に向けての上同士の総選挙戦の典礼( 上同士の手本の作り合いとして上同士でやらなければならない白黒 = 選任的な総家長権と序列見直しの肯定・否定の明確化 )といえるものに次の段階( 低次元化防止 )に向かわせるまずは上同士視点のその更新手本の作り合いになっていない限り、どのように威厳・権威を誇り合った所でそこをケンカ腰に徹底的に面倒がり合いうやむやにし合うのみの、目先の利害次第の顔色の窺わせ合いのただの老害慣習・弊害負担( 偶像 = ただ下を作り合わせただ低次元化させ合うためだけの偽善権力への崇拝のたらい回し合い = なにもかもを性善説放任主義任せの偽善憎悪のおもちゃ扱いにし合おうとする上同士失格の人類の愚かさだらしなさ )の向け合いにしかならない。この原則はまさに荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論で指摘されている現代でも全く同じ、上同士視点の基本中の基本であり、日本でも西洋でもその近代議会の前身の深刻さを上同士でようやく少しはもたれるようになったのが16世紀の特徴だという大前提が認識できていない時点で、大事なことなど何も見えてこない。ここで本文献項の視点に戻し、まず、朝廷改め( のちの織田氏による畿内再統一 )が問われる前のこの頃の、こうした禅師号や香衣の下賜による禁門叙任統制( 中央教義と地方教義の序列統制 )の慣習と、のちの徳川政権初頭期の紫衣事件( しえじけん )と、その中間である織田政権時代の前後関係をざっと見渡すだけでも、本能寺の変にはどのような性質が含まれていたのか( 世俗権威側と聖属権威側との上同士で何が起きていたのか )が容易に窺える。前後するが、関ヶ原の戦い以後、次世代下剋上期から戦国後期にかけての武力闘争的な再興運動の、その旧態風紀をかき消す( 家格運動のための武力闘争の一切を禁止。関ヶ原の総選挙で上同士で明確化されたはずの、総家長の徳川家中心による天下の御政道、を批判していると見なし厳罰を強める )位置付けもあった大坂の陣 関ヶ原の戦いで大名・士分資格を失い多くが没落、その中で帰農・庶民出戻りを潔しとしなかった牢人たちが、豊臣再興をおもちゃ扱いに豊臣家と徳川家の対立を煽った戦い )をなんとか対処できた徳川政権・江戸幕府は、関ヶ原以降から武家諸法度( 世俗法・武家体制改め )と公家諸法度( 聖属法・教義体制改め )の制定を積極的に進めていくことになるが、朝廷( 聖属議会側 )に対しは、織田政権時代と豊臣政権時代よりも露骨に格下扱いを強める一方となり、海外交流( 鎖国 )の基準も事実上は幕府側が表立って朝廷を押さえつける形で大部分を取り仕切る( つまり、諸大名たちへの勝手な海外交流の禁止、その情報や技術の導入の禁止の、そこへの幕府・長崎奉行権威の序列統制的な査定を通さなければならない前提の鎖国政策を始める。日本の教義統制の管理者のはずであった朝廷は、国際上の体裁のためだけのお飾り同然扱いされる ようになる。織田・豊臣政権時代のおかげで、上同士での旧廃策の一環の緘口令の認識が守られるようになったから、前時代を引き合いに上同士で安易に批評し合うたらい回し合いも自粛的に等族統制されるようになった 目録・式目管理、誓願文写し管理による評議名義性・選任議決性による自分たちの絶対家長的な、各序列の交代制的な選任議決によって得た上同士の自分たちのその序列権威・家格再裁定の規律を目先の利害次第に過去の序列権威を引き合いに無神経・無関心・無計画に荒らし合い壊し合おうとする、上同士の天下泰平違反の愚かさだらしなさを上同士でようやく再確認し合うようになった。関ヶ原の戦いまでには、戦国終焉期の畿内再統一を始めとする織田信長と豊臣秀吉の、上から順番のその等族指導・家格再裁定の手本のおかげで上同士でそこをだいぶ認識できるようになっていた上で行われた )から下々には解りにくいだけで、その険悪関係から生じた紫衣事件ではっきりしているように、廷臣たちはともかく陛下( 紫衣事件は後水尾天皇の時代。ごみずのお てんのう )の反応がいかにも「これなら織田政権時代と豊臣政権時代の方が遥かに良かった」と言いたげな所からもはっきりしている。禁門側( 地方教義に手本を示さなければならないはずの中央教義 )同士で目先の利害次第の勝手な蹴落とし合いを始めようとする、すなわち寺社領特権( 荘園特権。特に物的序列権威面 の荒らし合い壊し合い奪い合いを始め世俗権威側に悪影響を及ぼそうとする( 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、目先の利害次第に下を作り合うために教義を悪用し合おうとする = 何もかもを性善説放任主義任せの顔色の窺わせ合いでうやむやにたらい回し合い低次元化させようとする = 偽善憎悪を乱立拡散し合い地政学的・街道整備的交流観をおもちゃ扱いに荒らし合い壊し合い遮断し合おうとする ことを取り締まるための京都所司代が織田政権時代( とうとうの畿内再統一時代 )に再設置され、いったんの有徳の総巻き上げと再手配( 次世代身分制議会化・等族社会化に向けたその謄本登録再統制・官民再分離に、公的教義であろうが旧態権威で反抗した反織田派どもは、上同士でやらなければならない次世代政権議会に向けた評議名義性・選任議決性への敷居荒らしと見なし上から順番に制裁 )によって、京の都市経済もとうとう大復興に向かう。次の段階に向けた産業法とその勧進特権( 有徳特権 )の再機能も始まり、区画整備され直され、ボロボロのままだった朝廷の建物も禁門寺院も全て立て直され、廷臣の家領( 寺社領特権 )も仮公認で再手配。それは、廷臣たちはともかくの陛下の威厳の大回復を意味し、旧室町体質のままでは、また戦国後期止まりの他の戦国大名たちだけでは、また旧禁門派閥を上同士で仕切り直すことなどできていなかった廷臣たちだけでは実質無理だった、それは織田氏にしかできなかったその白黒( 次の段階の組織構想の上同士の手本の作り合い = 中央吏僚と地方吏僚の各階層の敷居の仕切り直しと、今後の国内次世代産業法・海外情報技術交流の整備ための、陛下の支え役の絶対家長・前近代総裁役の姿 )が明確化されてしまった( 次の段階に向けて格下げ覚悟でその評議名義性と選任議決性を巡る上同士の敷居競争に加わろうとしなかった、そこを荒らし合い壊し合おうと、時間稼ぎにうやむや騒動を起こそうとする反地政学評議会的な上同士失格の低次元な連中は全て跳ね返される結果となった。上同士の誰かがしなければならなかったが他に誰もできなかった )のが、織田氏による畿内再統一だったのである。千秋氏( 熱田社・地方議会の象徴の場の、その氏子総代・神官武士の家系 )がどのような立場であったを知る上でも、戦国後期を迎えるまでの、次世代下剋上社会期はどのような時代であったのかをこれまでの文献項で説明してきたこととして、室町大経済期後から停滞し続けて旧地頭慣習のままだった、室町体質の旧目録・式目の旧序列の認知の仕方のままでは統制不能だったこと自体は地方の上同士でははっきりしていたからこそ、地方ごとで頼りになる寺家代官役( 下々の面倒見役・等族指導役。その地方全体をまとめられそうな主導候補・手本家長らしい格式を身に付けるようになった、守護代上がりや有力国衆上がりら )つまり主導候補が、選任的・敷居競争的に求められるようになったのが次世代下剋上社会期になる。地方内の地域間でまとまりがなかったことは、世俗序列( 物的序列権威 )と聖属序列( 有徳・教義序列権威 )の領域敷居管理( 地方の上同士の、代表家長の選任・支持選挙戦による各階層の序列再統制 )ができていないことを意味したからこそ、いったんのその見直しが地方分権的に進められるようになった次世代下剋上社会期の様子を、文献項と前後関係とを用いてこれまで説明してきた。旧室町体質( 世俗・聖俗両中央権威 )が、旧式の序列認識つまり次世代的な実務面( 等族指導面 )を再評価する次の段階の政権議会体制をいつまでも整備できないままでいた、実務面( 各階層の等族指導面 と一致していない名族高官主義・門閥主義中心の顔色の窺わせ合い任せ( まずは上同士の目録・式目管理/誓願文写し管理をうやむやにし続ける偽善憎悪任せ・老害慣習任せ )の序列認識のままがいつまでも改まらなかった、だから格式を認知していない地域のことなどどんな状況になっているのか把握などできる訳もなく、ただ格下扱いし続けるばかりに何ら公認・相続保証もしようとしない体質が続いたから、血族間にせよ宗派間にせよの、年々の地域間ごとの多様的な慣習違いが強まっていく一方に、遠隔間交流の連携( 公認保証 など崩壊に向かったのである。つまり地方地域にとって、室町権威の認知外( 公認保証外 )のことは全て旧態地縁の檀那家長( 旧寺社領慣習 )序列に頼らざるを得ないという遮断交流的な非公認の閉鎖自治武士団が乱立する一方の悪循環が続いた。そのようにいつまでも寺社領の物的序列と教義序列の整備すなわち次の段階の異環境地域間交流の再開を上同士が進められず、世俗権威にしても聖属権威にしても上同士で目先の利害次第に偽善憎悪( 手本をうやむやにし合う下の作り合い )の対立を煽るばかりで、各地方の各地域間でいがみ合いをまとめる等族指導役( 寺家代官役 )を武家側が果たそうとしなかった所が多かった、だから下同士( 手本の作り合いなどできない公認外同士 の勝手な下( 手本を壊し合う偽善憎悪 )の作り合いによって苦しんだ地域も少なくなかった。だから既成権威に最も頼らずに自力教義を確立してきた浄土真宗が、地方の寺家代官役が機能しておらずただいがみ合うばかりで事態が一向に進展していないような地方地域に対し「そこは聖属・有徳領なんだから、世俗権威側が果たそうとしない寺家代官役をこれからは浄土真宗が、呼びかけの支持次第にその地域の等族指導を代替する」といわんばかりに領域敷居支持戦をけしかけ、各寺社領をかっさらい始め、浄土真宗の遠隔領化していく動きを見せるようになったのである。いわば浄土真宗の一向一揆の初動は、非公認の武士団である檀那家長同士のいがみ合いを室町序列権威がまとめられないから、そこを浄土真宗同士という同胞意識の等族指導によってやめさせ、遠隔間交流による賦役や軍役を協力し合いをいつまでも整備しない世俗権威側に対し「だったらなぜ武家側は寺家代官役を果たそうとしないのか!」を理由に、非公認の檀那家長の武士団を、浄土真宗の遠隔領を守るため・遠隔領化するための地域総出の自治権武力運動( 表向き常態一揆体制運動 として推進されてしまう事態となった。浄土真宗がとうとう始めてしまったこの遠隔領域競争のけしかけによって、生活保証権・相続権の壊し合い奪い合い・閉鎖慣習の押し付け合いの下の作り合いを巡って苦しんだ、そこが酷かった地域( 地方の寺家代官役らしい代表家長・主導を上同士で選任・等族統制できていなかったからそれをやめさせることもろくにできなかった地域間 ほど浄土真宗の呼びかけによって離脱し始め( 室町序列権威に表立って見切りを付け始め )、分国法的・領国体制的な軍政改めを遠隔間で点在的に始められてしまったことは、序列権威としてはとうに崩壊していた世俗・聖属両の室町幕府の名目を表立って丸潰しにした事態、特に帯刀資格( 士分待遇と武装条件の資格の明確化 )の遠隔間序列統制がいつまでも再整備されないままだったその事情はそのまま、世代交代的な血族遠隔間序列統制( 家訓的な家来筋統制 のできて無さに、それがそのまま中央吏僚と地方吏僚の連携序列統制のできて無さに、それがそのまま地方内地域間交流のできて無さに、それがそのまま国際地政学的軍兵站体制のできて無さにそのまま現れていたからこそ、そこができていない、いつまでもその見通しも見せることがなかった室町体質に対して、浄土真宗( 公的教義への対抗教義改革的な第三教義 )によって表立って次世代下剋上的に頭から否定されてしまった事態となったのである。建武新政の教訓として聖属武力( 有徳中心による物的集結 )は禁止しなければならないはず( 次の段階に向けた世俗政権の見直し・再出発が室町政権の役割のはず だった。室町大経済期( 3代将軍の足利義満時代 )までに、その意味もあった聖属寺社領慣習と世俗武士団慣習の法整備( 教義領域と物的領域の分離整備。だからこそののちの織田氏のいったんの総巻き上げと再手配による仕切り直しの前期型兵農分離・官民再分離。畿内再統一 )はいったんは進んだが、以降は次の段階に一向に進まなかった。8代将軍の足利義政時代( 応仁の乱 )を迎えるもっと前の段階で既に旧慣習のままの産業法・生活権的相続法は限界を迎え、一向一揆の前身の大規模な世直し一揆( 正長土一揆が代表的。しょうちょう つちいっき/どいっき )と、地域間の閉鎖有徳闘争・非公認武士団の乱立は顕著になっていた。まさに孔子が指摘した上同士の、家長権( 王権とその親類を始めとする上層たち )の手本のあり方の更新手続き( 次の段階の家訓改め )的な見直しができていないことが外戚問題化 議席の譲り合いの交代制の上同士の選任的な等族統制・敷居管理ができていないことが問題化 )し、国家・組織を低次元化・衰退・崩壊させていく一方だという構図( のち孟子が、孔子の善のあり方の部分を整備したことで、孔子の教えに関心がもたれ大幅に見直されるようになるが、次第にそれを性善説放任主義任せに下を作り合う道具に延々とたらい回され続けることになる。「孟子悪用主義者たちはケンカ腰に善の立場を気取り合い下を作り合う顔色の窺わせ合いしかしていない/低次元化させ合うたらい回し合いしかしていないのになぜああも偉そうなのか」と、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものようなその下品で汚らしい態度は次第に「腐れ儒者」と非難されるようになる。悪の見直しなどできていない、教義権力的な老害慣習のたらい回し合いでしかない善の立場への顔色の窺わせ合い通りでなければ下・悪だと見なし合うことしか能がない、善と悪の領域敷居管理による次の段階に向けた上同士視点の公務吏僚・組織構想の議会計画的な手本の作り合いなどできたことがないにも拘わらず合格・高次元/失格・低次元を裁量する側をケンカ腰に気取ろうとする、上同士視点を荒らし合い壊し合うことしか能がない孟子悪用主義者・性善説放任主義任せどものような偽善者・法賊は上から順番に厳罰対象で当然という荀子の原因究明主義が、一時的だが注目されるようになる )そのものといえる。そうした欠陥を抱え続け、遠隔寺社領統制などできなくなっていたのを巡って、浄土真宗が痺れを切らす形でとうとう動き始めてしまったのが、一向一揆という名のその領域敷居支持戦的なけしかけ・かっさらいだったのであり、地方の上層たち( 守護代や有力国衆ら )も自分たちの今までの地位や威厳( 等族指導役らしさ・代表家長らしさ )も危うくなる一方だからこそ、寺家代官役( 教義領域と物的領域の役所的管理役、すなわち地域間の下々の面倒見役 )のあり方を慌てて見直すようになったのである。禁門( 朝廷と公的教義 )による、法衣を授ける典礼による遠隔間教義序列統制を、浄土真宗が破戒したというよりも、そんなものは表向きばかりで最初から( 鎌倉仏教の改革期以降から )教義力( 等族指導力 )と噛み合っていなかった実態を「名族の親類間同士で家歴欲しさで今までたらい回し合っているだけの、序列再統制が進んでいない中でのうわべばかりのその偶像的な法衣序列はいい加減に( 廷臣たちと公的教義は、低次元化させ合うことにしかならないその教義権力ために陛下の名義をお借りしようとするのを )やめたらどうでしょうか」と、そこに最初から対義的だった( から禁門序列からは徹底的に格下扱いされ続けてきた )浄土真宗から今一度、遠回しに言われてしまっただけのことに過ぎない。それは陛下のせいではない、しかし直撃的にそこを非難すると陛下に心労を与えてしまう配慮があったから遠回し的で( 下々には )解りにくいだけで、上同士では解り切っていた気まずさだったのである。一方で、浄土真宗の脅威をほとんど寄せ付けなかった尾張織田氏は、時折は揉めつつも津島社( 津島商業で商才に優れていた資本家の加藤一族や、氏子武士の祖父江一族ら )と熱田社( 氏子総代の千秋氏 )を地方議会の象徴( 目録・式目管理の誓願の場 )として尾張の大手寺社たちの再連携を努力し、1530 年代( 織田信定から織田信秀への世代交代期 )にはもはや畿内経済再建のひな型といえる、地域間交流による産業法・生活権相続法の手本整備( 街道整備 )の前身を見せ始めていた。織田信秀が大幅に進めてくれた基盤からのちにさらなる大幅な、二段階的な地方再統一( 広域領域敷居改め・地政学的家訓改め )を果たした織田信長による、その持ち込みであった畿内再統一への乗り込みはもはや、畿内・地方、世俗・聖属に関わらず、今までそれに乗り出されるまで仮定的に通用していたに過ぎない、ごまかしの各序列権威( 次世代身分制議会を巡る広域領域敷居競争に至っていない、浄土真宗の背中の追いかけ上がりに過ぎない地方裁判権止まりの序列権威 が良い意味で表立って崩壊し始めたことを意味していた、だから上同士では気まずいばかりだったのである。2025年現在でよく議論されるようになったAI移管とその法整備についてや、またスマートフォンのこれまでの台頭による事足りる網羅がはっきりし始めると、かつての産物概念の狭い世界の制限権威を規律にし続ける必要性も当然のこととして薄まるようなる。水準が閉鎖的な制限権威から広域的な網羅先に移行するようになると、魅力的・手本的な変化や整備が見られない過去のままの閉鎖概念はやがて淘汰に向かうのも当然の話になる。スマートフォンが音楽プレイヤーやカメラの機能、電話帳やメモ帳や予定カレンダー機能、ちょっとした写真編集や動画編集、ネットブラウザ機能や売買機能、また携帯ゲーム機にもなる汎用機として、幅広い機能を個人の目的ごとに対応の多様の網羅が始まると、かつてはそれぞれ単独の価値で存在していたそれらも、使い分け方やその機能面中心からの特化性や拡張性などの魅力がなければ、それぞれの市場価値や求心力も以前通りに維持される訳がない。電子機器、通信機能の発達で各個各所の自由化発信・共有もしやすくなると、その手段がなかった間まではまかり通っていた局や機関の不都合的秩序のためだけの制限権威・情報規制のあり方も、次世代的な文化交流規律化・等族社会化への進み方次第では今まで通りの下を作り合うのみの教義権力・老害慣習のような、何を逆らっているんだ・そんなこともワカランノカの顔色の窺わせ合いをケンカ腰にたらい回し合うやり方も段々通用しなくなってくる。上同士でいつまでもそれを続けようとする低次元側と、そこに旧廃策的に次の段階に上同士で進もうとしている高次元側との、その力量差・等族指導差が目立ち始めるようになる構図は当時でも現代でも同じで、織田氏の畿内への乗り込みが始まったことで帝都( 京 )を巻き込んだ次世代産業法の広域化がとうとう始まってしまい、今まで途絶され続けてきた 尾張 - 美濃 - 近江 - 山城 間での農工商交流の隆盛をさっそく手本的に見せ始め、寺社領特権と物的領域管理の仕切り直しの街道整備( 織田氏の家訓序列改めによる、上同士の有志的敷居の前期型兵農分離 )による前近代法的な物流通行と地域間為替の広域対応( 織田氏と堺衆と大津衆との台帳連携 )を始めたその織田体制に、全て公認保証( 庶民政治体制を謄本登録 )してもらった方が早いと下々に気づかれてしまう その広域街道整備にさっさと参加できない、そこをうやむやに情報規制的に遮断し続けようとする、その管区整備・街道整備に閉鎖妨害的な地方上層に対して下々も、生活権相続保証差や賦課税改革差から織田領との格差が出始めることに次第に不満をもち始める。そういう所から前近代的な軍兵站体制差ではっきりし始める )のも時間の問題となった事態に、そのための広域敷居競争など目指して来なかったこともはっきりする一方の旧中央権威筋たちや織田領外の地方は、そこに気まずいばかりになったのが実態なのである。同じく、それまでの浄土真宗の一向一揆の役目( 寺社領の序列権威を巡る敷居競争 )ももはや必要なくなってきていたことを意味( 中途半端ながらも戦国大名よりも遠隔地間統制・相続権的序列統制ができていた浄土真宗の、その背中を基準にしていればいいかのような状況ではないことを意味 )していた。織田氏の畿内再統一をきっかけにそれぞれ上同士で転換期だと観念、格下げ覚悟の進退をまずは上同士ではっきりさせなければならなくなったことを、そこを畿内近隣の旧有力筋の上から順番に織田氏から恫喝されるようになり、その不手際が上同士失格 管区整備妨害 だと見なして上から順番に裁く有志側と、そう見なされて裁かれる偽善者側の関係( 中央と地方のあり方 )の明確化がやっと始まった、上同士が永らくしてこれなかった、上同士がしなければならなかった次の段階を巡るその支持選挙戦のけしかけがやっと始まったのが、のちの豊臣秀吉と徳川家康の大きな手本となった 1570 年代の織田信長の畿内再統一なのである。そして、またしても社会病的に起きてしまった中央のうやむや騒動であったのと同時に、これでやっと最後にできたことも意味していたのが、そこが今までと少し違ったのが本能寺の変の特徴なのである。この事変( 畿内再統一から本能寺の変にかけて )による今後の日本の方針の変更についてはともかくの、これが最後となった中央のうやむや騒動の克服に上同士でようやく向かわせることができたのは織田信長、明智光秀、羽柴秀吉これら有志たちおかげだったといってよく、この3名でなかったらそこも危うかったといってよい。ここで、褝師号や法衣の典礼による教義序列統制に視点を戻し、上同士の誰かがやらなければならなかった、しかし今まで誰もできなかった畿内への、次の段階への寺社領再統制( 次世代身分制議会改め )を織田信長がとうとう進めてしまい( 特に寺社領の物的権威を切り離し、今まで上同士のいがみ合いに振り回され続けてきた地域家長たちを官民再分離して有徳特権を再手配・謄本登録し直した。公的教義・延暦寺がその妨害の武力運動に動いたから踏み潰した )、帝都経済を大再生させ、京の禁門寺院も、朝廷を始めとする政治的建造物も全て威厳ある立派なものに再建、廷臣たちのそれまでの力関係次第の衣食住の低次元な配分の仕方も、畿内の旧荘園領をいったん全て巻き上げた織田信長に再手配されてしまった姿は、陛下の立場のみを見れば、寺家代官役の手本になっている織田政権との連携による法衣統制の威厳の再開を意味し、まさに皇室の威厳回復の大救済でしかない。一方で廷臣たちといえばただ旧態門閥主義を乱立拡散させ合うのみで、神道筋にせよ仏教筋にせよの各派内の流派間ですらまとまりなどなく、同派の遠隔分寺社領との連携も旧式の認知の仕方のまま限定的にしかできていなければ公的教義( 自力信仰一辺倒 )の暴挙も抑えることもできなかった。日本の教義圏の管理人として、その陛下の支え役としての主導性など皆無、何の解決力( 聖属議会らしい評議名義性・選任議決性といえる議席序列の手本 )も示せてこれなかった一方で、今一度はっきりさせなければならなかった聖属裁判権( 寺家代官役・有徳総代 )を巡る織田派と浄土真宗派との他力信仰型同士の高次元な頂上対決の、その停戦和解を早めるための仲介など廷臣たちはなおできる訳もない有様だったのである。畿内近隣で、格下げ覚悟でやむなくの織田氏の畿内再統一の容認派( 織田派 )と、その国際評議敷居荒らしと見なされて一掃されることになった反織田派との構図と同じく廷臣たちもとうとう、今まで自分たちでうやむやにし続けてきたから気まずかったそこ( 自分たちの序列再統制 )を迫られる事態となって、そこに浮足立っていた有様( だらしなく精神的支柱を崩壊させ合っていた有様 = 教義圏管理人失格 )だったのが実態なのである。のちの紫衣事件( 江戸幕府の公家諸法度による朝廷への厳しさの向け方 )は、江戸幕府が朝廷に急に厳しさを向けたのではなく、こうした順序・経緯がひと通りあった上でそう裁定されたに過ぎない。織田領外で、士分扱いされていなかったり不当な扱いを受けていると感じている各地域の地域家長とそれに所属する下々が次第に、産業施政面のことで地方上層の公認を通すよりも、畿内再統一を進めている織田氏からの公認を得た方が早いと気づき始めるのも時間の問題となったように、皇室からすれば、日本の教義再統制の元締めとしての等族指導役・連携調停役などこれまで全く果たせてこれなかったどころか、派閥利害次第に教義問題を乱立拡散させ合うことしかしていない朝廷と公的教義を通すよりも、畿内再統一を進める織田政権と直接連携した方がまさに手っ取り早い有様になってしまっていたのである。しかし陛下にとって聖属側は身内だから、体裁上では朝廷( 聖属議会の存続 )に擁護的な姿勢を採ってもらっていただけの話に過ぎない。畿内再統一期にこのような状況になっていた中で、織田信長の性分として、日本の教義機関( 朝廷と公的教義 に対し「何が必要( 等族指導の対象 )で何が不要( 旧廃策の対象 )なのかくらい、廷臣たちはいい加減に自分たちで( 海外交流情報戦的な評議名義性と選任議決性といえる議席序列改めを )はっきりさせたらどうか!」 世俗権威側が上同士の御成敗式目を再制定・家格再裁定に動いているように、聖属権威側もその評議名義性と選任議決性の式目・誓願文写し管理を自分たちで今一度明確化せよ! それができないのなら全て織田政権に移管せよ! とやっとそこを恫喝すると共に、廷臣たちを試す機会も許した、そういう所の面倒見がこの上なく良かった織田信長の、そうでなければならない上同士視点の性分には皇室にとっても大助かりの事態なのである。廷臣たちはとうとう言い逃れ無用に織田信長からそこを直撃的に迫られ、その折衝役の佐久間信盛をおもちゃ扱いに凌ごうとする軽々しさも通用しないことをその大失脚劇で思い知らされてしまい、それで廷臣たちはようやく少しは自分たちの立場の深刻さを認識するようになった有様だったのである。「もう次はないぞ!」の次の折衝役となった明智光秀に廷臣たちは泣きつき、廷臣たちも明智光秀も物凄く気まずい想いをしながら、時間稼ぎのためにやむなく起こしてしまったのが本能寺の変だったのである。関ヶ原の戦い前後には本能寺の変の把握は既に済んでいたのも間違いない徳川家の上層たちは、だから紫衣事件で「廷臣たちは、織田政権時代と豊臣政権時代にあれだけ寛大な世話を受けておきながら!」「その経緯を朝廷は活かし切れていないと見ている徳川政権では、そこを見過ごすことはしないぞ!」と、本能寺の変( 理由はどうであれ、世俗政権との連携に威力を使った反抗的な態度を採ったこと。折衝役の明智光秀・斎藤利三を困らせたこと )の一件を格下げ対象の不祥事扱いに見なしていることが、紫衣事件で露骨に現われているのである。

 

惜しいがここで、千秋氏の項目としての最後のまとめをする。

 

熱田社と津島社が地方議会の象徴でなければならないという、和平的な地域間交流のための織田氏と千秋氏の協力関係が努力され続けてきた背景が大いに活かされる形で、結果的に織田氏が地方間の敷居競争の先駆けとして目立つようになる。戦国後期の尾張織田氏の存在は、まずは東海道筋の序列権威の主導において表向きの大手をそれまで気取り続けていた今川氏を、大いにあせらせることになった。のち織田氏が畿内再統一に乗り出すほどになったのも、その織田氏の寺家代官役( 有徳総代役 )の形成に大いに貢献してきた、そこに共に深刻さをもてていた千秋氏の大事な役割は、惜しくもこれまで評価されてこなかった。そこを当時もあえて目立たないようにされてきたのは、そこをあまりにも露骨に評価し過ぎてしまうと、尾張からは近所の伊勢神宮の威厳を丸潰しにしてしまい、ひいては陛下の威厳を丸潰しにしてしまうことになりかねないためになる。織田氏は、寺社領再統制の一環として、神領武士団としての千秋氏も表向きはあえて特別扱いせずに仮公認のいち家臣団扱いし、何らかの目立った功績を立てさせることで、千秋氏による熱田社領の管理者としての序列統制権を再公認、今一度その地位を獲得させる形で、それで皆を改めて納得させようとする手本的なやり方がされた。のち、織田信長によって二段階的な尾張再統一を進められてしまったことで、東海道権威の立場としていよいよあせった今川義元が、その等族統制を荒らし乱そうと、旧態軍役体制の数任せに桶狭間の戦いに乗り出すことになるが、駿河今川勢が、大きめの熱田分社領があった大高城に接近すると、当時、まだ20歳だった若き当主・千秋季忠( せんしゅう すえただ )は、織田本軍の応援軍に頼らずに、50足らずの社領武士団を率いて大軍の今川勢に立ちはだかった。これは「我が千秋家は、熱田社と式目・誓願文写し管理を交わしている織田家との協力関係を大事にしているのであって、それを交わした覚えなどない今川家の社領侵犯など認めていない! 出直してこい!」と言い放たれてしまったも同然の、尾張社領総代としての意思表明になる。今川勢にとっての尾張の社領統制における、千秋家の家来筋なりその重役なりの後釜を擁立するといった調略的な連携・準備要領など、もっている訳もないまま勢い任せに尾張に乗り込んだ駿河今川勢の上層たちは、そういう動きに出てこられてしまった千秋季忠に相当に気まずかったと見てよい。先陣だけでも少なくとも3000や4000はいた今川勢は、50足らずで立ちはだかってきた千秋勢を前に立往生する訳にもいかず、結局討ち果たしてしまったが、若干20歳の若武者にそういう所を見せ付けられてしまった今川勢の上層たちは、どちらにしても相当気まずく、手勢への意欲奨励( 尾張攻略の理由 )に響いたのも間違いない。この時に、佐々政次( 佐々成政の兄 )も50の手勢で千秋勢を支援、この2つで計100足らずで立ちはだかる形で共に今川勢に討たれてしまうが、桶狭間の戦いに勝利した織田信長は戦後、今川勢の戦意を大いに削ぐことになったこの時の戦功を理由に、千秋家は軍役免除、高待遇の領地特権が再手配された。佐々家も同じくこの時の有志的な功績が見込まれて手柄を立てる優先権を得、佐々長穐( ささ ながあき )、佐々成政らの活躍が目立つようになる。また、今川勢を少しでも道連れにするべく、わずかの手勢で最後まで丸根砦防衛で奮戦、手痛い反撃を喰らわせた上で戦死した佐久間盛重( さくま もりしげ。佐久間本家の当主 )も、今川勢の進行を大いに鈍らせることになり、これも織田勢勝利に結びついた功績として見込まれ、佐久間家は改めて家臣団筆頭として優遇扱いされることになった。功績面では、敵総大将の今川義元を協力して討ち取った服部一忠と毛利良勝ばかりが注目されがちだが、このように、他にもそれぞれ有志的に評価されていることが窺える。千秋家当主であった千秋季忠は若干20歳で戦死してしまったため、本家筋としての跡取りが潰( つい )えてしまったと思われたが、婚姻間もなく妻が身ごもっていたことで、重宝されながら皆で大事に育てられることになった。のち徳川政権時代に入り、御三家の尾張徳川家も、織田時代の千秋家の家格自体は特に変更されることはなく熱田社は大事にされ、優遇扱いが続けられることになった。千秋家とその一族郎党たちは神官武士としてだけでなく神道( 地方議会の象徴 )の支え役として、そのような貴重な有志的な意地まで見せ、廷臣たちよりも明らかに手本的な等族義務を果たしていた。そのような有志的な連携を経て台頭、畿内再統一に乗り出した織田氏の存在に、廷臣たちはなお気まずかったのも間違いない所なのである。

 

千秋家のことを知るには、戦国後期を迎えるまでの地方の様子について、文献項で状況が理解された上でないと、今回の説明だけ読んでもなぜそういえるのかが理解できないであろうと思ったから、時間的に少し手間取ってしまったが、やむなく文献項を用いる判断に至った。

 

廷臣たちも大いに注目するようになった織田信秀の台頭期や、浄土真宗が遠隔地間統制における参勤交代の前身をやり始めて地方に改めて脅威を与え始めた様子や、織田信長の尾張再統一期に今川義元も焦って、今川序列権威で三河再統一ができていかのように判物を頻繁に発給している様子、商才に優れていた加藤一族が尾張産業で活躍していた様子など、見どころの多い紹介を続けていきたい所だったが、惜しいが今回で、千秋家の項と、織田信長の人事の特徴の説明をこれで締めくくるとする。