近世日本の身分制社会(041/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史32/34 - 2020/08/14
 
織田信長の尾張再統一以後、改革された裁判権に従わない閉鎖有徳どもは排撃され、従った国衆たちは再家臣化されて本拠城下の武家屋敷に強制移住となった。

これまで地方全体の軍政改革を大きく阻害してきた、狭い視野の歪んだ閉鎖規律は一斉に改められ、見込みのある有能(教義競争者)に見合った役割と待遇が当て直されていった。

これはまずは、家臣たちに公務意識(等族義務)からの主体性(できていて当たり前の、上の最低限の公正手本の国際規律)を教義指導することが、特に重要な部分だったといえる。

このいかにも荀子主義者らしい信長の、組織の様子からの教義性についてまとめていく。

信長が美濃を制圧すると、美濃の政局でもあった稲葉山城岐阜城と改名し、家臣たちの武家屋敷も一斉に、強制移住させた。

信長は美濃攻略に向け、本拠を尾張の清洲城から小牧山城へ、そして美濃攻略が完了すると岐阜城(稲葉山城)に、当たり前のように移動させているが、他の組織ではこれ自体が簡単なことではなかった。

国衆たちの閉鎖地縁が織田氏ほど抜けきれておらず、地方全体の政治視野(国際規律)がそこまで育っていなければ、それをできるほどの公正な旗本吏僚体制も国際常備軍体制も、どこも整備できていなかったためである。

ここで、信長が本拠を清洲城から小牧山城に移転した時の話についてまとめたい。

国衆たちが一斉に名古屋城・清洲城に収容され、しばらくして「本拠を小牧山城に移す」と信長に言われたため、家臣たちも少し不満を漏らしながらも、渋々それに従った。

当時の清洲城下はすっかり商業都市化して賑わっていて、農商業改革が進んで農地は豊か、商工業が多く、熱田 - 名古屋 - 清洲 - 津島 という商業路による行商の往来も盛んだった。

領地特権のいったんの返上の代わりに、改めて貫高制(給料制)で暮らすようになった家臣の家族は、その豊かで快適な都市生活にすぐ馴染んでいた。

この武家屋敷の強制移住は、商工業のさらなる奨励にもだいぶなっていた。

家臣たちはそんなに贅沢を給金を受けていた訳ではないと思うが、それでも奪い合いのない安定した手当てを受けるようになっていた。
 
庶民から見れば購買意欲も必然的に高くなるその層が、清洲城下・名古屋城下(旧名古屋城・今の名鉄JR名古屋駅の所にあった)に集合住宅化したことで、彼ら用に合わせた産業も当然のこととして促進された。

かつては閉鎖有徳どもが庶民の地位の上下を勝手に格付け、規制ばかりしていた旧態規則がなくなり、商売に応じた税さえ払えばできるだけ平等に商工業に参加できる自由化が促進されるようになった。

買う側も作る側も互いに、信長の旗本吏僚と奉行所の公正化で、不当な旧態規則のいがみ合いが激減して安定したため、当然のこととして実力主義的(教義競争的)な品質量産競争が始ったのである。

今まで味わったことのなかった快適な都市生活に家臣たちがさっそく慣れ始めていた矢先に、信長から早々に「本拠を小牧山城とする」と言われてしまったため、家臣たちの家族もかなり動揺した。

信長は、皆の意見をいったんは聞いたが「やはり当初の話通り、小牧山城に本拠を移すことにした。これは厳命である!」と改めて決議してしまったため、家臣たちも逆らう訳にもいかず、小牧山城に強制移住となった。

他の地方では、こうした支配者の決議ひとつに、それぞれの閉鎖都合の駆け引きばかり始まり、地方全体の政治に、曖昧にしか協力し合うことができていなかった。

尾張では信長の尾張再統一により、裁判権の再規定・国衆の再家臣化によって、そこを明確にすることができていた。

すなわち、支配者側は意見回収をし、従事層たちそれぞれに見合った待遇を保証し(それに反する者を取り締まる)、その規範に家臣たちも支配者側の決議には協力しなければならないという、主従の裁判権を再確認させることができていた。

この本拠移動は、信長の優れた、計画的なやり方が多く窺える所である。

まず信長は、決議を完全表明する前なら、皆が方針に反対的だった場合は、その様子をいったんは見聞きすることはした。

そして次に「やはり当初の予定通り」といういい方で強行する場合が多かったが、このように、いったん間をとることによって「一応は審議はされた」という印象を与えることも、できるだけ大事にしていた。

もしこの「間」をとらずの直行ばかりがされてしまうと「皆の意見を全く見聞きしていない = そういっていたことを全く覚えておいてくれていない」と誤解する者を増やしてしまうことも、よく配慮されていた。

これは結果として同じことであっても、政治的な決議ではこれは、非常に大事な「間」だといえる。

つまり、何の間も説明もなく、何でもかんでも「上だけが解っていればいい。お前らが知る必要はない」ばかりで、何でもかんでも偉そうに上の間(ペース)で進めようとすれば「ただ偉そうに従わせようとしているだけ」という逆効果の意欲の悪印象を与えてしまう場合も多い。

常にそういう姿勢の決議ばかり見せてしまうと「何の説明も審議もないままに、決定されてしまった」という部分のみの被害妄想ばかりを、従事層たちも膨らますものである。

下の不満意見が正当であれ不当であれ、一応は上は「その意見自体は、とりあえず認知した」ということを示しておくことも、非常に大事なことである。(面倒見の良さ悪さ)

債務責任に限りのある地位の低い者であるほど、そこばかりに意識が集中してしまい、「下の意識を全く認知してくれない」といった勝手な不条理にとり憑かれ、狭い視野の閉鎖的な同調意識(思考停止)で歪んでいってしまうものである。

先述した法華教と浄土教の宗教論争問題などでも顕著だったが、信長の場合は「このような布令を出せば、恐らくこういう不満の意見も出てくるだろう」という、大抵はそこまで予測した上で計画されたものが多い。

これから色々と改革していかなければならない時代だったからこそ、余計に「面倒がっている」ように見えてしまう態度は、上であるほどできるだけ見せるべきではないのである。

「良いか悪いかはともかく、真剣に、丁寧に慎重に審議された上で、改めてそうすることになったのだ」という、何事も手抜きしない、面倒がらない態度を見せて伝えることも、特に政治性・組織性では、そういう態度の手本から人々を良い方向へ導くことも大事なのである。

信長の場合は、多くの人々に関係するような布令の場合は、伝達の初動なら、不満が出ても怒らずにとりあえず意見回収はした。

しかしその後に「検討した結果、やはりこうすることにした。これは厳命である!」と公式布令が鮮明化(名目の誓願)された後は、もう家臣たちも逆らう訳にもいかなかった。

そこでなおも、あからさまな反感や不満の態度を出すなら、怠慢だと裁かれても仕方ない、という主従の教義指導ができていた。(態度が裁かれる時代)

良悪賢愚がどうであろうが「とりあえず下の意識を上は、認知だけでもしてくれた」も多い組織決定と、ただ「何も解ってない馬鹿なお前らは、上のいう通りにただ従っていればいいのだ」ばかりとでは、組織全体の規範意欲育成も、大違いになってくる所である。

口ほどにもない公的教義のように「何も解ってない馬鹿なお前らは、こちらのいう通りにただ従っていればいいのだ」だけの偉そうな上下統制の知覚のみが絶対の、関心力・尊重力(当事者力・主体性)の知覚(教義競争)を完全否定することしか能がない分際こそ、口ほどにもない無能(偽善者)なのである。

ただの偶像性癖を社会性だと勘違いして、権威のみに頼っているだけの気の小さい(知能の低い)時代遅れの公的教義体質とはもはや、

①口ほどにもない同調意識に頼っているだけの思考停止型

②大事な心がけを自身で放棄してきた自身の反省など一切しない記憶喪失型

③肝心な時に何の主体性(教義競争認識)ももち合わせていない利害気絶型

に仕立てあげるのみの、ただの愚民統制の典型といえる。

「面倒がらない」信念・姿勢は、「それに対しての虚像(不当や矛盾)は許さない」という意匠的な、当事者尊重力(主体性・等族意識)の信念・姿勢の裏返しなのである。

最低限の当事者関心力(主体性)をもち合わせていない範囲のことまで偉そうに無関心・無神経(無計画・無意欲)に手出し口出しし、偉そうに人格否定ばかりしたがる公的教義のような身の程知らずは、社会性を語る資格などない所か、人間扱いなどするべきではない。

特に40代・50代あたりの現代人は、本当に次代たちのことを心配して憂うなら、そういう上の態度にもっと厳しい目で確認し合うようにしていくべきであり、上の最低限の認識力としてそこを絶対に甘やかし合うべきではない。

話は戻り、信長の尾張再統一で国衆たちの領地特権がいったん大回収され、国衆たちを一斉に武家屋敷に強制移住させた当時、今まで体験したことがなかったその新政策には、その時だけは国中が動揺した。

ただしその動揺も、一時的な杞憂に過ぎなかった。

地縁の閉鎖上下社会の小特権が全宇宙になってしまっていた国衆たちに信長が「家臣のため庶民のためにならん!」と言わんばかりに、その口ほどにもない全宇宙を問答無用にとりあげて回った。

それは同時に、人の上に立つべき公務意識(公正さで人々を守る・手本を示す義務)を再教育するための、閉鎖特権の大没収事業だったともいえる。

現代の公的教義のような極めて気の小さい(極めて知能の低い)理解力のない連中であるほど、それは「この世の終わりが来た」かのような、気絶しかけるほどの異変だった。

この閉鎖有徳排撃による、最下層への大救済と意欲奨励の時勢に、国衆たちも観念して渋々従うようになった者も多かった。

そして本拠城下に強制移住させられてから、その改革の良さがようやく理解できた連中も多かったのである。

まず自由化政策で、農地では食料生産が拡大し、食品だけでなく亜麻糸や綿、菜種油などの生活品殖産も拡大したことで、手工業の生産幅と物流業の取引幅も当然のこととして拡大化していった。

尾張では、室町前期の足利義満時代に見せた大経済社会の復興の兆候を見せるようになっていた。

自由交通交流をこれまで散々阻害し、時代遅れの勝手な上下社会を作って支配し続けてきた閉鎖有徳がことごとく排撃され、関所が破壊されて交通網も整備されるようになった。

ただの偶像性癖(偽善)の口ほどにもない押し付け合いで、地域間で延々といがみ合ってきた原因を信長が一斉に巻き上げて回ったことで、先代の津島神社と熱田神宮から始まっていた尾張の産業成長は、広域自由化に向かった。

時代に合った教養指導ができている寺院は奨励され、さらには奉行所が容認していない、意見も出していない内から勝手なことをし始める第三権力はもはや許されない、そういう反逆(偽善)を聞きつけると常備軍が駆けつけて摘発に回る時代に、早代わりした。

楽市制で手工業と物量も発達し、財政も豊かになったことで常備軍の増員も当然のこととしてやりやすくなり、城下の武家屋敷に強制移住させた家臣たちへの貫高制の給金手配も、十分に行えた。

もちろんこれは、支配者である織田信長の、そもそもの上と下の関心観測力と、熱心な法の整備力がそれだけ優れていたからこそ実現できたことだったともいえる。

不真面目な無能(偽善者)は格下げされていき、有能(教義競争者)だと見込まれれば旗本吏僚の候補生にされたり、手柄を立てる優先権が与えられたりと、公務意識(等族義務)が再育成されていった。

今まで閉鎖地縁にしがみ続けてきた国衆たちは結局、武家屋敷に収容されて給金が手配されるようになってからの方が、生活が遥かに豊かになっていたと思われることを順述する。

名古屋城と清洲城の城下に、家臣たちの武家屋敷が立ち並ぶようになると、上質の衣服や酒、陶器などでも買ってくれそうなそのまとまった上層住宅が出現したことで、手工業者や物流業者たちも、上質な商品も製造・流通させるようになった。

それを買ってくれそうな者が少しでも増えれば、手間をかけてそれを少数生産して販売しようとする、上層向けの教養的な業者も自然に現れて増えていくものである。

そして、最初は上層向けの新産業だったものが、庶民の経済事情も少しずつ良くなってくれば、その経験が活かされて、次第に豊かになっていく庶民にも向けた安価の量産品も回るようになる、という基本的な経済発達である。

これは例えば、大正・昭和前期の自動車製造・販売などと同じで、蒸気鉄道が日本でもやっと導入された当時は、自動車はまだ限られた資本家・企業家・地元の名士、政府関係者くらいしか買えないような高級品だった。

最初はそうした一部の資産家しか買えないものでも、それを意匠的に手間をかけて少数生産、販売する業者も出現するから、のちに庶民の経済事情も豊かになってくれば、やがて安くてたくさん作れる体制も作られていく、といった発達に繋がるものである。

商業の大都市だった堺を除いて、地方をまとめることにどこも苦労していたことで、その現象も起きにくかったものが、尾張では信長の裁判権の大改革によって、その現象も起きやすくなっていった。

愛知県(尾張)では味噌が名物だと現代では伝わっているが、厳密にいうと味噌や醤油は尾張(愛知県)だけが熱心だった訳ではなく、それはどの地方でも重要な生活用品としてこだわりをもって、熱心に生産されていた。

尾張では、いがみ合いや奪い合いの地縁主義(小領地特権)を、信長がついに巻き上げ、再家臣下された国衆たちも旗本吏僚の監視指導下に置かれるようになると、人々の意識も競争産業に向くようになった。

そこが健全化されたために、奢侈品(しゃし・贅沢品や高級品のこと)も作られるようになったように、食品についても今まで通り「ただ暮らしを支えられれば良い」から、忙しいながらにも余裕も出てきた合間に「こだわりの一品」を作る業者も増えていった。

今に伝わる愛知県の味噌や、また「瀬戸もの」といわれる尾張東部の陶器文化も、閉鎖規範からくるいがみ合いをやめさせ、自由交流(自由取引)もできるようになり経済も安定するようになったからこそ、その意匠性が高められる余裕も生まれ、他とは違う上質なものを生み出すことになった。

尾張の改革がそれだけうまくいっていたから、そうした文化も高められることになり、それが伝統として残った、ともいえるのである。

逆にいえば尾張で織田氏が旧態主義を止めさせることができず、旧態のまま延々といがみ合いが続いていたら、せっかくその地域で育っていた独特の文化も、残り得なかったことも十分ありえたともいえる。

食品や織物産業など、現代に残っている地方の伝統名産は、内戦が激減して文化的に産業経済が発達していくことになった江戸時代からの発祥のものも多い。

しかし尾張の名産の味噌と、瀬戸ものの陶器に関しては、戦国後期の信長の政策も手伝ったことによる、もう少し古い発祥だっといえる。(瀬戸の陶器の発祥はかなり古い)

総力戦時代も終わり、信長の有力家臣のひとりであった前田利家が、加賀・能登一帯の100万石という破格の大領を豊臣秀吉から受けたことは、知っている人は知っていると思う。(加賀100万石といわれた前田家)

尾張出身だった前田利家がその時に、他よりも一歩進んでいた尾張の食品業者や陶器技術者たちを加賀に招いて、その産業を奨励している。

それまではいがみ合うことばかりに忙しかったのが、戦国後期になって政治に向き合われるようになり、禅の思想なども再確認されて精神的にも少し余裕が出てくるようになると、当時の人々にとって食品は人気の高い娯楽話題のひとつになっていた。

現代と比べると娯楽が激少だった当時、食品の中でも特に味噌の存在は、現代風でいう所の「一大ラーメンブーム」のような、大人気の話題の的になっていた。

味噌は、戦国後期の戦国武将たちの間でも特に関心が高かった食品で、自分で味噌の調合に凝っていた戦国武将も普通にいたほどである。

現代のように冷蔵庫がなかった当時、食品を保存させる方法として、ただ塩辛いばかりの味気ない塩漬けばかりではなく、長持ちして風味も維持できる味噌はその面でもやはり重宝され、味噌漬けや味噌煮などして長持ちさせる加工もよく用いられた。

これまでは閉鎖有徳が、それぞれの地域都合の旧態価値を維持し続けるためだけの勝手な良悪賢愚の上下社会を作り、最下層たちはあれもするなこれもするな地獄に落ちると、交流の道を塞ぎ続ける時代遅れの閉鎖慣習を、強要され続けてきた。

しかし信長が、ついに各地の閉鎖有徳との手切れを国衆(地縁武士団)たちに迫り、その散らばっていた武士団を問答無用に城下に強制収容し、織田氏の公正な奉行所によって閉鎖有徳は排撃されるようになった。

そして最下層に有利になる自由化が推進されたため、経済意欲をもって手工業生産や物流業に励む者も急増した。

熱田 - 名古屋 - 清洲 - 津島 という産業地間の交通網は、順番に回ることも、それぞれ直接往来することもできた、物資運搬も便利な商業網だった。

かつては規制ばかりで何の産業競争も自由交流(自由取引)も許されなかったものが、ついに許されるようになると、熱心な商品競争が起き、都市部に色々な品が持ち込まれるようになった。

強制収容されたはずの家臣たちの家族も、城下に上級層向けの商品も次々に運ばれてくるようになったため、その都市での賑やかで豊かで快適な生活を、すっかり楽しむようになっていた。

かつては地域間で曖昧にしか協力し合えず、小さく窮屈な地縁の経済権にしがみ続けてきた彼らの生活が信長に巻き上げられ、都市部の開放的で豊かな生活を信長にすっかり与えられてしまった。

それを体験したことで、かつての愚かさをやっと、少しは自覚するようになった者も増えた。

そんな豊かな生活に覚えた矢先に、家臣たちは信長に「本拠を小牧山城に移転することにした」と言われてしまった。

当時の小牧(名古屋市から真北)は農地中心の田舎地で、都市化も大して進んでおらず、街道もそれほど整備されていなかったため、快適で豊かな都市生活ができなくなることを皆が惜しんで不満が出るような有様だった。

家臣たちは最初は、名古屋・清洲の城下に渋々に強制収容させられたはずだった。

しかしこの移転の話が出た時には逆に「そこから離れたくない」という不満が出るほど、家臣たちの家族の、武家屋敷での生活をすっかり満足させていたのである。

信長は「旧態特権を取り上げた時は、この世の終わりが来たかのように皆、半泣きしていたくせに、全く調子の良い連中だ」と思っていただろうが、地位がそれほど高くない多くの家臣たちについては「まあこれから解ってくるだろう」と、そこはあまり厳しくいわなかった。

織田氏が京の都市経済を大再生できたのは、既に尾張再統一によって実行されていた、尾張でのこうした公正な裁判権(公務意識・社会性)の前例がそのまま適用されたから、あっという間に大再生できたといえるのである。

それまで、それをできる支配者がいなかったから、どの支配者も朝廷を具体的に救済することもできず、京の都市経済(日本全体の国威)も全く立て直すことができなかった。

当時の日本でそれが唯一、可能だったのは、そこまで裁判権(社会性・公務意識)を改革することができていた、織田政権くらいだったのである。

京の大再生という、誰もできなかったことを織田政権にやられてしまい、その裁判権(国際軍事規律)の大差を見せ付けられてしまった他の支配者たちは、内心では大震撼、大驚愕していた。

小牧山城の移転の話に戻り、これには多くの意図があった。

まず、美濃攻略に向けて、これは本拠の清洲からでも可能ではあったが、美濃から見ると少し西南過ぎる清洲からよりも、美濃の出入り口を、北東からも北西からも攻めやすかった小牧山城を前線拠点にした方が、軍事交通には有利だった。

次に、その豊かで安定した生活を長々と与え過ぎれば家臣たちもその「ありがたみ」をすぐに忘れ、「もうこんなに豊かになったのだから、これ以上頑張る必要などないではないか」と言い出し始める、その公務意識の支障への対策意図も、強かった。

そして、美濃攻略が済んだ後には、すぐに稲葉山城(岐阜城)に拠点移動する計画が攻略前から既にあり、いざそうなった時に家臣たちが動揺しないよう、耐久実験的に家臣たちに先に体験させておく意図もあった。

さらには、城下の都市化が大して進んでいなかった小牧山城にあえて武家屋敷を移転させることで、尾張中部に固まっていた庶民の流通網の意識を、小牧以北にも向けさせることの意図も、恐らくあったと思われる。(目的後の小牧山城は、いったん廃城扱いされている)

美濃攻略後には早々に、小牧山城から岐阜城に本拠が移転されているが、岐阜は商業地として元々発達していたこともあって、家臣たちの不満はそう出ずに移転できている。

当時の岐阜城は、尾張の商業地よりも規模は小さかったが、小牧の前例で家臣たちにおかしな執着をもたせないための意識改革もできていたから、支障なくそれも可能にできた。

「衣食足りて栄辱を知る」という古代中国の名政治家、管仲(かんちゅう)の名言がある。

これは「公正な教義指導(手本)をろくに示さず、ただ上の一方的な都合で偉そうに下を規制することしかしないから、人々もいつまでも視野の狭い小さな価値のことで争い続け、だから国中が物質面でも教養面でも一向に豊かになっていかない」ことを戒める意味である。

まず上(自分たち)で手本(教義競争者)となることから始め、本当の公正さによって人々を良い方向へ教義指導ができた時に、人々の中にはやっと恥(文化・最低限の規範)というものに関心を向ける者も出てくるようになり、国際的な礼節とは何なのかを人々もようやく考え始める、というのが「栄辱」の意味である。

落ち度をただ監視して「恥を知れ」とただ偉そうにののしるだけで、それだけで人々が本当の意味の恥(国際規律・人的信用・社会性の最低限の敷居)が身につくのなら、誰も苦労はしない。

ただ目ざわりというだけで、ただ面倒がっているだけの「恥を知れ」連呼は何の規範も生まず、それでは「栄辱」を教えることはできず、国政は全く改善していかないことを、管仲は具体的に指摘している。

「栄辱」の簡潔な意味としては、何を以(も)ってそれが本当の優れた栄誉といえ、何を以ってそれが本当の意味での恥辱だといえるのか、を問う言葉である。

また「衣食住」という言葉も、なぜ「衣」が一番最初に来る順番なのかの意味も、「衣」は単純解釈では身なり格好のことだが、政治解釈では品性態度の意味が強い。

つまり、人々の品性態度(人的信用の向き合い)の良さ悪さが、人々の「食住」という生活価値観(公正手配・不当手配の態度)にそのまま現れ、庶民の最低限の規範態度(価値認識)の良さ悪さがそのまま、肝心な時の国力と国際外交力の優劣に現れてしまう、という意味である。

信長の荀子政治によって、当時の従事層たちに本当に教えなければならなかったこの「栄辱」の意味を、結局信長だけが、人々に叩き込むことができていたのである。(態度が裁かれる時代)

近年「免疫力」という言葉が流行するようになったが「免疫力も知らんのか。これに免疫力があることが正しいといわれているのに、なぜお前は従わないんだ」だけで目を吊り上げても、その含有説明を示すものがなければ、悪質なら恐喝罪・詐欺罪の行為になる。
 
免疫力という言葉に全ての科学的な含有立証がある訳ではないと同じで、常識(社会性)という言葉も、健全性の含有立証がその言葉にある訳ではない。
 
その免疫力に対する、信用できる科学的な説明責任が果たされていないまま、嘘の効能が並べられば「それを正しいといっている人も多くいる」という言い訳など通用しないはずで、手口が悪質なら詐欺の疑いなどで検挙されるはずである。
 
しかし常識(社会性)においては、そうだといえる信用できる社会史的(裁判権史的・教義史的)な説明責任が何ら果たされていなまま、健全効能だけをいくら並べられても、教義詐欺をいくら働いてもいくらでも許されてしまっている。
 
その態度が一切裁かれない現代の公的教義の姿に、少しは異常を認知するべきだろう。
 
「それが正しいといっている人も多くいる」さえ確認できれば許されるなら、効能に虚偽があってもそれを理由に全て許されなければならず、そう信じている者に罪を問うことも、その正しさに同調しないといけない正しさに反するはずである。
 
何百万円もする霊験の壺を、借金をしてでも買うことを義務付けられ、それを信仰すれば万病も含めた不安予防(社会性の健全化)になるという団体の教えも「それが正しいと思っている人も多くいる」さえ確認できれば許されるなら、皆が積極的にそれに無条件に同調しなければならないはずとなる。
 
主体性(教義指導力)など皆無な、その矛盾した姿こそ、まさに今の公的教義の姿そのものといえるだろう。
 
「流行病や抗がん剤などの代わりとして、普段からの予防になる」という宣伝で売られた薬や加工品を信じて買った消費者は、後になってそれが嘘で、そんな健全効能など全くなかったことを知ったら、それで不当に大儲けした悪質業者にカンカンになって怒る人も多く出てくるはずである。
 
免疫力の話も、社会性(教義性)の話も、その説明責任(義務)の部分は全く同じはずである。
 
しかし「それが正しいといっている人も多い」がなぜ前者は許されず、後者は許されるのか、それを許し続けて自身や世の中が、本当に次代たちのためになる公正で健全なものになるのかどうか、少しは考えるべきだろう。
 
そこに疑問ももてない、それがどういう意味なのか考えようともしない無能(偽善者)の、何が社会全体(司法)だという話である。
 
次も引き続き、織田信長の組織の教義性について述べていく。