本能寺の変とはなんだったのか90/95 本能寺の変の全体像36/41 2025/04/29
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~35」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述足利義材の要請
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~14
※ 本能寺の変の全体像21~35 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )15/19
※ 前回 永正十一年 1514 年末まで、からの続き。
1515/02/20、四郎二郎、尾張国津島社の堀田二郎五郎に大工所を売る。四郎二郎売券 堀田右馬太夫家文書。※ この頃には津島社( 海東郡 )も、熱田社( 愛智郡 )と並ぶ農工商の中心地( 産業と軍需の指標地・誓願文写し管理地 = 地方内領域敷居管理地 = 次世代下剋上社会化による地政学的地方議会の芽生え = 戦国後期に向かう過程 )への形成が見え始めていたことが窺える。売券の原文は、今回のものもこれまでのものも体裁的で短めで、譲渡の経緯は追えても経済事情は窺えない。手続きさえ通ればよいかのような、寺院( 有徳。うとく )がその公証人役として誓願文写しの保管役がただ果たされればよいかのように、完全に慣習任せであったのは間違いない。広域地方間どころか地方内地域間でいつまでもバラバラな閉鎖慣習のままを、そこを性善説放任主義任せに野放し( 何もかもを旧慣習任せに徹底的にケンカ腰に面倒がり合う顔色の窺わせ合いの下の作り合い = 何もかもを手遅れ寸前と手遅れの狭間を認識の初動にさせ合うための偽善憎悪の押し付け合いの老害教義主義 = 上同士の手本の作り合いをうやむやに壊し合う低次元同士であり続けようとする、今の日本の教育機関とそのただのいいなりどものような反国際地政学主義・反近代議会主義でしかない無関心・無神経・無計画な勝手な条件の作り合いの偽善憎悪のたらい回し合いの姿そのもの )にされ続ける状態、そこへの次世代等族指導( まずは上同士の次世代地政学議会的な序列敷居の見直しを基本とする、外や下に対する領域敷居管理的な手本の作り合い )が行き渡っていない状態を上同士はいつまでも見過ごさずに、そこをまずは上同士で前近代的な評議名義性と選任議決性といえる誓願文写し管理で対処していかなければ、すなわちまずは上からの次世代家格再整備( 人事敷居整備 )を進めなければ、いつまでも次の段階に進まない支障となる。世俗権威側( 地方上層ら武家側 )に対し、そういう所への対抗運動に動くようになった浄土真宗( 公的教義を肩代わりし始めた聖属権威側 )が、遠隔地間で先駆けで対策を試みるようになった近代謄本登録的な相続保証権( 上同士が本来果たさなければならなかった、次世代身分制議会のための等族指導。室町体制が克服できなかったからのちに尾張織田家がそのための官民再分離・前期型兵農分離・旗本吏僚体制で肩代わりするようになった、身分制議会史の特に大事な部分 )で顕著だった部分になる。そもそものそうした上同士の役分( その序列に相応の手本家長といえる地政学観・等族指導のあり方 )を巡るまずは上からの問題を上( 序列権限の大きい順 )から克服し得なかったのが、室町序列権威崩壊の根本原因であり、その前近代社会化にいい加減に向き合わなければならなくなったことの上同士の気まずさが認識され始めたのが、日本でも西洋でも共通の16世紀の特徴。ではどうすればいいのかについてはともかくの、そこへの深刻さや気まずさ自体は少なくとも上同士ではこの頃はもたれていたのは間違いない。買主であるこの堀田家は津島社との縁の寺社領内の地域家長のひとつだったと見られるが、右馬太夫( うまだゆう )を名乗っていることから、津島近隣の寺家代官役の弾正忠織田家からは少なくとも認知はされているようなちょっとした地域家長だったことが窺える。この頃には、次世代下剋上的( 旧慣習に疑問がもたれながらの多様機能的・前近代分業的 )な産業( 地域資産管理と開発の前近代的な庶民政治体制 )と軍需( 法的序列保安。官民再分離。公務士分側としての武装・帯刀資格の前近代的敷居の見直し )の社会認識が改めてもたれ、次の段階になり始めている中での、旧序列慣習( 上同士としての手本の作り合いを徹底的に面倒がり合いケンカ腰にうやむやに壊し合っているだけの、手遅れ寸前と手遅れの狭間になってからが何もかもが初動であり続ける無関心・無神経・無計画な性善説放任主義任せの偽善憎悪のたらい回し合いで下を作り合うのみの旧弊害社訓 = 目先の利害次第に下を作り合うのみの偽善憎悪を乱立拡散させ合い低次元化させ合うことしか能がない自分たちのその愚かさだらしなさを自分たちで仕切り直す克服・更新ができたことがないにも拘わらず、身の程知らずにも合格・高次元/失格・低次元を領域敷居管理・更新する上の立場を気取り合いケンカ腰にねじ伏せ合いたがる今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもの姿そのもの )への課題に対する上同士の視点( 国際地政学観の情報・技術・資本交流戦的な社会心理 = 近代議会的な等族指導のための誓願文写し管理・議事録処理 )で敷居整備( まずは上同士での広域的な序列敷居の、旧廃策的・更新的な見直しの手本の作り合い )することにモタつきがち、その多様細分化の流通代替法が間に合わなくなりがち、そこに力量差がひらいていきがち、なのは当時にしても江戸時代の経済景気期にしても現代でも、個人間でも組織間でも荀子・韓非子や孫子の兵法の組織論・構想論で指摘されている基本中の基本になる。地域間交流における領域敷居管理など曖昧なままの、地元の近場間の閉鎖都合さえ良ければよいかのような( だからこそ、今後の賦課税制と地方間・地域間の情報・技術・資本の広域交流にも関係してくる次の段階の下・庶民政治体制側とその上・等族指導側の今後のあり方の問題を、まずは上同士でさっさと旧廃策的に次世代整備に動かなければならなかった、そのための評議名義性と選任議決性を巡る選挙戦的争和によって、まずは上同士で絶対家長的・選任序列的な再統制で対処しなければならなかった、室町体制で整備しなければならなかったができなかったからその序列権威も崩壊。そういう所で、日本の自力教義の主導を肩代わりし始めた聖属側の浄土真宗を怒らせ、下々の面倒見役・等族指導役・寺社領再統制のあり方を巡って遠隔地間で世俗権威側を煽り始め、それに世俗側もあせって領域敷居整備し始め、戦国後期に向かうようになった大事な特徴 )ただの官職特権と地代感覚の譲渡手続きのためのものと化す一方になっていたものが多かったのは間違いない。こういう所を尾張ではのちに、津島・勝幡( つしま・しょばた )近隣の寺家代官役の弾正家( 織田信秀・織田信長の家系 )が、時折は揉めつつも津島神社( 津島産業で商才に優れていた資産家の加藤一族や、氏子武士の祖父江氏ら )と熱田神宮( 千秋氏 )を介した大手寺社領間交流( 地政学観 )の連携努力( まずは上同士としての等族指導 )をまずは大事にさせていくことで、他よりも2段階3段階の次世代整備( 戦国後期らしい広域領域敷居競争 )を進めていくことになるのである。
1515/03/03、越前の朝倉孝景、三河の明眼寺( みょうげんじ。妙源寺。碧海郡の浄土真宗 )に対し、真智の専修寺入山につき祝辞を伝える。朝倉孝景書状 法雲寺文書。 ※ この朝倉孝景( あさくら たかがけ )は、のち織田信長と対立する( 織田氏の畿内再統一・中央敷居改めに対する妨害に出る )ことになる朝倉義景( あさくら よしかげ )の先代の父にあたる人物だが、戦国後期の突入期において優れた形で台頭した織田信秀( 織田信長の父 )、尼子経久( あまご つねひさ。中国地方の大手権威の基礎を作った )らと並ぶひとりになる。朝倉孝景がまだ若年当主期の頃ではあるが、戦国後期への突入期を支えた( = 近隣に広域領域敷居競争の手本の影響を与えた )著名なひとりがここで文献上で出てきたため、本文献のことも下述するが、どのような情勢に向かっていったのかについてを先に説明しておきたい。まず、戦国後期の認識が強まる 1540 年代頃の時期というのは、地方間の上同士の見方として、群雄( 他よりも地方再統一を進められていた有力な地方軍閥らしい、その明確な代表家長・まずは上同士からの等族指導役らしい姿を近隣に見せ付け始めた戦国大名 )と見なされ始めた所と、そこに遅れを取っていた地方( 代表格らしい地政学的序列敷居といえる序列威厳・等族統制力がいつまでも保たれない地方/常に長続きせずまとまりがない地方。地方全体をまとめ直すことができるかも知れない郡のまとめ役からの代表候補のありかすらいつまでもはっきりしない地方 )との、地政学的力量差( 各地方議会ごとの敷居管理力差。代表を始めとする序列敷居の見直し = 絶対家長的な選任性による、まずは上からの各序列ごとの等族指導役・手本のあり方の見直しの認識 = 地方判物による旧寺社領慣習改め・閉鎖有徳改め・地方内地域間交流改め がどれだけ進められているのか = 16世紀のキリスト教社会でも、帝国議会による各教区上層の司教・高位司祭たちも含める等族諸侯改めも全く同じ )が顕在化し始める。それは、選任的な再統一( 敷居改め )にモタついている地方を、他よりもそれが進められていた群雄側が草刈り場( 総家長権争いにおける支配化登録先と見なす。広域・遠隔領域敷居管理する対象 )にし始める認識( イタリアのトスカーナ州フィレンツェ共和国でまさにその暗黒時代を体験した、孫子の兵法の組織論に共通するマキアベリの指摘通りの認識 = 争和の前の軍役・軍需体制の力量差に直結する国際交流社会観・広域異環境間の情報・技術・物流資本の多様分業社会化法改め、による前近代軍兵站体制差・次世代構想力差・国際国家議会的な情報戦的外交敷居差から、勝負や交渉をする前から互いにどれだけ国債発行・債務信用管理ができているのか、教義圏全体の次世代資産管理的な施政・等族指導が行き渡っているのかの段階でその格上側と格下側の立場というのがはっきりしてしまう認識 = そうした次の段階の上同士の評議力・選任力の敷居不足差を埋めるための自分たちの上同士のあり方の情報戦的敷居の見直し を徹底的にケンカ腰に面倒がり合う目先の利害次第の顔色の窺わせ合いで自分たちにとっての上同士の手本の作り合いを壊し合わせ荒らし合わせる下の作り合いのみの、猿芝居劇場に過ぎない禁門教義主義・性善説放任主義・反等族議会主義でしかない老害慣習任せのただの偽善憎悪のたらい回し合いを延々と野放しにし続け低次元化させ合い続けることしか能がない寄せ集めは、旧廃策・家訓改めによる次の段階の地政学的等族指導・広域領域序列敷居管理をまずは上同士でさせ直させるための上から順番の等族指導役・絶対家長役・前近代総裁役を選任議会的・組織構想的・地域間交流的に仰ぎ直すことができている高次元側から、上から順番に裁かれて当然のただの低次元分子の集まりの気の小さいだらしない格下どもと見なされて当然という本来の上同士の最低限の認識 = のち織田信長が畿内再統一に乗り出したことは、そこを次の段階の選任序列が上同士で問われることを意味した、誰かがやらなければならなかったが織田氏しかできなかった大事な部分 = 教義圏の地政学史・身分再統制史でも、現代組織学でも基本中の基本の上同士の社会心理 )が強まることを意味する。しかしここで、その流れに向かったからこその一方の、上同士の内々の気まずさの次の段階の認識もされることになる。軍役・軍需に響いてくる内政全般の地方再統一で、地元をとりあえずはなんとかまとめることができるようになった地方が、それができていない近隣にその序列権威の睨みを効かせるようになる風潮が強まるようになるまではいいものの、逆に言えばようやく地元はまとめられるようなったというだけに過ぎないその地方裁判権止まり( 中央絶対家長的・手本的な序列敷居改め・誓願文写し管理の家訓改めによって、そこに至っていない近隣の次世代身分再統制を肩代わりする総家長権争いの広域領域敷居競争に至っていない、このままでは所詮は地方吏僚代理止まりの分際同士 )のままの力関係頼みにその序列権威をただ近隣に向け、ただ反抗派たちに圧力をかければ、排撃すれば次の段階に進む訳ではない( 威力をただ向けるのみで次世代身分制議会改め・前近代家訓改めなどできる訳がない = 産業と軍需の情報・技術・資本の交流の見方の近代議会的な広域領域敷居管理体制が前提になっていない、ただの数物威力の勢い任せのソンナコトモワカランノカ感・ナニヲサカラットルンダ感のたらい回し合い・顔色の窺わせ合いは一時的な下の作り合いでしかない = 手遅れ寸前と手遅れの狭間初動主義・性善説放任主義の老害体質のその愚かさだらしなさがまずは上同士・等族指導役側から改善されていく訳もない = 低次元化防止策・旧廃策のための次の段階へのまずは上同士の評議名義性・選任議決性の領域敷居管理体制に向かう訳がない )ということを思い知る次の段階を迎える。16世紀に顕著になったこの前近代議会政権の芽生えは日本でも西洋でも、また19世紀以降の国家間の国際地政学的領域管理でも、そして現代における組織構想や目的構築のあり方でもその根底( 上同士の社会心理 )は同じことがいえる部分だからこそ、その基本的( 国際人道観的・民権言論的・組織構想的 )な見渡し方がまずできていなければ、当時にしても現代にしても大事なこと( 人事序列敷居管理 )など見渡せる訳もない。その次の段階とはすなわち地方遠隔間の広域領域敷居管理体制、もはや次世代国家構想といえる政権議会の形成に向けてさらなる再整備に向かわせなければならない段階に直面、だからこそではどうすればいいのかについて上同士で改めて気まずく認識されるようになったという意味になる。次の段階に進むからこその次の壁( 地方内地域間から地方間遠隔地間への、人事敷居整備・各階層の家長権序列再統制の広域地政学観の向き合い = 日本でも西洋でも前近代地政学的議会の芽生えの16世紀の特徴 )に直面し、そこに改めて難儀する貴重な体験をするようになったのが、尼子経久( 出雲・伯耆 )、朝倉孝景( 越前 )、織田信秀( 尾張 )これらの世代になる。そしてこの上同士の事情は、それらと同じようにだいぶ努力できていた方だった甲斐の武田信虎( たけだ のぶとら。武田信玄の先代 )、駿河の今川氏親( いまがわ うじちか。今川義元の先代 )、越後の長尾為景( ながお ためかげ。上杉謙信の先代 )らも全く同じになる。これらは地元の地方内地域間はなんとかまとめることはできるようになったからこそ、次代たちにその次の段階をどう中継していけるのかが上同士で改めて問われることになった大事な世代、そういう所が後々の差に現れることにもなる貴重な世代になる。大事な中継者たちだから繰り返すが、これらはなんとか地元はまとめ直すことができるようになっただけでも、それもできずに旧序列権威にただしがみつき続けて衰退・崩壊に向かう一方だった地方( = 畿内のように旧室町体制の管領・守護序列権威にいつまでも頼り続けたことで地方再統一が遅々として進まなかった、そこが足枷になり続けた地方 )と比べればだいぶ良い方だったからこそ、その次の段階のもっと大きな壁( 国際地政学観・次世代国家構想といえる広域領域敷居管理の手本競争がいかにできるか )に上同士で改めて難儀し、そこに内々では気まずい体験をすることにもなった貴重な世代だったのである。戦国後期の尾張織田氏( 織田信長 )の台頭期までに、他となぜ広域領域敷居管理差がついてしまったのかは、他ができていなかった織田信長時代の人事敷居差と、その先代の織田信秀までの尾張織田氏の経緯をざっと見渡すだけでも、強引な後付けを避ける無理のない地政学的な理由が自然に見えて来る。次世代地域間交流( 前近代街道整備。前期型兵農分離。官民再分離。上から下までの各家長序列の家訓改め )への大きな足枷の弊害のひとつであった、まずは上同士の次世代人事統制にモタつく分だけ、下同士で下を作り合う旧態閉鎖慣習が性善説放任主義的に野放しにされ続けることの、下同士の勝手な条件・序列権威の作り合い が原因の人身売買の奴隷制に低次元化させかねない売券慣習に対する、その低次元化を長引かせないための旧廃策・旧態地域間身分慣習改め( 閉鎖有徳改め )をさっさと敷かなければならないあせり( 地方再統一・地方議会改め・前近代的な謄本登録制の次世代身分制議会。次の段階の産業と軍需のための賦課・税制・福祉等の見直し )からはっきりしている。そもそもの荀子主義的なこの親子( 織田信秀と織田信長 )の性分からして、手遅れ寸前と手遅れの狭間になってから偽善憎悪のたらい回し合いの低次元な顔色の窺わせ合いを始めることしか能がないような、ケンカ腰に上の立場を気取っておきながら準備要領( 次世代議事録処理体制。次の段階への選任評議構想序列体制の敷居管理の手本の作り合い )を自分たちで作れたことがない有様の、上同士のそのだらしない低次元な認識が上同士で何も変わっていない所が旧廃策( 次世代下剋上的な人事敷居改め )の等族指導どころ( 議事録処理どころ、誓願文写し管理どころ )になっているかどうか、そうなってしまった後の怒りが、そうなる前の5年前10年前の段階でその10倍100倍の怒り( 重苦しさ )を、下( 外 )に向ける前に先に上同士( 自分たち )で上から順番に向け合うことができているかどうか、その本来の組織構想的・次世代地政学議会的な、まずは上同士の序列の見直し・更新の議事録処理・誓願文写し管理の品性規律が守られているのかどうか、まずそこを等族指導どころ( = どの段階でどう対処していくのが適正だったのか、低次元化防止の序列権威として機能しているのかどうか、その合格・高次元/失格・低次元を時系列分析的・広域地政学的に議事録処理・敷居管理する側の上同士の立場としての手本の作り合い )にできているのかどうか、という基本中の基本の手本家長らしい姿勢から、そういう所から組織間の広域領域敷居差が開いていくのも当然の話なのである。孫子の兵法における組織論の前提でも特に指摘されている部分( 目先の利害次第の下の作り合いの威力の向け合い が領域敷居競争なのではない。上同士でそういう所を序列敷居改善できておらず遅れを取っている相手のだらしない欠陥を突き合う上同士の社会心理からの情報分析戦、すなわち広域地政学観の情報・技術・資本の交流敷居管理面・分業序列再整備面・謄本登録的な債務統制面の敷居差が軍事統制面でも大きく響いて優劣の大局が決してしまう = 上同士・等族指導役としてのその取り組みの自分たちの水準作りと、ただの偽善憎悪・老害慣習・猿芝居劇場のたらい回し合いでしかないだらしなさの境界管理・序列敷居区別・自己等族統制も自分たちでできたこともない今の日本の教育機関とそのただのいいなりどものような、末期症状になってからが何もかもが初動の偽善教義主義・老害権力主義をたらい回し合い下を作り合うことしか能がない格下の集まりの分際側は、高次元側との領域敷居競争に次第にごまかしが効かなくなり/公判維持できなくなり崩れ始めて当然 = 勝敗の水準の主導がどちらなのか、どちらが裁く側・低次元化防止側の国際裁判権の手本側なのかの力量差が開く一方になって当然 = 己・自分たちを知り敵・相手を知れば の地政学的情報戦・国際敷居戦の基本 )になる。本文献項の視点に少し戻し、朝倉孝景は織田信秀よりもひと回り先の世代ではあるが、のち織田信秀が津島経済を中心に尾張をまとめ直して( 戦国後期らしい地方再統制の前身手本を示して )次代の織田信長への有利な基盤固めを作っておいてくれたのと同じく朝倉孝景も、次代の朝倉義景( あさくら よしかげ。のち畿内再統一に乗り出した織田信長に対し、旧室町権威派・反織田派として対立 )に有利な基盤固めの、大事な役割を果たすことはしていた。だからこちら( 朝倉孝景ら )も少なくとも実績面では織田信秀に決して劣っていない、他もだいぶ手本家長らしい努力はできていたといえる。そうした戦国後期の突入期には、なんとか地方はまとめられそうな所とそうでない地方とで差が顕著になり始めるようになる。のちの戦国後期の著名な群雄たち( 武田信玄、上杉謙信、北条氏康ら )はそもそもその先代たちが、次代たちに向けて有利な基盤固めを他よりも有利に進めてくれていたからこそ、地方大手として近隣に睨みを効かせる序列権威( 戦国大名 )を維持できた部分が大きかった。なぜ戦国終焉期に向かうことができたのか( 旧室町序列体制で克服できなかった次世代身分制議会を巡る、上同士が本来しなければならなかった次の段階、すなわち総家長権・絶対家長の再認識からの上同士の序列全体の見直しを巡る前近代総選挙的な評議名義性と選任議決性の争和がやっとされるようになった )、すなわち織田氏( 畿内再統一・中央敷居改めができる高次元側 = のちの賤ヶ岳の戦い・関ヶ原の戦いの手本 )とその他( それができない地方裁判権止まりの、等族指導・家格再裁定を受けなければならない地方吏僚の分際側 )とでなぜ大差となる一方になっていったのか、以下にその好例の荀子主義的な故事を挙げる。
※ 古代中国、大陸統一の周王朝が崩壊、文化領域割拠して以来、再び中国大陸が統一国家の姿を見せるまでに長引いた時代を、春秋戦国時代( しゅんじゅう せんごくじだい )と呼ぶ。春秋前半では10ヵ国以上が割拠、春秋後半までに弱小は併合され、韓( かん )、趙( ちょう )、魏( ぎ )、燕( えん )、斉( せい )、秦( しん )の7ヵ国に集約。ここからも年月はだいぶかかったもの、中国大陸全土の統一国家に向けての領域敷居競争が芽生え始める時代に入り、だから時間をかけて次世代的な軍事学や政治学が見直される時代にもなった。この中で結果的に、周王朝以来の中国再統一を果たし、始皇帝を輩出することになったのが荀子・韓非子の組織論を導入して急成長( 孟子悪用主義による性善説放任主義の長引かせこそが中国大陸全土の再統一がいつまでも進まない、次の段階に進まない低次元化の原因とする名目・強国化方針が秦で固められるきっかけとなった。孟子悪用主義に対する異学の禁を用いて一掃、上同士からの王権・家長権の荀子主義的な序列見直しが始まり、強力な敷居競争体制が敷かれる。秦による大陸再統一後に孟子主義者狩りの行き過ぎの弾圧に向かってしまったのが、あの有名な焚書坑儒 )を始めた秦だったが、その秦の国家革命( 次世代化 )が起きるまでは、それまで文明大国として常に優勢を維持し続けてきた斉( 近隣の弱小を併合。中国大陸中西部の広大な文化領域を維持してきた )が、大陸再統一候補の強国として見なされ、その次の強国が趙で、秦は春秋後期まで生き残ることは確かにできていても、中国大陸の覇権争いに目立って参加できたことなどない西方( 今の四川省方面 )の山岳部の田舎国家という見なされ方が、それまではされてきた国家だった。大陸再統一の候補など見なされてこなかった秦が、のちに大陸再統一を果たす始皇帝の始まりとなる。しかし秦による大陸再統一も束の間、周王朝以来の大陸再統一の難しさが浮き彫りになるばかりに、秦は30年ももたない形で長続きせずに( 結局は中途半端な荀子・韓非子主義の導入のされ方だった。人類が近世議会の敷居に少しは向き合われるようになるまでここからあと1000年以上必要だった )始皇帝死後には、早々に世直し・民権運動の大規模な乱世を招く。打倒秦のきっかけとなった、庶民上がりの反乱王であった陳勝( ちんしょう )が皇帝の肩代わり役と見なされるも、勢い任せの打倒秦の一致で反感分子たちを結束させていた感も強かったその序列体制は、管区整備の統治に向けての序列整備が間に合わずに早々に崩壊。もうひとりの庶民上がりの劉邦( りゅうほう )が熱烈な人気の支持を得る形で、苦戦を経て楚、魏、趙ら有力の再割拠をまとめ直す形で改めて秦崩壊後の大陸再統一・漢王朝が設立。劉一族体制による400年近くの長期を経て、その崩壊期である後漢末期の時代( 三国志の時代 )を迎える。今回の本題となる、北方の小国の燕に視点を戻し、春秋後半期の7ヵ国( 7王室・7文化圏 )の集約期までは燕はなんとか行き残ったが、この残存の中では最も小国で、強国である斉あたりに真っ先に消滅・併合させられであろうと見なされる風潮が強かった。弱小感が常につきまとったからこそ、列強からの外圧への対応に常に難儀しがちであった燕は、内乱を抑えられなくなった( 国内再統一に難儀するようになった )のを機に斉の圧力に対応できなくなり、斉文化圏・序列権威による燕の併合も時間の問題の属国扱いの、燕王室の消滅危機を迎える。燕文化圏の序列権威がすっかり崩れた中、燕王は再建に懸命に動くも、ただでさえ小国で不利だった中で、斉から従属国扱いに首根っこを掴まれる形で、いよいよ消滅も時間の問題と見なされたような燕国の序列権威に価値などないと見なされるようになる。そのように燕文化圏の再構築などもはや無理であろうという見方が大陸全土に強まっていた中でも、燕王は最後まで諦めずに再建努力に懸命に動き、ここで燕にとっての救世主となる、あの賢人( 政治研究者 )の郭隗( かくかい )が燕王の下( もと )に駆け付け、意気投合の目覚ましい燕の再起劇が始まる。燕王は「議会を立て直すために有能な人材を応募しようにも、財力にも技術文明にも優れた斉や趙にばかり学者ら人材が集まり、一方で我が燕国は消滅も時間の問題の弱小だと大陸中からすっかり見なされてしまい、全く人材が集まらないこの状況をどうしたらよいか?」と郭隗に相談した所「議会再建や新設というのは、魅力のある企画でなければならないの同時に、旧態権力で凝り固まらせないためにも解散させる再統制・再構築の前提を強調しておく、初動の人事構想が肝心なのです」と献策し、ここで郭隗が前代未聞の人事計画を持ち掛ける。どちらにしても消滅覚悟であった燕王は、未踏の郭隗のその人事計画に興味を示して聞き入れ、燕国文化圏議会の人事統制における相談役顧問・長官に抜擢、委( ゆだ )ねることにした。郭隗はまず大臣に就任したのと同時にわざと、自身は大したことなどできない人物だと宣伝しながら「燕国では、もし自身( 郭隗 )よりも優れた献策とその実施ができる者だと認定され次第に、出身に関係無しの人事交代制が導入されることになった」と宣伝。当時の議席権限は王族の外戚特権者たち( 王家の有力家来筋たち )が領地特権の威力任せに睨みを効かせ合いながら、蹴落とし合いの権限独占をし合う風潮や、力をつけて王族本家を操ろうとするような序列の崩し合いも常に蔓延しがちで、そこに各国の王族も悩みがちだった。だから王権など常に不安定なまま上同士の結束などなかなか図れない場合も多かった当時( 孔子のそもそもの、国家統制の指摘の外戚家長権問題 )に、今まで見たことも聞いたこともないそのような人事政策が燕で宣伝されたため、人々も最初は半信半疑ながら政局に問い合わせるべく集まった。郭隗は、燕の政局人事に駆け付けた人々の中で有能だと認定した者に対し、自身がその者に議席を譲る際に「私( 郭隗 )があなたのことを、私よりも有能だと認定して燕王に推挙して議席を譲るように、あなたも就任後にそれと同じことを必ずすると誓えますか? あなたが、自身よりも有能だと認定できるような新参がもし現れた時に、同じようにその者にそれを誓わせた上で( 燕のその慣習を守らせる手本となる前提で )議席を譲るという等族義務を、あなたは果たす前提でその地位に就任することをあなたは誓えますか?」と、議席を譲るにあたってその典礼をとにかく念押しした上で、議席を譲ったのである。郭隗は大臣の議席を新参たちに、出身に無関係に譲った後も、燕王の代理人として大臣以下の各序列の人事統制の担当は続け、約束通り議席の譲り合いができている者に対して退任評価を与えながら、別の職権や退職金や年金を面倒見良く手配した。その人事策によって「自身は前任者に評価・推挙してもらってこの家格経歴を手に入れることができたのに、自身も同じように有能な新参を見つけて自身の地位・議席を譲る、というその約束が果たさていないと見なされてしまえば、人事顧問の郭隗先生から正当な退任評価を受けられない、それだと年金や退職金などの斡旋も受けられなくなってしまう以前に、自身のせっかくの家格経歴の評判もガタ落ちになるかも知れない、その後の我が家系は不利になる一方になってしまうかも知れない」という上同士の有志的な議席の譲り合いの序列風潮を作ることに成功する。消滅寸前で燕の外戚権威なども崩壊していたからこそ開き直ることもできた燕国の、その異例の人事改革は中国大陸全土で大評判となった。一方で、強国だから設備・体制もその分だけ整っているからこそ文化人たちがそこに多く集まるのはいいとしても、家格経歴などない出身の低い多くの有志の新参たちというのは、もし画期的な献策が上奏できたとしても議席の譲り合いなどできていない権力者間でそう簡単に知遇が得られる訳でもない。献策しても結局良い所だけもっていかれる、つまり蹴落とし合いに忙しい有力者層の所でその手柄の大部分は横取りされるのみ( 韓の外戚・貴族層出身であった韓非子がまさにそうだった。韓の議会で外戚に妨害される形で採用されることがなかったその韓非子の組織論の整理書を、皮肉にも秦王が導入する形で秦の強国化を助長。韓は制圧されることになる )の、ちょっとした報酬だけでお払い箱扱いされることも少なくなかった。そのように、そういう所で無名の新参有志たちを失望させる風潮もまた強かった当時の、埋もれがちな人材たちが燕の人事改革に魅力を感じるのも当然で、だから無名の新参有志たちの多くは「もしかしたら燕だったら、正当な知遇が得られるかも知れない」と魅力を感じて燕に駆け付け、学問所を介した燕の文化情報交流も盛況となった。強国側で優れた軍事整備役・政治整備役の実績をもっていた顧問官たちの中にも、有志の集( つど )いの場と急に化した燕に魅力を感じ始めるようになり、そこでの地位・待遇を返上して強国を去り、燕に駆け付ける著名人( 特に楽毅が著名。のち後漢末に諸葛亮が、人の上に立つ手本としていた挙げていた仁智に優れた将軍として有名 )まで現れ始める。燕は郭隗の人事改革の導入をきっかけに、それまでの斉との力関係を解消するほどの、あなどれない強国として再建することに成功する。ただしこの郭隗の人事改革による強国策は、郭隗が人事顧問を担当した期間までしか維持できず、残念ながら長続きはしなかったものの、それでもこれをきっかけに、のちの秦の台頭による大陸再統一によって各列強が消滅させられることになるまで、燕文化序列圏は危うく消滅危機は逃れてなんとか存続し得ることができた。
※ 現代ですら、20代30代の小僧小娘ならともかく40過ぎてもこの意味の重要性をそもそも認識( 自己等族統制 )できるようになるまでに数年かかるような有様のその段階から10年後に、こうした本来の上同士の等族議会的な認識が反映された評議・選任ができるようになっているのか現代ですら怪しいことこの上ないのに、今から2000年以上前の前近代議会の芽生えなどまだまだな古代中国の春秋戦国期に、その流れを壊さずに50年100年と維持し続けることなどもっと難しい話になる。そうした繰り返しを経た16世紀にようやく上同士で少しは向き合われることになって、日本では織田氏による畿内再統一( 地域間交流の阻害・低次元化の原因の旧態序列権威の一斉の巻き上げと再手配。次世代身分制議会の仕切り直しの旧廃策 )の時の様子でもはっきりしていることとして、次の段階へ進もうとすれば大事なことを急に思い出したかのように敷居改めの機会を壊し合う反抗運動を起こそうとしたり、それを下方修正するために本能寺の変を起こそうとしたりの、様々な弊害を乗り越えるということが上同士でされなければ、そこを目先の利害次第にだらしなくつまづいて精神的支柱を崩壊させ合っているだけの、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような目先の利害次第にうやむやに下を作り合うことしか能がない気の小さい法賊ども( 偽善者ども・低次元化分子ども )が、次の段階に進める( 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させない )ための等族指導役を評議・選任するための領域敷居管理を近代議会的に議事録管理・誓願文写し管理していくという、上同士の本来のあり方に立ち返ろうとする訳がない。その自分たちの手本の作り合いなどしようとしないどころか、そこを大対数の低次元同士による目先の利害次第の顔色の窺わせ合いでうやむやに壊し合い荒らし合い足を引っ張り合うことしか能がない、そのたらし回し合いを自分たちでいつまでもやめ合う/やめさせ合うこともできないのはいつの時代でも同じ。そこは日本人であろうが西洋人であろうが中国人であろうが所詮は人間のやることの、現代の個人間や組織間でも大いに教訓にできるそれが人類の愚かさだらしなさの実態なのである。だからこの 隗より始めよ の本来の地政学史的・身分制議会史的・外戚間闘争史的な基本中の基本の最低限の意味( 上同士としての社会心理 )を、本質的に認識し合う上同士の手本の作り合いもいつまでも進まないままなのである。
※ ここで文献項の、戦国後期に向かう準備期の朝倉孝景時代の視点に戻り、寺社領再統制・次世代下剋上的家訓改め・謄本登録的家長権改めの強化版である地方再統一( 総家長主導を巡る広域領域敷居競争 = 手本国家的な地政学的総力戦体制の力量戦 )の認識が、しばらくの 1530 年代あたりから強まり始めるが、前近代化として旧室町体制が克服しなければならなかったができなかった、次の段階に不可欠だったこの荀子主義的な 隗から始めよ人事 に向けての世代交代( 退任評価まで含める、権限役分と扶持待遇を分離・返上体制に改めるための家格再裁定のまずは上から順番の上同士からの次世代身分制議会改め・国際地政学的国家吏僚体制 )ができていたのかできていなかったのかの部分が、尾張織田氏の台頭時代( 織田信長の時代 )に上同士の広域領域敷居管理差として顕著になった部分になる。次世代下剋上期の地政学的認識による時代変容を地方間で経験し、浄土真宗の監視の目も手伝って産業と軍需の見直しのための寺社領再統制( 下々の面倒見のあり方。管区整備的な庶民政治体制の改善 )にようやく少しは向き合うようになって以来の上同士というのは、戦国後期の突入期までには、旧室町体制が結局克服し得なかった、上同士でしなければならなかったこの 隗から始めよ人事 にも広域領域敷居競争( 地方吏僚に対する中央吏僚側の格式整備の主導 = 総家長権争い = 国際裁判権争い )の一環として向き合わなければならないことも、上同士の内心では解り切っていた部分になる。しかしのちの尾張織田氏以外は、せいぜい地方をまとめるができた止まりに過ぎず、日本全体を再統制・管区整備できる敷居に至っていない、日本の今後のための海外間情報技術敷居管理・国際情報戦などできない地方裁判権止まりに過ぎない分際であること、すなわち中央総家長としての上から順番の、中央吏僚たちと地方吏僚たちへの等族指導役の手本の 隗から始めよ人事 の各階層の等族統制・領域敷居管理がこれからは上同士で果たされなければならない段階に入っていた こと自体は、1540 年代にとうとう西洋のキリスト教徒たち( キリスト教圏の代表国家を肩代わりするようになった強国スペインとしての、その外交大使役のイエズス会士たち )が遠隔教義圏間においての情報・技術・資本の国際間交流を求めて正式に日本にやってきてしまったことからも、その海外交流対策のための大使館体制問題( 朝廷問題。廷臣たちが世俗権威側と連携、さっさと中央再建に向けての国際教義改めを公的教義と共に努力しなければならなかったが、今までの正しさのための教義序列権威・旧門閥序列主義・名族高官主義といつまでも決別できずに一向に前に進まなかった。だからのちに畿内に乗り込んだ織田信長が上同士のそういう所をとうとう恫喝。家臣団筆頭の佐久間信盛に世俗権威側の織田政権と、聖属権威側の廷臣たちとの折衝役を任せるが、廷臣側が佐久間信盛を格上運動することによるおもちゃ扱いの懐柔に動いて、うやむやなままの聖属側の旧態序列権威を認めさせようと出た。聖属議会側の評議と議決における議席序列敷居改めをはっきりさせる前に世俗権威側の序列を勝手に印象操作しようとした、佐久間信盛を第二の足利義昭にしようとした不真面目な廷臣たちが織田信長を激怒させることになる。その手口は通用しないことを思い知らせるべく、残酷ではあるが佐久間信盛にも問題はゼロではない見なされてしまう形の上同士の厳しさの追放処置に至ってしまった。この部分はのちの徳川政権・江戸幕府の体制作りで大いに手本にされた部分。また徳川政権はのち佐久間家の家格も見直し、小口ではあるものの、徳川家の譜代でもないのに大名資格も与えるという特別処置で救済している。話は戻り、次世代身分制議会改めに向き合おうとしない廷臣たちがまたしてもここでそこをうやむやにしようとした、その代弁者として佐久間信盛を用意してもらってもそれをおもちゃ扱いにしかできない所を、物的権威の面倒見役を改めて前近代的に明確化することになった世俗権威側の織田政権としてはもう許さない、ここでうやむやにし合うことはもう許さない時代に入ったことを思い知らせた。廷臣たちが自分たちの交渉役の代弁者の選任も自分たちでできないだらしない有様だからわざわざ用意してもらった佐久間信盛に対し、それをきっかけに選任的に連携しなければならなかったのを自分たちでおもちゃ扱いにたらい回して犠牲に追い込み合うことしかできなかった、そういう所を聖属権威側はこれまで改善してこれなかった、当時の朝廷の廷臣たちの気まずかった立場。戦国大名たちよりも格上の立場だった家臣団筆頭の佐久間信盛に対する、凄まじい失脚劇人事統制を、廷臣たちだけでない、格下げ覚悟でさっさと織田政権に臣従しようとしなかった地方裁判権止まりどもにそこを見せ付けたことによって、それで廷臣たちはようやく自分たちの置かれている立場に少しは気づいた有様だった。そのまとまりのない廷臣どもに対する織田信長の寛大もいい所の「もう2度目はないぞ!」の、その後釜の明智光秀に廷臣たちが泣きついて困らせた。本能寺の変を知る上での、当時の上同士の社会心理 )からも上同士では、そういう所は解り切っていて( 中央再統一の見通しなどない地方裁判権止まり同士の地方間闘争をダラダラと続けている場合でもなくなってきている状況に )気まずかった部分になる。戦国終焉期( 織田政権時代 )の問われ所の上同士の問題として、特に人材慣習改め( 小地域家長の親類扱いですらないその下っ端もいい所の出身の木下秀吉に、その主筋の浅野軍団の家長権を交代させる。新参もいい所の上に大した権力基盤など維持できていなかった没落筋の明智光秀に、旧美濃国衆や旧室町衰退筋を率いさせる。そこをごねずに上同士の議席の譲り合いの手本の作り合いに応じた浅野長政、斎藤利三らも賢明な有志 )を進めるようになった織田信長から恫喝される一方に、どの地方も気まずいことこの上なかったのが戦国終焉期( 地方への次世代敷居管理を取り仕切るための畿内・中央再統一の織田政権時代の、前期型兵農分離・旗本吏僚体制・街道整備 )の実態( 上同士の社会心理 )になる。
※ ここで本文献項の視点に戻り、一向一揆( 両旧態序列権威との決別運動 )の本場となった加賀( 石川県 )の、その隣である越前( 福井県 )でも浄土真宗の影響は強かったことで、越前の世俗権威側である朝倉氏は浄土真宗対策の争和も多かったことで知られる。この朝倉孝景が、越前は朝倉氏主導だとまとめていく流れを作るが、このように浄土真宗派たちも、常に世俗権威側に敵意を向け合っていた訳ではない、互いに問題が起きてまとまりがないという付け入る機会が表立たない平時は、領域支持の確認のし合いの支持戦的な関係が保たれる場合もあったことが、本文献で窺える。浄土真宗が世俗権威と決別的といっても、世俗権威側も寺社再領統制を努力するようになって、一方で浄土真宗としても地方軍閥の色が濃くなると、地方内の越前衆同士という同胞意識もいくらかあるからこそ、そういう元々の理由も表向きばかり強まる様子がこの頃から早くも出ていたと見てよい。原文では朝倉氏がこの時に浄土真宗に祝言だけでない、香炉や上質な布生地などの贈り物もしている様子から、世俗権威と決別的かどうかに関係なく、朝倉家としても相手がどのような寺社でも関係を決して軽んでしている訳ではないこと、浄土真宗派たちに何かあった時に懐柔する布石にしていたことも窺える。三河の浄土真宗派として影響力をもっていた妙眼寺の人事異動について、朝倉氏が越前の浄土真宗派である勝鬘寺を介して、厳密には地方分寺の人事統制役を請け負っていた専修寺に対して祝言を送ったという内容だが、浄土真宗の地方支部の支え役として目立っていた高田派専修寺のことと見られる。浄土真宗がひと足早く、遠隔地間の地方人事統制( 世俗側がしなければならなかったがモタついていた、家格的・家訓的な謄本登録制・相続権序列統制 )ができていた様子が窺える。
字数制限の都合で今回はここまでとなる。戦国後期に向かう過程で影響力があった著名人が文献上で登場してしまうと、ひと通りの説明を入れざるを得なくなるため終わらせることができず、どこかで区切りを付けたいと思いつつ、次回も続けていく。