本能寺の変とはなんだったのか85/95 本能寺の変の全体像31/41 2025/02/20
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~30」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~10
※ 本能寺の変の全体像21~30 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )11/19
※ 前回 延徳三年辛亥 1491/08/15 までからの続き。
1491/08/20、将軍足利義材、尾張国荒木郷などを山城国清和院( 真言宗智山派。空海派の中央・禁門寺院 )に安堵する。将軍足利義材御判御教書 清和院文書。※ 原文 ※ 清和院領山城国西岡富坂庄富坂跡并( 併 )下久世庄内賀茂田・播磨国這田庄重国郷・近江国船木庄念仏田・同国蚊野庄上分米・尾張国荒木郷( 中嶋郡か? )・遠江国質呂庄金屋郷・寺屋敷地方四町・正親町富小路北頬屋丈数在地別紙、・六角富小路南頬地同前等事、早任当知行之旨、領掌不可有相違之状如件 延徳三年八月廿四日 参議左近衛権中将源朝臣( 足利義材 )( 花押 )
※ 世俗政権再出発が室町政権発足だったはずということで、つまり物的敷居管理は世俗側が請け負わなければならない( 中央総家長の最終的な謄本登録的裁定によって、日本全体の次世代序列再統制が進められなければならないことくらいは、実際にできるのか、誰がそれをやるのかはともかく、それが本来だったことくらいは、誰かがやらなければならないことくらいは少なくとも上同士では認識はしていた。室町発足からの次の段階の、第二次畿内再統一をしなければならない状況だという視野ももてていた有志も中にはいたからこそ、できていなかったからこそ気まずかった部分 = そこにいい加減に危機感をもたれたのが、のちの足利義晴・足利義輝の将軍親子で、地方の有力者たちの期待の注目が集まったからこそ、またしてものうやむや騒動を起こされ、惜しくも立ち消えとされたことは、室町最後の自力再興の機会を上同士で潰し合い壊し合うことしかしてこなかった今までの室町体質を大いに象徴していた )ということで、禁門( 今の日本の低次元な教育機関と全く同じ、小乗仏教を悪用しているだけの教義権力への低次元な顔色の窺わせによる公認を強要され続けてきた中央寺院 )の清和院の、播磨( はりま。兵庫県 )、近江( おうみ。滋賀県 )、尾張( 愛知県 )、遠江( とおとうみ。静岡県西部 )の各遠隔寺領に対する、将軍権威による謄本登録的な判物( はんもつ。公認書。誓願文写し管理の基準 )だが、書面から、ここでは上同士の認知のことまでしか書かれていない。1490 年の時に説明してきたが、まずは上同士( 中央・畿内 )の次世代身分制議会化( 次世代産業交流社会化と地政学的軍兵站体制に対応できるようにするための、各階層の序列敷居の見直しと交代制的な譲り合いの上同士の手本の作り合い )が遅々として進まないからこそ、地方も畿内の目先の利害次第の偽善憎悪の弊害を受けるのみで、それで地方間地方各郡の各地域の次世代寺社領再統制などできる訳もない。それをまず中央・畿内側から手本的にしなければならなかった、しかし将軍側・禁門側( 中央の世俗議会と聖属議会 )がいつまでもそれを進められそうにもないまま、ただ地方に「畿内で議決( 決着 )されるまで待て( それまで畿内の足並みに合わせよ。地方は畿内の敷居管理外の勝手なことをするな )」と延々と待たせ続ける訳にもいかない、地方の事情とは明らかに無関係・非地政学的な畿内の偽善憎悪( 中央・畿内で解決できない諸問題 )を地方に持ち込んで地方をただ荒らすのみのその足並みをいつまでも地方に強要し続ける訳にもいかなくなってきた。だから地方や郡をなんとかまとめられそうな各地の有力者への期待を前提に 制札・法式 を委任・移管し始めた( 地方有力者らへの寺社領再統制権・人事権の遠回しの委任 = 本来は総家長・武家の棟梁である足利将軍家による等族指導が中心でなければならない序列統制権の、しかしいつまでも中央が再帰できないままでいたから中央が地方を敷居管理する権限を手放なざるを得なくなってきたことを意味した。下々はその意味をすぐに理解するのも難しいが上同士では解っている部分。室町の三管四職体制は 1467 年の応仁の乱の前からとうに教義崩壊していたが、応仁の乱から24年も経ったこの期に及んで何もかもをごまかし続ける訳にもいかずの、そこに正直に遠回しに根を挙げている認知をして、地方に再度協力を願う流れを意味した )事情を前提に、この安堵状( あんどじょう。表向きの中央総家長による謄本登録的な最終公認書 )の実態を見渡せなければならない。Wikipedia で足利義材( 足利義稙 )をざっと見渡せば( ああだったこうだった をただ追うのではなく、畿内関係の有力者たちが解決に向けて有志的に懸命に動こうとしていたかどうか、すなわち畿内再統一に向けた総選挙的・評議名義性と選任議決性の敷居を巡る終結に向かおうとしていたのかどうかの様子が、それが少しでも見られるのかどうか の荀子主義観で眺めれば。そこを織田信長と羽柴秀吉の台頭期とで見比べてみれば )、室町体制の立て直し( 上同士の仕切り直し = 中央吏僚と地方の等族諸侯資格の見直しの管区整備体制 )に向かおうとしていないことなどはっきりしている状況下で、本文献項のような将軍権威による安堵状をただ振りかざす( 等族指導など明確でない性善説放任主義に任せるまま )のみで、それで目先の利害次第の顔色の窺わせ合いではないといえる地政学的組織構想の手本らしい軍役や施政の手配とその代替保証の連携が行き渡る訳も、その方向に自然に進んでいく訳もない。まず上同士でそのだらしない偽善体質が改善されていかないから、下々もいつまでも低次元同士であり続けるための足並みを強要され続ける構図( 戦国後期までにそこへの広域領域敷居改革が進めらている地方と低次元なままの地方とで力量差がはっきりしてくる構図 )は現代でも同じである。畿内近隣の将軍直轄領としてのいったんの返上も、畿内経済を支えさせるための畿内近隣の旧荘園領( 旧聖属領 )の仕切りもまず畿内の上同士でできていない( 地政学的政権議会として機能していない、その等族指導が行き渡っていない )のに、地方の遠隔寺社領をどうやって再統制できるのか、中央総家長に対する軍役や施政への使命感( まずは上同士の地政学的な等族義務 )をどうやってもたせられるのかという話なのである。のち織田信長が畿内再統一も含め、織田領の敷居としての再統一が行き渡っていない地域の、旧室町権威や旧寺社領慣習の一斉の巻き上げと再手配( 旧態慣習への旧廃策の明確化と次世代謄本登録 )がなぜ強行されたのか、この前後関係がまず把握できていない時点で、戦国終焉期がどんな情勢だったのか理解できている訳がない所になる。戦国終焉期は、絶対家長らしい旗本吏僚体制の議事録処理( 誓願文写しの敷居管理 )による人事構想的な典礼・優先権も受けていないような、そこを壊し合い低次元化させ合っているだけの力関係の顔色を窺いながら、目先の利害次第の不都合の排撃( ただの偽善憎悪の押し付け合い )に加わって手柄を立てさえすれば出世できるかのような、ただ足元を見合いお家乗っ取りの隙を窺い合えばいいかのような、それが合格・高次元/失格・低次元を領域敷居管理する上の立場な訳がない低次元な格下どもの勘違いの国盗り物語の幻想は許されなくなるその次世代下剋上的議会化( いつまでも地方全体でまとまりがない国衆一揆の問われ所に対処しなければならない、そこを浄土真宗にも煽られるようになり慌て始めた上同士の社会心理 = まずは上同士で低次元化させ合わないための評議名義性と選任議決性の折り合い・次世代序列敷居改めの議席の譲り合い・交代制への対応が問われるようになった上同士の気まずさ )の大事な経緯が欠落しているまま、畿内再統一や本能寺の変( 教義問題 )を語ろうとする歴史学者気取りの史学荒らしどもが後を絶たないのはあきれる他ない。本文献項に戻り、次世代下剋上社会化が問われ始めているこの頃での、地方の遠隔寺社領統制に関する公認の実態は、その身分再統制の主導が畿内でないからという理由でそれを延々と後回しにしている( 待ったをかけ続ける )場合でもなくなっている中で、ただし何の認知もしないのも将軍権威の体裁としても現場としての体裁もまずいままだから、だから現場をまとめられそうな有力者がいるような遠隔寺社領に対して順次、体裁上の公認書を後手後手に作成している有様なのが実態といってよい。
1491/08、梅心瑞庸、織田広近( おだ ひろちか )の寿像賛を書く。織田広近寿像賛并序 虎穴録。
※ 原文は略。この織田広近は、織田敏広( 伊勢守家の当主。尾張上四郡側の惣領。応仁の乱の旧東軍・旧西軍の余波で、大和守家・下四郡側の惣領の織田敏定とかつて争ったが和解。以後は織田敏定が尾張の主導になる )の弟だが、織田敏広に嫡子が居なかったため、織田広近の子の織田寛広( おだ ひろひろ/とおひろ。織田千代夜叉丸 )が伊勢守家の次代当主となる。和解後は織田広近と織田寛広の親子は、主導の織田敏定( 大和守家の当主 )から改めて重臣扱いされ、その信任と活躍ぶりも目立つようになるが、織田広近は 1481 年に亡くなっていることが Wikipedia で確認できる。織田敏定が足利義政時代から将軍家と相国寺の支援のために上洛するようになった折から、織田広近もそれに協力的に同行し、その上洛路のための近江守山の治安・守備を任されていることからも、相国寺としての織田広近に対する印象もかなり良かったことが寿像賛が作られることになったと見られる。この頃は将軍家や朝廷の権威など常に不安定だったからこそ、その叙任式による四位以降の国司職( 大和守、伊勢守、伊予守、伯耆守など。やまとのかみ奈良県。いせのかみ三重県。いよのかみ愛媛県。ほうきのかみ鳥取県 )や内官職( 治部少輔、刑部、采女、大膳など。じぶしょうゆう ぎょうぶ うねめ だいぜん )の正式な任官などよりも、この頃は寿像賛の方が価値があったかも知れない。戦国時代に、有力上層の表向き被官以下の各地の国衆らも名乗っていた国司職、内官職の多くは自称的で、それぞれの家系が代々その官職を名乗っている場合も多く、次代が引き続きそれを名乗ることを、所属している地方や郡の代表格に認知してもらってそれを代々称していることが多かった。西洋の14世紀や15世紀あたりに、王族が教皇庁に何らかの叙任式を依頼すると、王室財政に支障になるほどの巨額の献納の要求や、教区( 司教座 )権威強化のための多大な奉仕義務の要求、さらには教皇庁が不都合だと見なした対王族の軍役まで要求されがちであったため、王族は教皇庁を通さずに地元びいきの司教たちと連携して、王族の戴冠式や貴族たちへの叙任式( 序列統制 )を地元司教に代行させることも少なくなかった構図と少し似ている。その王族や地元司教の地元連携の権威が安定していれば、それらによる地元貴族たちへの叙任式も一定の序列権威の重みが維持できたのと同じように、常に不安定な将軍や朝廷の権威の任官式にいたずらに頼ることで厄介事を抱え込むよりも、なんとか地方をまとめられているような地元の代表格からの認知で官職を名乗ればよいという慣習が、国衆たちの間でもできていた。もちろん、将軍や朝廷からの正式・明確な叙任式で地方の代表格がその官職を名乗るようになったという、その典礼が通された上での、その立場から地元家臣たちの以下の官職を序列的に認知するという形が採られた方が重みがあった。ただしそれは将軍や朝廷( 中央・畿内 )のある程度の権威回復やその代替維持が見込める前提( その再建の手本的な貢献者だからそれに相応する叙任を受けるという形 )で動かれた訳でない、そこをたらい回すような求め合い( 権威をいい所取りに調子良く解釈し合い下を作り合うのみで、前近代的な誓願文写し敷居管理の手本の作り合いといえるような上同士の本来の等族義務を果たし合おうとしない、それができたことがない低次元同士が迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラの偽善憎悪を向け合いそこをうやむやに壊し合っているだけの博徒行為・おもちゃ扱い )ばがりすれば、畿内の弊害( 反地政学議会的な目先の利害次第のみの偽善憎悪の顔色の窺わせ合いによる家格・格式の上げ下げ )をただいたずらに地方( 道義外 )にもち込み合うのみに低次元化させ合う原因( 議席的序列敷居の壊し合い )にしかならない。陥りがちなこの弊害構図は、現代の個人間・組織間ごとそれぞれの現段階道義内( 痛感性・分野分業多様性 )と現段階道義外( 教訓性・想定構想体制性 )の領域敷居管理( 低次元化防止のための自分たちの上同士の最低限の手本の作り合いが大前提の高次元側 と 無関心・無神経・無計画によその上限をたらい回し合っているだけの偽善憎悪の顔色の窺わせ合いで下を作り合い低次元化させ合うことしか能がない低次元側 の敷居管理 )の見渡し方でも同じことがいえる。そういう所( 国際地政学観すなわち次世代等族指導役・皆の面倒見役・謄本登録身分保証管理役といえる絶対家長・武家の棟梁のあり方を巡る評議名義性と選任議決性 )の力量( 上同士の手本の作り合い )も問われて迎えたのが戦国後期から戦国終焉期の広域領域敷居競争( 総家長権争い )の特徴なのであり、せっかく次の段階( 次世代化のための畿内再統一 )の流れを作ってくれた織田政権時代と豊臣政権時代の手本を壊さないよう、そこからやむなく下方修正されながら迎えたのが、徳川政権の江戸時代なのである。
1491/10/11、織田敏定の求めにより、斯波義寛の越前国朝倉貞景討伐についての将軍御内書が書き換えられる。蔭凉軒日録。※ 原文 ※ 十一日、不参、天快晴、( 中略 )就越前御下知、武衛錫( 斯波義寛 )御内書、( 朝倉 )貞景御退治云々 、織田大和守( 敏定 )聞于相公云( 足利義材 )、貞景之二字許如何、改書云、越前国朝倉孫次郎貞景退治云々、如此御改書有之、弥武衛御面目之至也云々、十二日、不参、天晴、( 中略 )季才話云、就越前国御下知御内書事、被仰付伊勢守貞宗書之、以伊勢備中守貞陸被遣左兵衛佐( 斯波義寛 )殿、蓋朝倉御退治之御下知也、左武衛義寛公則為礼謝参陣、被献御太刀・御馬并折紙、於御前御一献有之、相公為越前可有御動座之由、有其聞云 々 、( 後略 )
※ この2ヵ月ほど前の、前頁 1491/08/15 の相国寺蔭凉軒の記述の、対近江六角氏の将軍足利義材( あしかが よしき )の上洛軍の呼びかけの際の事案。上同士の事情が解っていれば何が起きていたのかも容易に窺える。足利義材の上洛軍の呼びかけに、畿内の近場である越前守護代( 福井県の主導 )の朝倉貞景( あさくら さだかげ )が応じなかったことを、尾張武衛家( 斯波義寛。しば よしひろ )が咎( とが )め、越前朝倉氏に対する格下げ制裁的な将軍家( その窓口の幕府政所執事の伊勢一族。執権というよりも中央政務吏僚の筆頭・長老格 )への上奏を、織田敏定が請け負った様子を記述したのが、この相国寺の書状になる。まず、室町体制における斯波家の表向きの家格は、三管家( 管領。かんれい。守護よりも広域な管区整備諸侯扱い )の格式として細川家、畠山家と並ぶ大手で、越前の守護職( しゅごしき。室町体制における州の総家長・代表格 )も元は斯波家だったが、越前の主導・実権を握るようになっていた守護代の朝倉氏の場合は、尾張守護代の織田氏とはだいぶ違っていた。尾張斯波家の守護代( 副官。最有力家臣 )の立場から尾張の主導になった織田家の場合は、斯波氏の支え役としての表向きの序列体裁は維持し続けたため尾張斯波家の面目は保たれた、つまり室町体制の序列権威の表向きの体裁は保たれていたが、越前斯波家の守護代の立場から越前の主導となった朝倉家の方はそこに和解的ではなく、越前における旧斯波序列権威色への露骨な排撃( 追い出し )ばかり強めていた。応仁の乱以前からただでさえ地方間交流はおろか地方内地域間交流すらどこもうまくいっていない中で、尾張斯波家と越前朝倉家の上同士の関係など険悪この上ないに決まっていた。足利義材の呼びかけに武衛家( 尾張斯波家。足利一門の序列として重きを成した )は、織田敏定の支えを得る形でまとまった立派な上洛軍を編成し、将軍の呼びかけに駆け付けることができたことは、表向き斯波義寛と織田敏定がよく協力し合うことができている姿を、それができていない畿内近隣に見せ、一時的であっても足利将軍家( 室町総家長 )の威厳もなんとか支えられた。どの地方もそうした主従序列的な原点回帰( 本来の忠君忠友的な家長選出とその序列体制のあり方 )ができていなかったこの頃においてのこの実績は、上同士の見直しの手本の第一歩だったとすらいえる。将軍の呼びかけに尾張勢が立派な上洛軍を編成して駆け付けたという、目立った既成事実に直面した( どこもなかなかできていないことを先駆けされてしまった )からこそ、畿内近隣の有力者たちも何もせずにそれをただ見過ごす訳にもいかなくなる気まずさが出てくるのは、現代における上同士の社会心理の構図でも全く同じである。旧室町慣習における家格権威を目先の利害次第に上同士でいい所取りし合う( 老害慣習・偽善権威への顔色の窺わせ合いを強要し合う )ばかりで、尾張勢ができていることを他では何もできなかったという既成事実を見過ごしてしまうようでは、それら有力者らの序列権威を低下させかねなかった。だから畿内西隣で威勢を強めていた但馬山名氏などは、手勢は大したことはなかったとしても上洛軍の要請に慌てて駆け付けたのである。この状況を現代の商戦に例えると、競合大手間でかつて一位二位を競ってきたり、集約化・多様分業化・次段階市場化が進む前まではある分野を独占してきたような商社が、過去のやり方のままの旧態主導権威の立場にただ頼り続けるのみ( 合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する業界の大様側を気取り続け、その力関係の顔色の窺わせ合いでいつまでもごまかし続けるのみ )で、時流( 集約化・多様分業化 )に合ったやり方の新商品開発や新分野事業を拒否ばかりして遅れを取り続け、そこを企業努力体制( 議事録処理の敷居改め。君臨禁止の交代制的な選別人事整理の議会再統一。まさに織田信長が手本的にできていて他ができておらず大差となった部分 )で巻き返しができなくなっていけば、その商社( その序列敷居統制・社訓 )としての企画力や販売力といった求心力は低下・衰退する一方の、よくあるその次世代下剋上社会的な構図( 次の段階の構図 )は当時でも現代でも、個人間でも組織間でも研究分野でも同じになる。話を戻し、足利義材にとっても斯波義寛にとっても相国寺にとっても、その表向きの体裁まで配慮して支援役を請け負ってくれた織田敏定の存在( 熱田社、妙興寺、笠覆寺といった大手寺社領の、地域間のいがみ合いの原因の上同士の対立の長引かせをできるだけ抑え、議会的に連携させる手本的な尾張のまとめ役 )はだから本当に貴重だったといえる。足利義材の呼びかけによって、まず尾張から斯波義寛と織田敏定が立派な上洛軍を編成して駆け付けたことはかなり目立つ形で良い所を見せることができた。そして、その尾張斯波家に気まずいばかりに上洛軍を結局寄越そうとしなかった朝倉貞景のことを、斯波義寛がここぞとばかりに「何が越前守護代だ!」と、越前朝倉家への序列権威の矛盾( こういう肝心な時に、管領・守護の支え役も将軍の支え役も果たせない有様の、それの何が守護代としての立場なのか! )を咎めたのがこの文献項である。なおこの旧室町序列のこうした事情は、のちの織田信長時代の畿内再統一( 戦国終焉期 )を巡る尾張織田氏と越前朝倉氏の対立においても、いくらかの尾は引いていた部分ともいえる。三管四職中心の序列権威の地位( 旧室町体制 )などはいい加減に、分国法・領国体制次第の中の仮称的な肩書きでしかなくなる戦国後期にあっての、織田信長の人事( 上同士の議席の譲り合いの次世代身分再統制 )からその差もはっきり窺えることして、本当に形だけでしかない旧尾張総長の斯波義銀( しば よしかね )は、最後の機会とばかりに権威回復を望んで( 尾張をまとめ直せるだけの、戦国後期らしい等族指導ができるのかどうかも怪しいままに、ただ利害次第にいがみ合おうと )織田家に反抗・対立しても、後で誤解を解消し合う間違いのない議会的( 敷居確認的 )な和解努力へ向かおうとしている姿勢が見られる上同士の手本になっているのであれば許容している。考え直して織田信長と和解に動いた斯波義銀は、旧権威こそ巻き上げられても旧貴公子扱い( 旧上級武士の家系扱い )の待遇くらいは用意された上、斯波義銀の弟( 家来筋 )の毛利秀頼( もうり ひでより )には尾張毛利家の小武士団を継承させて功績を立てる優先権を与え( 実際に毛利秀頼の武士団に所属していた序列の低い家来筋の毛利良勝 もうり よしかつ が桶狭間の戦いにおいて今川義元を討ち取っている。その後も吏僚的な有望家臣として軍務・政務に従事し、織田氏による新政権確立目前には、等族諸侯の仲間入りの第一歩の、信濃南部の広域の支配代理の家格を得る )、もうひとりの弟( 家来筋 )の津川義冬( つがわ よしふゆ。斯波義冬。のち尾張・伊勢の広域を任せられる予定だった織田信雄 おだ のぶかつ の、その家老・相談役・執政に抜擢 )も、新政権確立に向けての管区整備側の一員として抜擢している。また美濃斎藤氏攻略戦においても、格下げ覚悟で織田氏と交渉に動いたことで少しは見込みはあると見なされた旧美濃衆たちは、斎藤氏時代の家格待遇の仮公認や、吏僚候補に改めて組み込むなどの寛大な人事整理に取り組まれている。それまではやむなく足並みを揃えていただけの連中を、地方再統一・畿内再統一の敷居( 次世代中央政権議会のあり方。その評議名義性と選任議決性の明確化 )もはっきりさせない内から、中には有志が居るかもしれない連中を再選別しようともしない・人材を惜しもうともせずに敵意を向けた一味だと見なし次第に全て威力任せに排撃対象に扱おうとするような、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような目先の利害次第の下の作り合いの反地政学議会的な顔色の窺わせ合いの低次元なやり方( 上同士としての国際評議会的な議事録処理・誓願文写し領域敷居管理の手本の作り合いの最低限もできない低次元同士の、何を逆らっているんだ観・そんなこともわからんのか観をただ出したがるだけの偽善老害行為・低次元化行為 )こそを織田信長が特に嫌い、旧廃策( 敷居荒らしを始めたがる上の立場失格扱い )の対象にしていた部分になる。戦国終焉を目指す織田信長の広域領域敷居に合わせる前提でいるのかどうか、その見込みがあるのかどうか次第( 許容期間までに格下げ覚悟で和解交渉に動こうとしていた集まりだったかどうか )によっては、旧権威派・反織田派の一味というだけでなんでもかんでもその全てを力任せにねじ伏せるのみのやり方はしなかった、次世代総家長( 国際地政学的な絶対家長・中央総家長・最終議決の総議長 )としての上同士の手本も存分に見せているのである。畿内の支配権を巡って反織田派を強めていた三好氏に頼るも、途中で織田派に鞍替えした小笠原貞慶( 信濃の支配者としての地位を追われた身 )にも、信濃( 旧態 )攻略の準備要領に参加させる優先権くらいは与え、信濃復帰にこだわらないのならという前提の小笠原家の家格再興機会も与えている。織田氏を頼った能登長氏( ちょう。長谷部氏 )や越中神保氏( じんぼう )も、旧畠山権威( 能登と越中の管領権威 )時代の重臣格・領主家格としての復帰ではなく、等族諸侯候補( 近世大名候補 )の前田利家と佐々成政の有力家臣扱いなら功績を立てる機会の優先権を与えるといったように、旧態体質( 上同士の手本をうやむやに壊し合い低次元化させ合い続ける反次世代情報技術交流主義 = 偽善憎悪 )は巻き上げ( 旧廃策 )対象として、上から順番に織田氏にどんどん踏み潰されていった( 旧態体質に巻き戻そうとする連中は敷居荒らしと見なして上から順番に容赦しなかった = 16世紀のその教義圏の総裁・絶対家長・絶対王政の本来の役目 )際の、その内訳を見落とすばかりの印象ばかりが拡散され続けてきたが、それまでそこに所属していたその全てが、再選別・再興機会の一切が与えられずに一斉に踏み潰されていったという訳ではない。戦国後期に尾張織田氏がついに畿内に乗り込む事態となった際でも、その前段階の美濃斎藤氏攻略戦でも、その前段階の尾張再統一でも、織田氏は旧序列敷居に対する旧廃策( 次世代敷居に向けての撤廃 )と同時に、格下げ覚悟( 地位・議席の譲り合い )がもてていた協力的な家系に対しては、仮公認や再配属( 再家臣団化 )の面倒見の良さ( まずは上同士としての手本家長らしい示し合い )も見せていた。そういう所が越前朝倉氏だけでない、他もできていないから( 畿内再統一すなわち前近代的な情報技術交流社会化に改めるための国際地政学観・広域領域敷居管理といえる吏僚体制・官民再分離などできそうにもない、裁定される側の地方裁判権止まりの地方家長の分際だから )その敷居差に気まずいばかりだった、すなわち織田氏の敷居( 地政学的な広域領域敷居管理が前提の旗本吏僚体制・官民再分離・街道整備・軍兵站体制・寄騎転属体制・交代制 )に合わせようとする時点で朝倉体制だけでない、他の多くの戦国大名たちの精神的支柱( 浄土真宗に領域敷居競争をけしかけられて慌てて整備したに過ぎない段階の分国法・領国体制・人事敷居 )は崩壊していたのが実態だったのである。上から順番の大幅な格下げは免( まぬが )れなかったから、足利義昭にしても朝倉義景にしてもそれに一緒になっていた反織田派の連中も、そこをごまかし続けながら自分たちの地位を維持し続けようと織田氏の畿内再統一( 次世代政権議会の敷居すなわち中央が手本となって地方を次世代管区整備するための上同士の評議名義性と選任議決性の明確化 = のちの賤ヶ岳の戦いと関ヶ原の戦いの、上同士の総家長支持戦・選挙戦の良例手本となる )を荒らす( 偽善憎悪を共有し合ってそこをうやむやに低次元化させ合う )方向に動いたのである。広域地政学的な地方間の交流などろくにしてこれなかったような、次世代敷居を荒し合うことしか能がない今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりのような法賊ども( 偽善老害・低次元化分子の分際にも拘わらず合格・高次元/失格・低次元を領域敷居管理する立場を気取ろうとする身の程知らずども )の寄せ集めのやることなど、下々・部下たち・次代たちへのごまかしの勢い任せ( 敷居・相場観が浸透していない時間差の間の偽善憎悪の共有手口 )に頼れる最初の内だけで長続きする訳がないのは現代でも同じになる。さっさと織田派に鞍替えしようとせずに、今まで通りの立場を維持しようと旧態序列権威( 世俗議会の老害慣習序列と聖属議会の教義悪用序列 = まずは上同士としての国際地政学的評議会観の手本をうやむやに壊し合い無評議・無議決・無構想に低次元化させ合う偽善憎悪への顔色の窺わせ合い )にだらしなくしがみつき続けてしてきた旧有力者たちが上から順番に踏み潰されていったのは当然の話だったのである。どういう所がどう違うのか、現代のことでも当時のことでもこうしたひとつひとつの時系列を見渡していくことで、見落とされ続けてきた全体像( 上同士の社会心理 )も自然に見えてくるようになる。それによって、のちの織田信長の台頭期の畿内再統一への乗り出しの事態を迎えてとうとう進退を迫られた上同士の様子も、本能寺の変はどのようなものであったのかも自然に見えてくるようになる。
1491/10/16、織田寛広の弟の宗湫喝食、相国寺蔭凉軒を訪れる。蔭凉軒日録。
※ 原文は略。僧籍入りしていた宗湫( そうしゅう。尾張上四郡の守護代・伊勢守家の当主の弟 )と、相国寺( 臨済宗 )の上層の面々と会合したことが短めに書かれているのみ。この宗湫なる人物は、尾張の臨済宗の分寺のひとつの、禅源寺あたりの地位の高い喝食だったと見られる( かつじき。寺院の修行僧たちの道場生活の中での食事係のことだが、地位の高い者は配膳の手配だけでなく、臨済宗内での上層交流の典礼作法の取り仕切りや、出向の重役の担当などもしていたと見られる )。上同士の文献は、この先どうなるか解らない事項も多い中で、地方間交流どころか地方内地域間交流すらままならない所だらけだった当時だからこそ、なお相国寺と織田氏との内々の取り決めのことなどは機密扱い( また本決定事項でもない、話の進み具合によっては変更もあり得る内容のものだからこそ、うまくいっていない寺社領間の対立に悪用されかねないからこそ、いたずらに外に持ち出されるようなことは避けなければならない )しなければならなかった所も考慮できなければならない。「こういうことがあった」という年代記的な記述はされても、内々の意見交換などのその具体的な歩調の合わせ方や進み具合などは一切書かれない場合が多い。文献を用いるといってもそういう所も考慮して見渡していかなければ、ただ大きな事項なのか小さな事項なのかばかりに気を取られた列挙の仕方だけしていても何も見えてこない。一方で「こういうことがあった」という年代記的な記述が見られる時点で、何らかの関心が持たれて書かれている傾向は見逃さずに、それと時系列的な全体像( 上同士の社会心理 )とを整理的に見渡していくようにすれば、見落とされがちな部分も自然と見えてくるようになる。本文献の相国寺( 中央・禁門側 )としては、今後どうしていかなければならないのかについて、尾張の臨済宗の遠隔寺領や熱田社の社領の地域間交流をまとめることができていた方だった尾張織田氏との協力関係が大事にされていたことは少なくとも窺える。
1491/11/09、京都の織田敏定邸に飛礫( つぶて )が打たれる。山科家礼記。※ 原文 ※ 九日、晴、壬午、( 中略 )今タ六時ニヲタノ大和所( 京都の織田大和守の邸宅 )ツフて( 飛礫 )ウツ、曲事之由申也、( 後略 )
※ 織田敏定の京の滞在時でのことだったのかは解らないが、京の織田氏の邸宅に石を投げ入れるという物損的な軽犯罪があったことが窺える記述。畿内にしても地方間にしても、どこも交流などうまくいっていないこの頃にあって、尾張織田氏はむしろ畿内権威よりも有力ですらあったといえるからこそ、尾張織田氏のことを畿内の面目を潰す外のよそ者として煙たく思っていた何者かの仕業であるのは間違いない。邸宅を打ち壊したり焼き払ったりといった加熱の集団心理に向かうほどのものでもないため、上同士の事情などよく解っていない個人的なものだったと見られる。愛知県史 資料編10 では、山科家( やましな。廷臣上層の名門のひとつ )の記述の中にこの石飛礫の小事件のことが触れられていたから前後は略し、尾張の関連事項ということでその部分だけ、このように列挙している項目も少なくない。1467 年に応仁の乱が起きる前から既に経済崩壊が著しかった京は、乱後に焼野原となった後は、御所( 世俗中央議会 )や朝廷( 聖属中央議会 )も含める建造物の再建自体は時折は取り組まれたものの、畿内再建( 畿内・高官筋の本来の等族義務としてしなければならなかった、次の段階といえる評議名義性と選任議決性の敷居を巡る上同士の代表選挙戦 )に向かうことのない低次元ないがみ合いの戦火も繰り返され、そこが解決されない以上は( 絶対家長的な次世代旧廃策の敷居改めがされない以上は )奪い合い壊し合い下を作り合う低次元な偽善憎悪( 老害偽善・教義権力 )の押し付け合いに対し、畿内( 政権議会 )にそこに何ら地政学議会的な対処力・抵抗力( 上同士の手本の作り合いの謄本保証的・構想計画的な序列敷居の見直しといえる等族指導力 = 前近代総議長・絶対家長が果たさなければならない本来の姿 )が上同士で一向にもたれず、だらしなくそれに延々と押され続けるのみで、再建・改善( 次の段階の文明的な情報技術交流体制 )の見通しなど立つ訳がない陥りがちな構図は現代でも明日は我が身である。以前と敷居が何も変わっていない、ただ下を作り合いただ迷走し続けるのみ( 手遅れ寸前と手遅れの狭間になってからが認識の初動であり続けさせ合うために徹底的にうやむやに面倒がり合う偽善憎悪を向け合い敷居荒らしをし合うことしか能がない、その顔色の窺わせ合いで迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラをし合い低次元化させ合うことしか能がない分際が、できもしない合格・高次元/失格・低次元の領域敷居管理をする上の立場を気取ろうとする有様 )の構図は、現代でも陥りがちなありがちな構図である。その社会病理をのち織田信長が、次いで豊臣秀吉が上から順番にそういう所( 次の段階を妨害し合い壊し合い低次元化させ合う敷居荒らしの老害偽善行為・閉鎖有徳行為・博徒行為 )への徹底排撃( 荀子主義的な旧廃策 = 中央再統一 )に乗り出したのである。のち織田信長が畿内に乗り込むまでの京もやはり、それまでに建造物のいくらかの再建も取り組まれても、何かあるごとに壊し合いも続けられたたため、都市経済として機能など安定せずボロボロのままだった。その少し前に、西洋のキリスト教徒たちが堺衆との交流の紹介を得て皇室( 朝廷 )に謁見を試みた際でもやはり、話で聞いていた以上の酷かった京の荒れ果て具合( 再建の見通しなど明らかに立っていなかった様子 )を実際に西洋人たちも目撃し( 教義圏国家間の正式な情報技術交流のための教義の受け入れの交渉にはもう少し時間がかかりそうな旧室町体制の様子に、その国交の相談窓口が機能していない様子に )がっかりしている。ここで本文献項を改めて見ていくと、どの中央寺院( とその旧有徳領扱いのそれぞれの商業・物流区画地 )もボロボロのままの中、尾張織田家は、廷臣上層や禁門寺院にとっての尾張での遠隔荘園領特権をどうにか維持できているほどだからこそ、京の織田家用の屋敷も、大きさはそれほどでもなかったとしてもそれくらいの遠隔維持くらいはできるだけの力も尾張織田家はあった。京は御所も朝廷も皆ボロボロなまま( 畿内経済の支え役の畿内の荘園体制など崩壊していた )の中、手入れが行き届いている京の織田家用の屋敷は維持され綺麗・立派に見えたことはだいぶ目立ったと思われ、目先の利害次第しか考えていない畿内の低次元同士どもにはその意味も解らないまま不自然に見え、曲解することしか能がない( ねじ伏せ合う力関係次第の偽善憎悪の向け合いが大前提の見方しかできない = それが支えられているのは、誰かが・どこかの地域が犠牲にされているに違いないという下を作り合うのみと、上同士の手本の作り合い、との最低限の違いを認識するだけの知能もないまま思考停止している )ものである。その深刻さはこの屋敷に関することだけでなく、尾張織田家によって尾張の遠隔荘園領特権がなんとか保たれ、その恩恵をなんとか受け続けることができていた廷臣や中央寺院に対しても全く同じ、それが偽善憎悪の向け合いに原因化するほど( 尾張織田家のおかげで恩恵・支援が得られていた畿内上層らが悪、皆で敷居荒らしをし合いボロボロになり合うのが善であることを強要し合う )有様の、地方の手本でなければならない畿内側の等族指導など行き渡っていない、あきれる他ない畿内の実態がこの石飛礫小事件でよく現れている。繰り返すが目先の利害次第に曲解し合うばかりで全体像( 上同士の社会心理 )を見渡そうとしない、そこを徹底的に面倒がり合いうやむやにし合い続ける愚かさだらしなさの構図は現代でも全く同じで、そうした各当事者の領域敷居観というのは普段からの言葉の用法の仕方や文面構成の仕方( 低次元化防止・旧廃策を目指してきたのか、それともただ下を作り合い低次元化させ合う顔色の窺わせ合いのための言葉の向け方しかしてきていないのか )からでも、孫子の兵法の組織論で指摘しているように高次元側( 低次元ないがみ合いを繰り返させない・やめ合う/やめさせ合うための手本の作り合いができる側 )からはそういう所がお見通しの、いい所取りできている気にごまかしているだけの低次元側のその見苦しさはいとも簡単に急所として見抜かれる部分になる。話は戻りこの頃は、だから地方が遠回しに畿内と決別し始める( 地方で次世代下剋上化を見せ始め、いつまでも地方分寺の遠隔寺領への再統制を進めることもできなかった、偽善憎悪でしかない畿内の弊害を地方分寺に持ち込んで悪化させ続ける訳にもいかなくなった禁門側としても 制札・法式 の寺家代官の役目を地方の有力者らに、遠回しに内々に移管し始める動きも見せるようになった = 戦国後期の分国法・領国体制に向かう大事な過程 )気運が、地方敷居差次第に強まり始めていたのである。他宗間ごとの寺社領の交流・連携はおろか、その本寺と地方分寺と地方分寺のさらなる分寺の同宗寺領間での交流・連携すら多くが再交流させられていない有様( 今の日本の低次元な教育機関と全く同じその弊害支障でしかない、反地政学観の旧態教義のままの禁門資格・教義権力で縛り付け続けてきた公的教義・比叡山延暦寺はのち踏み潰されて当然の運命だった有様。その管理人の等族指導役でなければならないが聖属議会・朝廷改めをろくに進められなかった廷臣たちものち、織田信長にとうとう言い逃れ無用に問い詰められる事態を迎えた部分。本能寺の変に影響 )においての畿内側の旧有力者も下々も、そのような情勢になり始めていたこと( いつまでも寺社領再統制が上同士で進められなかったことで苦み続けた地域も多かった、だから浄土真宗が旧世俗慣習、旧聖属慣習ともに決別を前提とした、浄土真宗の敷居による寺領化交流・独立聖属裁判権が前提の一向一揆運動・領域敷居戦略に動かれてしまった部分。先駆けでそれに転用できてしまえた程、蓮如上人の手本的な教義整備力は強力だった )への整理的( 前近代議会的 )な認識( 地政学的敷居確認 )など十分にできている訳がない。この石飛礫小事件は、地方と畿内とのその残酷な敷居差が窺える一幕であり、そういう所から全体像( まずは上同士の社会心理 )を回収していくことが、史学研究としても現代の社会病理を見渡していくにしても重要になる。
字数制限で今回はここまでになる。もっと省略的に進めたい所だったが今回も大事な説明を入れておきたくなり、解説が多めになってしまった。意味が解らないままただ文献項を羅列だけしていても何も見えてこないためやむをえないが、どのような見渡し方ができなければならないかの大事な所が、これで少しは伝わるのではないかと思って続けている。しかし現段階で 愛知県史 資料編10 ( 10巻は 1470 年~ 1559 年 )のまだ20%ほどしか進んでおらず、2025年こそはプログラム解説の方に着手したいこともあり、どこかで区切りをつけて進めていきたいと思っている。