近世日本の身分制社会(160/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか88/95  本能寺の変の全体像34/41 2025/03/27

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~33」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述足利義材の要請


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 ※ 本能寺の変の全体像15 で先述

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 ※ 本能寺の変の全体像16 で先述

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )

 ※ 本能寺の変の全体像17 で先述

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし

 ※ 本能寺の変の全体像18 で先述

 

 小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後

 ※ 本能寺の変の全体像19 で先述


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり

 ※ 本能寺の変の全体像20 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~12

 ※ 本能寺の変の全体像21~33 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )13/19

 ※ 前回 永正九年壬申 1512/02/01 まで、からの続き。

 

1512/05/26、久下政光( くげ まさみつ )、三河国篠田保などの所領の由緒を記した遺言状を作成する。久下政光置文草案久下文書。※ 省略しようと思ったが、原文に興味深い記述が多く見られるためやむなく紹介。まず冒頭で、当家は( 我が久下家は )清和源氏の多田満仲( ただ みつなか。多田家は武家政権を設立した源頼朝と近しい、源氏一族の有力親類 )の4番目の舎弟にあたる多田満重( ただ みつしげ )の後胤( こういん。家系図的にここからの子孫 )であることと、一族は久下・村岡・中沢・川原・東条など各地に一族が土着し、それぞれ地名をその氏に相替した、という家伝から遺言が始まっている。源頼朝( みなもと の よりとも )による石橋山合戦( 源氏の当主筋の、父の源義朝 みなもと の よしとも が平清盛 たいら の きよもり との政争に敗れ、源氏一族の当主筋とその重臣筋たちの政党的な権威が失墜。平清盛派たちは源氏一族の当主筋を潰し、政敵排撃で中央権力を大いに掌握したまではよいが、格上げが受けられた周囲はいいとしても、何ら良い待遇など得られないまま地方に強権で義務ばかり要求の、その人事差別の強まりに平氏一族内でも、内々では平清盛派に早くも反感を持ち始めるようになった。源氏の当主筋が潰されてしまったことで平家の当主筋の一党的な強権を抑えきれなくなる一方の深刻さがもたれ、そのため反感派たちは、いったん再起不能に追い込まれた源頼朝のことを源氏の当主筋と改めて見なし合い、そして源義朝の次代である源頼朝こそが、清盛体制を改めるための、平氏・源氏・廷臣筋出身の武士団に関わらずの全国の世俗・武士側のまとめ役・武家の棟梁だと皆で見なし合い、それを打倒清盛の旗頭としようとする動きを見せ始めた。反感がもたれがちだった平清盛派たちにとって不穏な情勢になり始め、だから頼朝人気の支持力・求心力が大きくなる前に平清盛派たちが源頼朝を潰しにかかったのが石橋山の戦い。源氏の当主筋としての力など回復しておらず、打倒清盛の気運も十分に温まっていなかった、名目・誓願式による結束が整っていなかったこの時点では、源頼朝のために駆け付けた武士団は少なかったため、簡単に鎮圧されてしまったものの源頼朝は取り逃がした。平清盛派たちによる序列権威に内心では納得していなかった地方有力者たちは、ゆくえをくらました源頼朝への追跡と引き渡しの要請に「どこに行ったのか我々も解らない。捜査の努力はしているが、我が領内には来ていない」ととぼけ続け、かくまい続けた。これらは源頼朝の居場所が発覚しそうになるとその逃亡を手引きし続け、このように源頼朝の追跡に清盛権威がモタついている間に、打倒清盛の連携を整えられることになる。特に東国で力をもっていた関東平氏たちは、これらは普段から結束できていた訳ではないものの、平清盛には内々ではかなり反感的であった所は利害一致していた。のち源頼朝の挙兵劇における関東平氏の後押でそこがはっきりすることになる。ちなみに源頼朝の再興戦で苦楽を共にし、劣勢でも一貫して源頼朝のために戦い続けて活躍が目立ったひとり 加藤景簾 かとう かげかど が名族加藤一族の祖。鎌倉時代には力をもっていても室町後半までに没落も多かった中、大きめの有力国衆としての生き残りであった加藤一族の末裔が、美濃の遠山一族。江戸時代の遠山の金さんの元になった家系。遠山氏だけでなく、尾張や三河の各地で加藤を名乗っていた小地域家長たちも、この加藤景簾を祖とする由来に誇りをもっていた )で源頼朝が追われた際に、相模( さがみ。神奈川県 )の土肥杉山に7騎( 有力者7名 )で隠れた折、この時に久下次郎重光が頼朝公を守ろうと250の手勢で駆け付けたことで、内々では源頼朝に期待を寄せていた各地の有力者たちを勇気付けるきっかけとなり、3000の勇士たちが駆け付け戦力らしい形になったと強調。久下家は、頼朝公再起( 源氏一族の当主筋としての政党的な再建 )におけるこの初動の勲功が特に評価され、久下家は恩賞として伊豆の玉川庄、参河( 宝飯郡。ほいぐん。基本は ほうはん で三河は慣習読みのようである )篠田保、丹波の栗作郷、美作の印庄これら遠隔領地( 地頭職 = 鎌倉幕府発足の、これからは世俗権威中心とするための、これまでの聖属領・荘園の物的統制権を今後は世俗権威が敷居管理するための、各地の荘園権威削減のための幕府公認の代官的な領主権の官職。のち、ちょっとした物流経済を見せるようになった中世後期に入り始めた鎌倉末期に、この体制もいい加減に古臭い旧態体質ばかりの、次の段階に向かう上での弊害ばかり目立つようになったことで、ここで聖属中心政権の復興か、世俗中心政権による見直しの再起かを巡り、後醍醐天皇・新田義貞の聖属政権の南朝派、光厳天皇・足利尊氏の世俗政権の北朝派とで争われたのが南北朝闘争。この流れは以後もはっきりしているように、世俗権威以降の幕府が新設されて経済成長が見られるたびに、次世代身分制議会的な地域間の情報技術資本交流の法整備が間に合わずの正しさの乱立のさせ合いの崩壊に向かう姿、すなわちその次の段階といえる次世代身分制議会・国家構想の敷居を巡る上での、評議名義的・選任議決的な誓願文写し管理・議事録管理の手本の作り合いなどできていない、その合格・高次元/失格・低次元を広域敷居管理する手本の作り合いなどできたことがない今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような低次元同士がそれをする立場に立とうとねじ伏せ合い下を作り合うのみの、上同士の手本の作り合いなど何ひとつ残らない偽善憎悪の顔色の窺わせ合いを押し付け合っているだけの低次元ないがみ合いで徹底的に壊し合う老害浪費が通されてからでないと次の段階の法改定・敷居改めに向かわせられなかった人類の劣悪性癖・非地政学観・反近代議会観ともいうべき愚かさだらしなさの流れも、織田信長と豊臣秀吉をきっかけにそこがとうとう克服・旧廃策化。寺社領再統制を巡って、それができていないからこその浄土真宗の煽りによる世俗側のあせりも多かった次世代下剋上社会化を経て、国家構想・広域領域敷居管理の総議長・絶対家長の必要性が改めて認識された流れは、上同士でようやくそういう所に少しは向き合われるようになった現れ。先の2名の良例が大いに参考にされ、そこからやむなく下方修正されて設立されたのが徳川政権の江戸時代 )を拝領、なお久下家の本貫地は武蔵( むさし。現在の東京 )の久下保私郷なり、とつづられている。関連文献の 久下道祖増丸 知行目録 久下文書 の方では、他に、飛騨( ひだ。岐阜県北部 )、和泉( いずみ。大阪府和泉市 )、丹後( たんご。京都府北西部。宮津方面 )にも久下家の遠隔地を有していたことが目録で窺える。ここで視点を少し変えてまず、Wikipedia の方で多田満仲の記事を見てみると、久下家の興( おこ )りとなった家来筋の多田満重の存在が確認できる。また、記述はそれほど多くはないものの久下家の記事も少し見られ、久下家は室町設立における光厳天皇・足利尊氏派として支援し、有力扱いされている様子と、Wikipedia での明智氏・土岐支流明智氏の項で、応仁の乱手前の 1459 年の段階で、久下一族が幕府代官( 室町権威直属の寺家代官 )の有力な一員であることが窺える文献からの足利家と土岐家の関係の紹介がされていることからも、久下家は室町崩壊以前までは、源氏の当主筋( 源頼朝の家系が衰退して以来の源氏の当主筋は、その近縁からの派生の家系として最有力と見なされていた足利家が、それを継承する本家筋として支持を得る風潮が前々から強まっていた )から知遇の高かった支え役のひとつだったことは間違いない。名族多田家からの派生の一族だったこと、いくつもの遠隔領を得ていたことからも、久下家は上同士ではよく知られていた存在だったことも窺える。つまり室町崩壊前の久下家は、足利将軍家とは近しい間柄の、各地方に睨みを効かせる地頭上がりの権威的・目付的な寺家代官の立場だったと見てよい。しかし足利将軍家の権威( 三管四職の室町序列体制。さんかんししき )は衰退する一方だったこの文献項の次世代下剋上社会時代において、これは久下家に限ったことではないが、地方間交流どころか地方内の地域間交流のいがみ合いをまとめ直す段階でどこも難儀するようになっていた( 何の見通しもない畿内権威の弊害に、地方が遠回しに決別するようになった、まではいいが、地方全体をまとめ直す以前に、郡単位の政局城をまとめ直すための、守護代間、有力国衆間での選任序列的な代表家長選びの見直しの段階からどこも難儀しがちだった )中で、このような遠隔地をいくつももっていたような、かつては( 室町序列権威内で )力を有していた家系も、いったんの地方分権の中で( 分国法・領国体制の方向、すなわち戦国後期に向かい始める中で )改めて同宗派間的に遠隔地間で一族間で強固に連携・結束できていたのか( いがみ合ってばかりで近所の血族内すらまとめ直せそうにない、うまくいっていない続きだった地域ほど、だからこそ今風でいうグレートリセット的な過去の弊害と決別の浄土真宗のやり方に頼り始める家系も増え始めた )という観点から見れば、できていた訳がなかった( 地方内地域間の血族を家長権統制的にまとめ直すのに難儀し、あと何年でそこが解決・敷居改めできるのかの見通しもいつまでもはっきりさせられないのに、より異環境間となる地方遠隔間でどうやって施政や軍役などに関する上同士の連携・結束ができるのか。戦国後期の広域領域敷居管理として問われた部分、つまり地方議会改めの組織構想の力量として問われた部分。最終的に畿内権威の等族義務として問われた部分 )と見てよい。のち戦国後期に、当主の若年死が続く不利を招いて出遅れてしまった三河松平氏( 徳川家康 )が、三河の今川権威衰退を機に( 桶狭間の戦いで、駿河今川勢が尾張織田勢に派手に反撃されたのを皮切りに、三河における今川権威の後ろ詰めに急に難儀し始めたのを機に = 尾張全体のために戦死した千秋氏と関係ある話として、旧態序列体質のままだった駿河今川氏は、尾張織田氏の尾張再統一・敷居改めを妨害・荒らす軍役を勢い任せに行使している場合ではなかった、今川家はその軍役を尾張ではなく駿河再統一に向けなければならなかったができなかった、だから三河支配どころではない今川権威の化けの皮が一気に剥がれた。今川氏にとってそこに既に揺らぎがあったから、あせって威勢を強調するために尾張に乗り込んだはいいが、主体性・組織構想性が欠落していたのが桶狭間の戦いの実態。今川義元が、次世代下剋上的な結束といえるのか怪しい旧態のままの軍役で、威勢だけで大軍を動員して尾張に侵入するも、織田信長はその挑発に乗らなかった。下々の産業面で甚大な負担と弊害を与えかねないからこそ強行された寺社領再統制・官民再分離・次世代兵農分離の、その軍役序列改めの軍縮の姿勢を織田信長は崩そうとしなかった。つまり「こちらが無理をして大軍で乗り込んでやれば、織田方も無理をして大軍を動員せざるを得なくなるだろう。それだけでも尾張の官民再分離荒らしになる」と目論んで体当たりした今川義元は、まさに肩透かしとなったのである。今川権威による三河の寺社領再統制による結束など怪しくなってきていた中で、そのさらに向こう隣の尾張を支配することなど、そもそも尾張全体の農工商改革の誓願文写し管理の中心地である津島社・熱田社と今川家は連携できている訳もない上に、前期型兵農分離による旗本吏僚体制と軍兵站体制、すなわち街道整備・閉鎖有徳改めの奉行所体制もろくに整備できていないのに、尾張の寺社領統制などできる訳がない。戦国後期において前近代的な雇用序列の整備・等族指導もできていなければ、新領確保による軍役の恩賞を保証する計画もされている訳でもない時点で、今川方は敷居競争の遅れをごまかすために、時間稼ぎするために尾張を荒らしに行っただけだったのは上同士では明らかで、今川方の上層たちの戦意など上がる訳もなかったのである。どれだけ大軍を動員しようが長期維持できない今川義元は、尾張を占領するために桶狭間の戦いを挑んだのではなく、今川家ができていなかった尾張の次世代産業法を荒らしに来ただけだった、つまり下々の庶民政治保証のための地域間交流の相談窓口体制・等族指導体制を荒らしに来ただけだった、だから尾張において脅威になるような選任支持的な今川人気など尾張で浮上する訳もなかったのである。そういう所を時間をかけて織田氏と連携努力してきた、その重要な役割を果たしていたのが熱田神宮の氏子総代の千秋氏。ここは現代でも同じことがいえる、今の日本の低次元な教育機関とそのただのどものような、よそのことにケンカ腰にとやかくの前の自分たちの、まずは上同士としての領域敷居管理の近代評議会的・議事録処理的な見渡し方の手本の作り合いをうやむやに荒し合うことしか能がない、ただ下品で汚らしいだけの顔色の窺わせ合いに頼った偽善憎悪・老害慣習のたらい回し合いのねじ伏せ合いでただ下を作り合いただ低次元化させ合うことしか能がない気の小さい知能障害の法賊どものだらしない挑発にいとも簡単に乗せられてはならない、その良例教訓の多くが窺えるのが桶狭間の戦い。荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論・上同士の社会心理の見渡し方の基本中の基本 )三河再統一を急いで以降、徳川家の上層としてはこの久下家の名は見られない。三河の久下一族はそれまでに三河紛争で衰退・消滅したり、また三河一向一揆の際に浄土真宗に組みする一族も出たなどの可能性もある。徳川家康は、不戦同盟の良好関係を築くようになった織田信長の、その尾張再統一の手本を見習う形で、三河再統一においての寺社領再統制を面倒見良く進め、浄土真宗による三河一円支配の乗り出しをなんとか防ぐことができたが、その際に久下一族やその家来筋たちが生き残っていたら、徳川家の旗本吏僚として改めて収容されたり、また酒井家、大久保家、石川家といった徳川家の有力家臣たちとの、縁組を通したそれらの親類扱い・家臣団の一員として収容されたなどの可能性もある。本文献のような、地方や郡の代表格による家格裁定的な公認名義が特に付与されている訳でもない遺言書は、ただ作っただけでは相続権の効力などは期待できないものの、少なくとも経緯は追うことができるこうした身元確認の目録は、戦国後期に向けた寺社領再統制において貴重だったといえる。のちの戦国後期( 地方再統一 )で、地方における、形ばかりもいい所だった旧室町序列権威としての代官・被官職とその旧領地特権の権威慣習は、地方の代表家長から認められない( 旧廃策扱い )、返上と再主従家臣化を迫られる流れ( まずは上同士のその序列敷居改めをさっさと進められていた地方と、旧態体質・老害慣習・偽善憎悪と決別できずにモタモタやっていた地方とで、広域領域敷居管理の地政学議会的な裁量力差が目立ち始めたのが16世紀の戦国後期の特徴。街道整備の産業法改めと士分序列の見直しの軍兵站体制の分業化が前期型兵農分離・官民再分離 )に、そこに反抗的になった閉鎖的な地域も少なくなかった一方で、そうした努力ができていた地方上層との地方議会的・地域間交流的な良好関係次第では、旧序列権威( 旧家格議席・旧特権 )の維持はできなくなったとしても、目録を用意するほどの旧出身の部分は加味されながら、家格再裁定( 上同士の身分再統制 )される傾向も強い。元名士出身は、戦国後期までにどうにか残存して、上同士の地域間交流を大事にしてこれたなら、家臣団の再編成の中で少し優遇気味に扱われたり、寺社領再統制の代官・補佐官を任せられることは十分あり得る。

 

1512/07/22、越後の本成寺日現、三河国長応寺に到着し、三河・遠江の教化を進める。

※ 当時の日蓮派法華宗( にちれん は ほっけしゅう に関する文献。本成寺は越後( 新潟県 )の法華宗の大手寺院。越後本成寺の貫主( 住職。代表和尚 )である日現( にちげん )の意向で、三河での法華宗寺領への応援に動いた様子の文献。浄土真宗による戦国仏教的な領域敷居競争にあせっていたのは、寺社領整備に努力しなければならなかった地方の有力武士団たちだけでなく法華宗も、教義面で対抗意識をもって努力していた様子が窺える。日蓮派法華宗は、釈迦・ブッダの教義の本質に最も近いとされて日本に伝来した伝統的な法華経の経典を最重要視した点は天台宗と同じだが、法華宗は聖属間( 教義界 )ではいずれの他宗とも決別的で、ただし同宗同胞関係ということなら世俗権威とも融和的だった。法華宗は、法華経の経典ではなく密教の経典を最重要視していた真言宗ともそもそも仲がいい訳ではないが、教義権力を必要以上に作り合いねじ伏せ合う道具に悪用する旧態体質には法華宗は決別的だった所は、同じ法華経の経典重視の自力信仰でもそれしか能がない公的教義( 比叡山延暦寺 とは大違いだった所になる。同宗の同胞同士である以上は必要以上の顔色の窺わせ合いの過剰な厳しさを向け合ってはならない、下同士でただ下を作り合い低次元化させ合うために教義があるのではない、協力し合い共に歩む同胞のための教義になっていなければならない( だからそれが前提になっていないような他宗とは決別しなければならない教えが不受不施。ふじゅふせ。そこに軽々しい連中と中途半端に物事を共有をし合うとろくなことにならないから、安易に関わってはならないという意味 )という、開祖の日蓮上人の解りやすい教えは根強い人気があった。浄土教の経典を露骨に最重要視する形で成立した浄土宗( 源空派 )と浄土真宗( 親鸞派 )も、こちらもさらに教義権力・禁門資格の悪用主義には反感的だった所に根強い人気があったからこそ、日蓮派法華宗は、経典重視の違いもそうだが、あらゆる既成権威と決別の広域領域敷居競争に動いた浄土真宗には特に対抗意識をもっていた。世俗社会化を体験したからこそ教義の見直しも積極的にされることになった鎌倉仏教時代における、源空と親鸞の浄土教重視の優れた教義力の人気と影響力はのちに、威厳のためだけにただ小難しく解釈し合い解った気にたらい回し合うのが経典への向き合い方ではないという見方を、正しい善人という肩書きにぶら下がってただ人気取りしようとするばかりで、経典軽視が許されるかのような、何の研鑽努力もしなくても僧として・信徒としてケンカ腰に誇りをもち合うことが許されるかのように、いい所取りできている気に解った気に曲解し始める( 上同士の手本の作り合いをうやむやにたらい回し合う低次元な偽善憎悪・老害慣習を乱立拡散させ合いたがる )いい加減な勘違い僧侶気取り・人生の先輩ヅラ気取りが蔓延したため、そこを伝統の経典からの整理力の手本を示して目を醒まさせる大事な役割を日蓮上人が果たした経緯も、法華宗から見た浄土教への対抗意識を手伝っていた。戦国後期までに、ろくに等族義務を果たせていない世俗権威側のだらしなさに対し糾弾的に、上同士のあり方を見直させる重要な役割を特に果たすことになったのが浄土真宗だが、その次に聖属側として、世俗権威との決別ではない形での広域的・遠隔地間交流的な健全努力できていた方だったといえたのはこの日蓮派法華宗といってよい。日蓮派法華宗は、教義面で浄土教には対抗的( 法華宗 = 日本の伝統的な自力信仰主義への見直し : 浄土教 = 日本で排撃され続けてきた他力信仰主義を重視。西洋の16世紀のカトリック派とプロテスタント派の対立関係はその内訳が真逆。法華宗は西洋における、有志たちの集まりであった伝統教義再興のイエズス会の立場と似ている。キリスト教圏における遠隔地間商業の中心がイタリア・ヴェネツィアから、ポルトガル王室と連携のハプスブルク領のアントウェルペンに移行の前近代大経済社会化が進み、旧態のままの教会税や賦課税を巡って地域福祉の見直しの声、すなわち下同士の時代遅れの教会権力の身分制への見直しの声が強まる一方の中で、次世代聖属裁判権改めが遅々として進まなかったことで、下同士の格差がいよいよ顕著になり始めた。だから下々が、カトリック派 = 西方教会伝統派 に失望し、それと決別の抗議派・プロテスタント派たちによる教会改革 = プロテスタント派のキリスト教新解釈の次世代聖属裁判権の誓願運動 に乗り換えようとする動きも強まる一方となった。帝国議会の肩代わり役であるドイツでそれが強まった転換期を16世紀に向かえた際、イエズス会たちの懸命なその対抗教会改革 = 公会議制 による立て直しもようやく始まったため、イエズス会士たちの後押しのカトリック派をもう一度信じてみようと考え直す人々も多かった。日本の場合は自力信仰一辺倒に対する浄土真宗の対抗他力信仰という構図が、キリスト教社会とは内訳が真逆になるが、日本の決別派浄土真宗と伝統教義の肩代わり役法華宗の対義的な構図は、西洋の決別派プロテスタントたちと伝統教義の肩代わり役イエズス会士たちという対義的な構図と類似している )な所があったことと、また「あの有力者、あの地域が、法華宗を檀那寺として交流を大事にしている以上は」の、世俗権威も同胞として遠隔地間交流に協力的に動く所があった日蓮派法華宗は、浄土真宗ほど強烈ではないにせよ、こちらも地域間交流における世俗権威の立て直しにおいてだいぶ貢献努力できていた方だったといえる。この頃は、尾張への浄土真宗の布教( 世直しのための、旧来の世俗権威とも聖属権威とも決別主義 )は油断ならない状況だったが、三河は尾張よりもさらに浄土真宗の影響が強まりがちであったことで、世俗権威側( 地方上層たち )だけでない、同宗同胞ということなら広域的な教義力に自信があった( あとは世俗権威側が、地方や郡ごとでしっかりした代表格の選任ができるかにかかっていた、それとの連携にかかっていた )法華宗たちも、三河での浄土真宗への広まりへの対抗意識のあせりがもたれたと見て間違いない。一方で尾張では、織田敏定の顕在期には法華宗のそういう良い所が見込まれる形で、尾張での法華宗を優遇気味に扱った様子が窺え、のち織田信秀・信長親子も、法華宗を主な檀那寺・菩提寺として優遇気味に扱った。浄土真宗との対立( 閉鎖有徳扱いに聖属軍閥解体 )とも大いに関係していた織田政権下における寺領再統制に、法華宗の同胞重視の手本的な姿勢が、織田家の遠隔地間交流化の手本の作り合いの連携において改めて活用されることになった所が見落とされてきた。本能寺の変の特徴を知るには、それまでの地方ごとの寺社領再統制( 制札・法式の地方判物 )の事情と、のちの織田信長による畿内再統一との経緯( 上同士の社会心理 )で見渡せなければならず、今後の日本の聖属問題( 日本の国際教義問題 = 海外との前近代的な情報技術資本交流対策。国際地政学議会体制 )もどうなるのかの、次の段階にようやく踏み込まれた関心が少なくとも上同士でもたれていた中での事変だった、という部分があまりにも軽視し続けてきた。日本の仏教側の自力教義の主体は、戦国後期を迎えるまでに下々の面倒見の悪い世俗権威側への釘刺し役を大いに支えてきたが聖属軍閥問題も抱え続けた浄土真宗( 親鸞派 が戦国終焉期( 本能寺の変が起きる頃 )にその役目を終え、織田家と連携関係で目立って遠隔寺領間交流の手本で貢献するようになっていた法華宗がその立場( 日本の仏教側の自力教義の手本 )になり始めていた。しかしそんな中で織田信長は、法華宗( 自力信仰の見直し派 )だけを優遇するのではなく、浄土宗も優遇・後押しし始め( 源空派浄土宗は親鸞派浄土真宗と同じ他力信仰重視の浄土教だが、こちらは世俗権威との表立った決別運動には動かずの和平重視だったため、浄土真宗とは別枠扱いされていた。浄土真宗の本拠道場・要塞である石山本願寺が織田勢・佐久間軍団にすっかり抑え込まれての籠城も時間の問題となると、石山本願寺は織田氏からの物的序列権威への返上・軍閥解体の言い分への降参について、その置き所に迷っていた。そんな頃に織田信長が、広域の織田領において法華宗の言い分よりも浄土宗の言い分に露骨に味方するような優遇処置を見せた。それは、浄土真宗たちもさっさと降参・武力解体と寺領のいったんの世俗側への返上に動くのなら、織田家は浄土宗と同じ浄土教の浄土真宗たちへの保護保証の面倒見御役・等族義務もしっかり果たすということを遠回しに示唆したことを意味していた。100年近く聖属軍閥運動を続けてしまったことで引っ込みがつかなくなっていた浄土真宗の、とうとうの武力解体・降参交渉に動きやすくするための織田信長なりの寛大な配慮だったのは間違いない )、新参の外国教義であるキリスト教( 海外教義。イエズス会士たちのカトリック改革の他力信仰 )も優遇的に受け入れ始めると、それまで法華宗の管轄地域から、他力信仰である浄土宗に乗り換えようとする地域が出始め、さらには法華宗を檀那寺・菩提寺としている織田家の有力家臣の家系からも、その親類の中からキリスト教に乗り換えようとする者も目立ち始めた( 他宗混合でいがみ合わせない寺社領再統制・家長権改めの等族指導の手本を実現してしまった織田信長が目指した次世代政権議会は、世界広域的な手本だったからこそ、残念ながら本能寺の変によって下方修正されてしまった部分 )ため、法華宗の指導部たちが( 同胞重視で便宜してくれないと )織田信長に少しムッとし始める( 一方で法華宗の地域の下々は、上同士で何が起きているのかよく解らず、そこへの反応には地域差があった )も、騒動に発展させることはなかった。本来は室町体制下で、教義交流面を将軍権威と朝廷と公的教義との連携でそこも含めての管区整備( 等族指導。正しさとやらの偽善憎悪を乱立拡散させ合いたらい回し合っているだけ、すなわち絶対家長的・国家総議長的な序列敷居改めの構想計画といえるような謄本登録的な公認・認知など皆無な勝手な序列権威でただ下を作り合って武力闘争でいがみ合おうとする閉鎖有徳運動は、前近代議会的な誓願文写し管理への評議名義性と選任議決性の敷居を荒らし合う博徒運動の低次元化分子と見なして上から順番に踏み潰す前提の寺社領改め・格式再裁定の次世代街道整備 )を進め、そこを畿内が地方への手本として示さなければならなかったのを何ら手本を見せられず( 畿内の次世代身分再統制が遅々として進まなかったことで、畿内経済の支え役の旧荘園領体制など完全崩壊し続けた。ただの高官気取りども・手本家長気取りどもがいつまでものさばるばかりの畿内側の上同士たちというのは、その評議名義的・選任議決的のための地方への敷居改めの手本としての争和に動こうとせず、何ら見通しを見せることもできないまま目先の利害次第に揉め続けるのみだった 、織田家の畿内への乗り込み( 次世代畿内再統一 )による寺社領再統制( 寺社領の物的序列権限をいったん織田氏に返上、和解交渉の再裁定・再手配を受けよの格式改めの前近代的な謄本登録制 )で全て解決されてしまったことは、朝廷( の廷臣たち )と公的教義( 比叡山延暦寺 )がそこを最初から最後までうやむやにし続けてきたこともはっきりした、今の日本の低次元な教育機関と同じで反国際地政学観を押し付けさせ合い下を作り合わせるのみの低次元化の象徴でしかなかったという既成事実が上同士ではっきりされてしまった 他宗間でも、の、いがみ合いを仲裁するための道義内と道義外の領域敷居管理の広域交流教義の対応といえる上同士の手本の作り合い、というものが最初から最後までできなかったから、仏教側におけるその肩代わり役をしてきたのが浄土真宗、のち法華宗だったこともはっきりしてしまった。そんな中で、それが一切できなかった旧態体質のままの朝廷と公的教義がそれらに禁門資格を授ける立場 = 教義敷居管理における合格・高次元/失格・低次元を判定する側 であり続けようとすること自体が、次世代下剋上社会化を体験した中での教義界が納得する訳がない )ことを意味していた。すなわち廷臣たち( 国際地政学観の海外教義交流と国内教義の管理人たち )も総辞任・総解散的な議席序列の一斉の仕切り直しを迫られることを意味していた。その次の段階を自分たちで前近代議会的に領域敷居管理し直すことをとうとう迫られた織田政権時代の大事な期間も、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、今まで上同士の手本の作り合いなどしてこれた試しがないのに( 地政学的評議敷居改め的な誓願文写し管理体制・議事録処理体制の、まずは上同士からの等族指導としての次世代化の良例の下地を自分たちで作ってこなかったのに )、ここは現代でも同じことがいえることとしてそれを迫られてからが認識の初動であることが大前提の時点で、上同士としての領域敷居管理の手本といえる対処などできる訳がない、だからこの時もモタモタやり続けて時間切れを迎えてしまった言い逃れ無用の、ただの偽善憎悪の乱立拡散の助長しかしていない旧態教義権力にただぶら下がって足を引っ張り続けることしか能がないと見なされる低次元化分子たちに対する上から順番の大幅な格下げも、とうとう免( まぬが )れない事態を迎えたことも上同士では言うまでもない解り切っていた所になる。旧畿内権威の関係が強かった中で格下げ覚悟で有志的に織田派を表明することになった、上述列挙の朽木元綱、京極高佳、山岡景隆、阿閉貞征、逸見昌経、粟屋勝久、また列挙はしなかったが細川藤孝、細川昭元、蒲生賢秀、山崎片家、宮城豊盛、高山重友、中川清秀、筒井順慶これらというのは、それができそうになくまたしてもうやむやにされかねない足利義昭にではなく、それができそうな織田信長に託すことを表明、事実上の選任容認派として上同士として解り切っていた = なぜ本能寺の変が起きたのかについても、逸見昌経と阿閉貞征は事情で除くとしてこれらは、羽柴秀吉に配慮して緘口令的に黙っていただけで解っていない訳がない )のである。ここ( 日本国内における地方間交流すらこれまでろくに整備できていなかった中で、織田政権が解決に向かわせたからこその、今後の日本の次世代教義交流問題 = 国際情報戦的な敷居の前近代政権議会化 )に誰かが乗り出しさなければ、さっさと進めなければならなかったがしかし織田信長しかできなかった、そして織田信長が犠牲となって豊臣秀吉がそこも肩代わりすることになった大事な部分。その肩代わりも豊臣秀吉でなければ、つまりこの2名でないと、畿内再統一( 次世代国家構想 )の敷居に至っていない地方裁判権止まりの寄せ集めの気の小さい家長気取りども( 畿内再統一による戦国終焉を決定的とした織田氏から、上から順番の家格再裁定をさっさと受けようとしなかった、今頃になって浄土真宗の敷居の背中から織田氏の敷居の背中を慌てて追いかけ始めた有様の、郡の巻き上げと国替えの管区整備・寺社領再統制もできない地方吏僚の分際のあきれる他ない戦国大名たち )には、この解決は到底無理だった部分。本能寺の変に向かう上でのこうした大事な話をどんどん補足していきたい所だが、今回はここまでとする。

 

1512/08/16、斎藤彦四郎、尾張から美濃に攻め入り、敗死する。東寺過去帳。※ 少しややこしいが、原文を確認すると、まず美濃上層で内紛が起き、斎藤一族内でも派閥分裂、その失脚筋たちがいったん尾張に逃れ、その残党たちによる美濃主導を巡る再戦を挑むも敗れた、という文献。残党たちはこの斎藤彦次郎を旗頭に、尾州( 尾張。愛知県 )と濃州( 美濃。岐阜県 )の州境である墨俣( すのまた )を目指し、墨俣河で決戦したが残党方が敗れた。斎藤彦次郎勢の武装( 士分らしい集まり )の手勢は670名で、そこに雑兵( ぞうひょう。由緒ある武士団であるかのように装っていたが、地方上層から明確な被官士分・武士団としての序列認知・典礼を得ていない各地の小地域家長とそれに所属の半農半士たち )もいくらか加わったが、それを追い返すべく美濃惣領衆( 選任議決的な内紛に勝った側の守護・土岐氏と守護代・斎藤氏を始めとする美濃の上層たち )が墨俣に向かい、墨俣河で斎藤彦次郎を討ったという。尾張衆の加勢があったかどうかも、他の兵力も様子も書かれていない。斎藤彦次郎派との交流の縁があった尾張衆の加勢もあったかも知れない。文献元が 東寺( とうじ )過去帳 とあり、京の大手寺院である東寺( 真言宗だが、統合仏教的な性質が強かったと見られる )がこれを伝え聞いて、関心がもたれて書き記されたと見られる。

 

1512/11/28、伊勢内宮、尾張( 愛智郡 )一楊御厨( みくり。伊勢神宮信仰のための遠隔神領 )と三河( 渥美郡 )飽海本神戸( かんべ。御厨、御園と意味は大体同じで規模の違いと見られる )などがかつて寄進された例をあげ、修造の助成を幕府・朝廷に請うよう祭主に申し入れる。内宮一祢宜荒木田守則書状写守則長官引付。 愛知県史 資料編10 側からはしばらく見なくなった伊勢神宮の重役の荒木田家の文献がここで登場。原文では( 伊勢にまとまりがなく財政難な中で )本宮が火災で焼失してしまい、再建のめどが立っていないため、各地の伊勢神宮の御厨・御園・神戸領からの寄進による再建を試みるために、その事情を室町幕府と朝廷に形式的に上奏を通して、援助の体裁を得ようとする書状文献。原文では他にも、武蔵( むさし。今の東京 )の飯倉御厨と大河戸御厨、安房( あわ。千葉県南部 )の東条の伊勢神領、遠江の蒲御厨、渥美郡の新神戸と大津神戸と伊良胡御厨が目録的に列挙され、これらからの援助を得ようとしていた様子が窺える。伊勢( 三重県 )は戦国後期になっても、多数の国衆割拠で分裂し続けたままの旧態体質が足枷になり続け、のち尾張再統一と美濃併合を進めた織田氏の圧力( 地方議会の象徴である伊勢社領をこれまでろくに保護保証してこれずに、貧窮させ続けてきた伊勢国司の北畠家と有力国衆どもは織田家の敷居の上から順番の上同士の家長権再統制をさっさと受けよ! )に抵抗できない一方となったことからも、この頃の伊勢における次世代下剋上社会化でも不安定が続き、伊勢内の伊勢神領の再建( 伊勢全体の農商業と物流の経済法整備 )など進んでおらず、貧窮で苦しみ続け、修繕費の捻出に難儀していたと見てよい。それと比べて尾張の熱田神宮( 千秋氏 )の場合は、時折の揉め事や天災に苦しみつつも織田氏との連携努力の、社領統制差は大違いだったと見てよい。

 

1512/12/27、鳥山忠正、( 三河内で )田地を売る。 鳥山忠正売券 大樹寺文書。※ 大樹寺( 浄土宗 )は三河松平氏( 徳川家康を輩出した家系 )と連携努力ができていたため、松平氏による査定はされていたと見てよい。この鳥山忠正なる人物がどこの地域家長なのかは不明。寄進ではなく売り渡しでも書状内容は寄進と似た体裁で、貧窮が原因だった可能性が高い。地方上層による管区整備計画が前提になっていないような、下同士の貧窮の借金によるやむなくの売券の寺社領移管の野放し 家長権・家格相続権らしい保護保証が行き渡っていない既成事実の野放し = 室町体制・畿内権威の安堵状や特許状の認知価値など皆無な、特に次世代地域間交流経済法がいつまでも街道整備されないままただ下を作り合い貧窮次第にただ奪い合うばかりだから畿内権威も旧荘園領も崩壊し続けたのと同じで、安堵状や特許状を身分制的に維持する地方の上同士の施政議会的な努力がされなければ、揉める以上はその評議名義性・選任議決性を巡る前提の計画性がもたれた争和で決着させていかなければ地方分裂もいつまでも解決しない。織田信長が大幅な手本を作り、そして豊臣秀吉がやむなくの下方修正でその整備を請け負い、下々の資産管理のための前近代的な庶民政治体制のひな型がやっと作られた。次の徳川政権もやむなく下方修正しながらなんとか江戸時代を迎えるが、次第に大経済化が進む一方で次の段階の庶民政治整備が著しく追いつかなくなっていったために、下同士の資本力格差が江戸中期までに強まる一方となり、上同士が規定する身分制よりも売券・買得慣習の重みばかりが再燃の、下同士の経済法的身分保証制からの崩壊が始まる。下から順番に保証されなくなったことが、その家禄に直結していた下級武士たちの貧窮にも繋がり、士分と庶民の境界の身分権力の防波堤がたらい回され合うごとくの、株式証券取引感覚どころではない転売感覚や、かつての伊勢道者のようなただの通商権の共有の感覚に等しいような士分売官の蔓延に及ぶようになる。既にその前身を見せていたのが、田畑永代売買禁止令が守られなくなって混乱が目立つようになった失地騒動 )は、下同士で下の条件を作り合う下同士の勝手な閉鎖交流的な力関係の身分慣習( 領域敷居管理の見渡し方などできない同士の偽善憎悪の顔色の窺わせ合いのたらい回し合い )が作られる一方となり、貧窮に苦しみ続けるままの地方上層への失望による地域結託の、惣国一揆の強化版である浄土真宗支持の原因にもなりかねない。三河で有力の松平氏や戸田氏は、そういう所への面倒見役として対処しなければならない深刻さは少なくとももたれていたと見てよい。

 

1512 年内、駿河の富士の浅間社道者に、三河と尾張の檀那地名が記される。浅間社道者帳写 公文富士氏記録。※ 富士山麓の大手の浅間大社( せんげんたいしゃ。静岡県富士宮市。ふじのみや )の、全国の浅間道者の目録だが、愛知県史 資料編10 では尾張と三河のみの目録のみで、他は略されている。三河で37ヶ所、尾張で25ヶ所、浅間道者があった各郡の地名が記述されている。省略していたが少し前にも、三河の白山道者( 白山神社は、当時の岐阜県の伝統的な大手神社。はくざん )に対する美濃土岐氏の体裁上の公認書状も出てきている。各地方では、地元大手寺院からの分寺間で新地を寺領扱いし合うまではいいとしても、区画整備もされていかずに自然に任せるがごとく寺社領間で伸びっぱなし/絡み合いっぱなしになり、分寺領単位の領域や特権の範囲を巡る、優先順位・慣習違いの宗派間交流の揉め事処理もただでさえ大変な中、そこにさらに熊野檀那( 道者。紀伊半島側の著名な神社 )、伊勢道者、白山道者、浅間道者といった神道側の遠隔分社領域が食い込む形で絡み合っていたことは、つまり地方内で例えば隣が同じ臨済宗同士の寺領だったとしても、伊勢道者の慣習と連携していた所と、浅間道者の慣習と連携していた所とで同宗内でも( 畿内側の朝廷の廷臣たちと公的教義が地方に対して、そこへの手本を示せずに崩壊し続けている中、寺社領再統制が進んでいなければ、誰かがそれをやらなければ )地域間交流へのいがみ合いの支障となる序列慣習のズレも当然出てくる中で、そんな中で地方全体を一円支配的にまとめ直すのも実に大変だったと見てよい。こういう所は所詮は人間のやることとして西洋の一神教の偽善弊害 他力信仰一辺倒による低次元な偽善憎悪の押し付け合いの下の作り合い )にしても、日本の多神教の偽善弊害 自力信仰一辺倒による低次元な偽善憎悪の押し付け合いの下の作り合い )にしても避けて通れない、経緯が違うだけでそこへの上同士としての手本の作り合いをケンカ腰に徹底的に面倒がり合う性善説放任主義( 全てにおいて手遅れ寸前と手遅れの狭間が認識の初動の低次元な偽善憎悪の顔色の窺わせ合い = 老害教義主義 )でうやむやにし続け合い、下々や次代たちに甚大な負担を与え続けようとする人類の愚かさだらしなさの構図は、そういう所は( 当事者それぞれの優先順位がどうであろうが、国際地政学観の情報処理戦といえるような、近代議会的な品性規律の手本といえる敷居の作り合いが前提の見渡し方をしなければならない所は 現代でも同じなのである。3代将軍の足利義満時代の大経済期以降にはいつまでも次世代整備を進められなかった 世俗議会にしても聖属議会にしても、次の段階に向けた選挙的な争和を上同士でしてくれなかった )、だからその次世代整備を地方分権的に地方上層たちがそれぞれ一手に代替せざるを得なくなった( そこを地方上層たちがモタモタと寺社領を失望させ続けていたら浄土真宗の領域敷居競争による寺領扱いで埋め尽くされなかった こうした事情への向き合いは煩雑この上なかったのは間違いない。下剋上社会化の認識が強まるようになっていた 1512 年頃にこうした目録管理の文献が出てきたということは、その遠隔社領の管理側( 神道側の各社領の氏子社人たちだけでなく、本来は廷臣たちも含める )としても地方上層としても、それぞれ慣習などバラバラなままの地域間の閉鎖利害が絡み合い続けてきた今までの有様にも、それが原因で街道整備( 前近代化に向けた地域間交流対策と賦課税や資産管理法の整備。下々が生活権を巡って奪い合うための、地域教義を下同士で勝手に条件を作り合って下を作り合うための道具にし合う閉鎖有徳闘争・惣国一揆の再燃を上同士でやめさせるための、貧窮格差対策の分業謄本登録的な身分保証制の次世代産業法 もいつまでも進まない実態にもいい加減に深刻さがもたれたからこそ、地方の大手寺院たちも神道側も、まずは目録や管理責任の連判状などをしっかり作り合い、地方上層らとの連携努力でまずは状況回収していくという、上同士としての本来の前近代的な議事録処理( 地政学観の評議名義性と選任議決性による序列敷居の見直し )の重要性が芽生え始めていた現れが、この目録文献と見てよい。

 

字数制限で今回はここまでになる。1512 年は、当時の事情を把握していく上で省略できない大事な文献項ばかりだったため、今回はやむなく解説を入れることにした。

 

次もこのような調子で進めていく。