近世日本の身分制社会(039/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史30/34 - 2020/07/26
 
主に家臣時代の木下藤吉郎(秀吉)に視点を当てながらの、織田政権の教義性・組織性について述べていく。

庶民と大差ない半農半士の出だったと思われる藤吉郎(秀吉)が、信長に認知され、手柄を立てる優先権が与えられて抜擢されるようになったまでの、それまでの経緯の不明点が、まずは興味深い。

木下藤吉郎(秀吉)は、まずは武士団の一つ浅野氏との格上げのための婚姻による士分待遇を受けた上で、信長の直臣として抜擢されるようになる。

この経緯の不明点として、親類の木下氏の下級家来の出身(と、ここでは仮定)である藤吉郎(秀吉)のその気鋭才覚を、代表筋の浅野氏に見込まれて厚遇され、目立っていた所に信長の目に留まったものだったのか。

それとも、まだそれほど優遇はされていなかったものの、藤吉郎(秀吉)の存在が目立っていたことが、生駒氏の人脈や旗本吏僚たちの報告によって信長が認知するようになったことがきっかけだったのか。

筆者はこの後者だったのではないかと見ている。

後者はつまり、藤吉郎(秀吉)に着目した信長が、浅野家に「一族の管轄の下級出身、藤吉郎(秀吉)なる者を、浅野一族の有力士分扱いに厚遇せよ」と斡旋・指示したのではないか、という意味である。

信長が組織改革を進めていく過程で、この気鋭の存在が従事層の間で目立っていたのを家臣らの報告で信長に確認されるようになり、それで信長も興味をもったのだと思われる。

藤吉郎(秀吉)は、正規軍入りする前の20代は何をしていたのかはよく解っていないが、とにかく世の情勢に強く関心を示し、自身でできる限りの見聞や交流などに熱心だったのは、間違いない所だろう。

信長の尾張再統一によって上級裁判権(外戚問題・家格整備・相続最終指名権それら等族主従保証)が大整備され、国衆の再家臣化が進み、経済対策と同時に軍体制の前期型兵農分離(常備軍体制)も顕著になっていた。

藤吉郎(秀吉)がそれまでは何をしていたのはともかく「自身のやる気と能力を、もしかしたら認めてもらえるかも知れない」とやる気になって、この正規軍入りの応募に駆けつけたのではないかと筆者は見ている。

正規軍(国際規律の最低限の手本)として相応しい者なのかどうか、織田氏の公正さで人員が選別されるようになっていた中、「自分は組織に非常に使える人間」という売り込みが目立っていたのではないかと思われる。

従事層の中で存在感が既に目立っていて、正規軍入りできた後も先々を言い当てて周囲を驚かせていたことに、上官も恐らく一目置くようになっていた。

それで信長も、どんな人間なのか興味をもつようになり、内々に呼び出されて面談も何度かされたのではないかと、筆者は見ている。

まず藤吉郎(秀吉)は、内(織田氏)と外(他の戦国組織)との違いをよく理解し、その理由についても強い関心を向けて読み解くことができていたと思われる。

だから信長がなぜそうしようとしているのか、次にどんな働きを家臣たちに望み、これから何をしようとしているのか、そういう所を意気投合的に見ていた藤吉郎(秀吉)が、少し説明されれば瞬時に理解できていたのは、間違いない所である。

藤吉郎(秀吉)が歴史の表舞台で活躍するようになった、その第一歩の縁となった浅野一族とは、信長の旗本(馬廻り衆)の弓衆が主だったようである。

この弓衆とは、信用されている武士団による、まずは主君を警護する衛兵軍としての役割が強い部署である。

ちなみに先に紹介した、織田氏の公式記録である信長公記(しんちょうこうき)の著者の太田牛一も、この旗本弓衆から吏僚に抜擢された口である。

弓衆を任せられる武士団だったということは、親類(杉原・木下・安井)たちの中にも、日々訓練に励む武芸者も揃っていたと思われる。

木下藤吉郎(秀吉)が、歴史の表舞台で明確になってくるのが、美濃攻略の後半戦の 1565 年頃からである。

1561 年頃には織田氏の美濃斎藤氏攻略に本腰を入れて乗り出しているが、藤吉郎(秀吉)が信長の重臣として抜擢されたきっかけが、この戦いである。

その活躍の第一歩として、美濃攻略で著名となった「墨俣(すのまた・州俣)一夜城」の功績がよく語られる。

墨俣一夜城は、内容は知らなくても、この「一夜城」という言葉は聞いたことのある人も多いと思う。

これは誇張が多く、語られるほどの大活躍はしていないと考えられているが、それでも織田軍を有利にした何らかの活躍はあったと思われる。

これは織田軍が、美濃攻略の前半戦で、敵地での陣地作戦が当初うまくいかなかったのを、秀吉が知略をもってその突破口を作り織田軍を優勢を早めた、という話である。

美濃攻略の前半は、織田軍が常に攻め手だった分の優位はあったが、先方の団結が曖昧でも崩れるまでには時間がかかった。

当初は敵地での味方がそれほど増えず、地理の案内人(危険度の案内)も乏しかったことで、侵入しては抵抗されて引き返す、ということが繰り返されていた。

前半戦では常備軍を引き連れて美濃への出入りをしつこく繰り返し、美濃斎藤氏の裁判権を圧迫するべく、切り崩しを狙っていた頃である。

先述したが、毎度のように大勢の半農半士を動員すれば、それに見合った戦果(支持=裁判権の獲得)が挙げられないと庶民にも財政的にも、多大な負担がかかった。

信長は、迎撃してくる斎藤軍が大勢だからといっても、いたずらに大勢の半農半士を動員することはせず、前半戦では定員的(計画的)な常備軍を中心に、相手の切り崩しを計った。

織田軍が毎度のように美濃に侵入すると、そのたびに斎藤軍は織田軍よりも多い半農半士を動員し、数に頼って追い返しにかかった。

斎藤氏は前期型兵農分離(正規軍の再規定と増員体制)が大して進んでいなかったため、織田軍を追い返すことはできても、その度に財政面から貧窮して統制が崩れていった。

織田軍に少しでも粘られて戦いが長引かされると、半農半士が多かった斎藤軍はその分だけ、彼らが普段従事している農作業や手工業にいつまでも着手できなくなり、経済を甚大に阻害されることになったためである。

斎藤氏は産業改革も軍事改革も大して進んでおらず、経済権も増えていかない中、大した報酬も期待できない守り一辺倒の戦いを強いられたため、当然のこととして戦意(団結)に響いた。

時代はもはや、ただ勝利することだけが軍事ではなく、国際規律(教義指導力)の差を見せつけて相手の従来の時代遅れの裁判権(社会性)を否定し、時代に合った新たな裁判権(社会性)を認めさせる政治重視の総力戦時代に、移行しつつあったのである。

①ただ大軍を用いる

②ただ敵地を占領し、ただ収奪(先方を差別)してただ分配する

③ただ政敵を排撃する


大した名目(誓願・政治理念)もなくただ収奪に出かけているだけの、この支配者失格3原則ともいうべき戦国中期のような時代遅れの戦い方を否定し、国際的な常備軍をもってそれと決別した外征の手本が、信長の美濃攻略だったといえる。

こうした美濃の切り崩しが前半戦で繰り返されていた中、有利な攻略を早めたかった信長は、陣地作戦による口火を摸索していた。

何人かの家臣に、その陣地作戦の立案・実行を指示した中に、木下藤吉郎(秀吉)にもそれが任される機会(手柄を立てる優先権)が与えられた。

木下藤吉郎(秀吉)は、まずは団結が曖昧だった現地を調査しながら協力者を募りつつ、陣地構築のためにモタつきがちな用材運搬は、河川による水運を利用する事前準備をした。

そして敵の隙をついて敵地の墨俣の地に素早くもぐりこんでこれを占有、妨害に動く斎藤勢をうまく牽制し、素早く墨俣の地に軍事基地(砦)を構築した、ということになっている。

この時の陣地構築は、実際は2週間くらいはかかっているようだが、わずか数日で立派な砦(軍事基地)が作られてしまったかのような印象を与え、その素早さと見事さが敵味方を大いに驚かせることになり、これが「一夜城」という語り草となって伝わった。

しかしこれは誇張が多く、文献の再調査で問題点も多数見つかったために研究家の間でも真偽を巡って議論になっている。

いずれにしてもこの美濃攻略の前半戦で、木下藤吉郎(秀吉)が何らかの高く評価される活躍はあったと見て良い。

文献で木下藤吉郎(秀吉)の存在が明確になってくるのが、美濃斎藤氏攻略の後半戦になる 1565 年あたりからで(大局が決したのは 1568 年)これ以後は、はっきりした活躍が窺える。

歴史の表舞台に立つようになった 1565 年頃の木下藤吉郎(秀吉)は、この頃は率いる手勢はそれほど多くはないものの、すっかり組織の重役の部将格に抜擢されている。

表舞台に登場するまでの事跡については、説こそ多いものの決め手に欠け、それ以前の様子がよく解っていない。

それでも、木下藤吉郎(秀吉)は信長から直々にその気鋭才覚が見込まれて、手柄を立てる機会の優先権が与えられ、重臣格として皆に認めさせるようないくつかの手柄を、それまでに既に立てていたのは間違いない所である。

そして注目するべきは、浅野氏が木下藤吉郎(秀吉)の寄騎(協力所属軍・与力)に手配されるという立場、つまり木下藤吉郎(秀吉)の方が浅野勢を指揮する側の、この親類連合の代表格の立場にすっかり逆転している点である。

本家筋に格上げをしてもらった浅野氏に従うべき立場であったはずの木下藤吉郎(秀吉)が、信長によってその主従関係が逆転させられているのである。

他の戦国組織ではとても不可能だったこうした急激な組織構築が、織田氏だけがそれが可能だった。

尾張再統一の名目(誓願)によってすっかり再構築されていた信長のその裁判力(社会性・教義競争力・指導力)は、既に他の戦国組織とは大差があったといえる部分である。

他の戦国組織では、もしこんなことがされたら、間違えれば収拾がつかなくなるほど家中が分裂し、内乱が起きても不思議ではない、他ではとても無理だった人事といえる。

この当主による「家臣たちへの家督指名権」は、他の戦国大名たちの間でも、それが必要であることは自覚(分国法)されていた所は多い。

ただし自覚だけはされたとしても、相続してもおかしくない系譜・由来があっての指名権の範囲であったとしても、間違えれば家臣たちの不満が強まるばかりで、乱れることも多かった。

信長によるこの木下藤吉郎(秀吉)の抜擢は、よその組織と比べると、あまりにも異様だったといえる。

これは近代における軍で例えると、最下層にあたる二等兵、一等兵あたりの下っ端の若者に、大尉(将校)あたりの娘と結婚させ、下っ端の総長格である軍曹を飛び越えていきなり少尉の将校扱いに格上げし、なお手柄を立てさせ、猛速で将校総長格の少佐に昇進させたようなものである。

この話は19世紀以降なら少しはありえ、16世紀でもせめて「何代か経た上で、徐々に格式が身に付いていってそうなった家系」という話なら少しはありえるが、しかしこの場合はそれ所ではない、1代のしかも5年そこらでの話である。(秀吉の正規軍入りは 1560 年頃の説が強い)

現代の公的教義のような、気の小さい無能(偽善者)の不当な集まりが体験したら、気絶(錯乱)する次元である。

「お前の所にいる生徒の方が、口ほどにもない校長とやらよりも格上だと俺が具体的に確認し、そう認めた(家格保証した)んだから、その生徒から犬食いしろといわれたら校長は犬食いしなければ反逆(偽善)」といっている次元である。

それを組織を全く乱すことなく、信長だけができていたこの急激な人事異動(教義競争の指導力)自体が、他と大差だった別格の裁判力(教義力)というべき、まさに「世の不可能を可能にした」といえる新組織構築である。

信長がやり出した、家臣たちへの等族改革(偽善の格下げ、教義競争者の格上げ)による厳正な家督指名権(家格保証)の前例が、戦国に逆戻りさせないための、江戸時代の幕藩体制の法の手本となっているのである。

信長によって、浅野家が木下藤吉郎(秀吉)の寄騎として改めて配属されたということは、この親類連合の代表格(家長格)が、浅野氏から木下氏主導に移管されたことを示している。

藤吉郎(秀吉)が、浅野氏との婚姻によって格上げしてもらったのち、なぜ木下性を名乗っていたのかの事情が、興味深い所である。

筆者はこれは「父の木下弥右衛門は、やはり木下氏から派生して、何代か前の頃に士分待遇(小特権)を失った口の半農半士だった家系ではないか」と疑っている部分だが、それよりもう少し明らかな理由がある。

まず、秀吉の妻となったねねの方(高台院)は、杉原氏の娘であったのを、代表筋の浅野氏の養女扱いにした上で、と先述した。

この杉原氏は、古くは木下氏から分家派生した一族だったということで、それを根拠に藤吉郎(秀吉)は、妻のその出身の意識で木下氏を名乗ったという指摘がされている。

ややこしい話だが、木下氏にも後継者に支障が出ていたため、ねねの方(高台院)の兄が木下氏を継承し、木下家定と名乗っていた。

非常にややこしいが、ねねの方が浅野氏の養女扱いされた上で結婚した経緯は、代表筋の浅野氏の格式が重視されただけで、その後は藤吉郎(秀吉)は木下性を名乗っていたことから、本人は木下氏の系譜を自負していたのは、間違いない。

これは、浅野党の家長が、信長からも信用されていた浅野長政だったため、その都合もあって、藤吉郎(秀吉)は典礼(婚姻による格上げ)を得たのちは、木下党の家長格と見なしていく計画だったと、見ることもできる。

この経緯はさらに筆者の考えを加えると、藤吉郎(秀吉)の父が、半農半士なりに恐らく木下氏に所属していた旧知関係も手伝っていたのではないかと、見ている。

つまり表向きの義父は浅野長勝、義兄弟が浅野長政(安井氏)ということになっているが、実際の義父は杉原定利(ねね・高台院の父)、義兄弟は木下家定(ねね・高台院の兄)だった。

ちなみにこの義兄弟の木下家定は、のちの関ヶ原の戦いですっかり有名になった「動こうとしなかった大軍の小早川勢があとは、東軍か西軍か、どっちに着くかで勝敗の大局がもはや決した」といわれた、あの小早川秀秋の実父である。

信長による木下藤吉郎(秀吉)の異例の格上げは、その親類全体の格上げにも直結したため、親類たちも不条理さは感じつつも、悪い話ばかりでもなかった。

表向きの義兄弟の間柄だった浅野長政は時代によく関心をもって組織に協力的で、不満があっても表向きは全く漏らさない、信用(手本)を大事にする人物だった。

ただし本音としては、信長からはできれば浅野氏を直接評価して欲しかったという悔しさや「そもそも我ら一族が織田氏から信頼される直属の弓衆だったという良好な忠勤関係があったからからこその、経緯だったはずだ」いう自負も、一族全体に強かったと思われる。

しかし賢明だった浅野長政は「だからといってそういう態度ばかり自分が出してしまうと、これからの時代への組織全体の手本にならない」ことをよく自覚できていた。

多少の不満や動揺が親類たちの間で恐らく出ていて、しかし浅野長政の人柄によって、親類たちをよく鎮めることができていたと考えられる。

下級武士の藤吉郎(秀吉)との婚姻話がもちあがった経緯は、やはり信長の要望の意向が強かっと思われ、その時に親類たちが賛否になっていた様子も窺える。

その時に杉原氏の娘であった「ねね」が、浅野一族を有利にするべきだといって、自分が結婚したいと名乗り出たという事情も、皆の同様を鎮めようとする意図も大きかったのではないかと、筆者は見ている。

以後の浅野長政は、木下藤吉郎(秀吉)の有力な寄騎として、色々な所によく気付き、一方で出世に邁進していく秀吉のことを浅野長政は、特に政務面で強く支えた。

「人材活用術に優れた豊臣秀吉」像は、この浅野氏との縁による、その品性態度からまずは学べた所が大きかったといえる。

政略・知略・軍略の機知にいくら優れていても、品性面でも信用できる者と団結していくことの重要性を忘れ、ただ蹴落とすばかりの利害競争のみに邁進するような人間は、せっかくの才覚も全て凶暴にしか働かなくなり、そんなことではとても将器とはいえない。
 
秀吉はそこを放っておいたら、その気がかなり強い人物だった。

そういう所を学ぶ機会が乏しかった木下藤吉郎(秀吉)にとって、そこを学ばせて補佐できる品格のあった浅野一族は、そのうってつけの幸いの良縁だったといえ、信長もだからこそ、あえて浅野一族にその制御役を押し付けたのではないかと、筆者は見ている。

浅野氏は、多少の閉鎖性はあったかも知れなくても、少なくとも親類たちとは良好な助け合いの信用関係が築けていて、信長もそういう所は高く評価していた。

信長は、浅野氏ならこれからの時代の組織のためにきっとやってくれると思っていたからこそ、木下藤吉郎(秀吉)の大抜擢劇の重務を、あえて浅野一族に押し付けた、ともいえる。

成り上がり者の家来筋にさせられる屈辱も、組織都合のためにその役をあえて演じてくれた浅野長政のことを信長は、表向きこそ最低限の規範のために賞賛はしなかったものの、それによく応じてくれた浅野長政には内心では、かなり高く評価していたことが窺える。(後述)

のちの徳川家康も、この浅野家についてはその将器と品性を高く評価し、扱いこそ外様大名だが、譜代に次ぐ格式の大領の大名資格を保証している。

婚姻の経緯自体もややこしいことから、藤吉郎(秀吉)を代表格の浅野氏の婿養子とするのではなく、実質は木下氏の婿養子ということで話が落ち着いたというのが、信長の意向のギリギリの受け入れだったのではないかと、筆者は見ている。

美濃攻略後には、その名が木下秀吉として目立つようになるが、そうした複雑な内情があっての「知略に長けた信長の有力家臣・木下秀吉の誕生劇」だったのである。

とにかく、どこも簡単ではなかったこの大抜擢劇が、織田氏だけができたというこの事実は、「内外」に多大な影響力を生むことになった。

「内外」の内の話としてはまず、この大抜擢が、地位の低い多くの従事層たち(下級武士や庶民ら)への、多大な意欲奨励となったのはいうまでもない。

「手本(教義競争)に頑張っている者は頑張っただけの評価を、織田氏がどこよりもしていて、下層の誰もが努力次第では、それに見合った待遇が得られる可能性も十分にある」という強烈な印象を人々に与えることができた。

もちろん従事層たちもさすがに、すぐに秀吉と同等になれるというような、そう簡単に最重要幹部になれることはないことは解っていた。

それでも庶民の地域政治のことでも公正さを大事にし、少しでも人の手本になろうとする者や団体は、それに見合った評価がされるという規範意欲(等族義務)には、大いに繋がった。

そして「内外」の外としては、これがよその戦国組織への強烈な恫喝になった。

木下秀吉という存在は「これができるだけの裁判力(教義力・名目・誓願)も有していない組織は、さっさと教義競争の敗北を認め、織田政権の裁判権に早急に従え!」という、信長の恫喝の広告塔にもなっていたのである。

織田氏の近江平定後には、木下秀吉が近江北東部を任されてまさに「一国一城の主」的立場となり、その時に羽柴秀吉と改名する。

その頃から組織の拡大にともない、いよいよ大軍を指揮する師団長格のひとりとなって、各地で転戦するようになる。

すると「半農半士風情の出のあの有名な名将、羽柴秀吉がついにこちらにも押し寄せてきた!」と、その際立っていた存在に震撼しつつ、各地でもすっかり脅威的な評判になっていた。

信長が本能寺で死去した 1582 年には、柴田勝家や羽柴秀吉ら最有力部将たちが、各方面の平定戦を進め「従事層を良い方向に導く等族義務(教義競争)を全く果たせられていない(であるにもかかわらず従わない)」地方の有力者を成敗する、切腹させるという、織田政権での最低限をもはや、彼らがすっかり代行していた有様である。

すなわち、半農半士の出だったはずの者でも、有能な部将(教義競争の手本)になり得、地方の名族や有力者でもいい加減な無能(偽善者)どもを裁く側の立場となる、そこが逆転する時代になった、痛烈な異例劇だったともいえるのである。

それ自体が、日本史上の異例事態だったといえる。

前述した「貴様らのような、人の上に立つべきではない身の程知らずの無能(偽善者)どもは、犬食いしろといわれたら犬食いしなければ反逆(偽善)」の意味がこれである。

従事層への面倒見が極めて悪い、何の等族義務(教義競争力の手本)も有していないような無関心・無神経・無計画な権力者は徹底して許されなくなる健全化社会に改められたという意味である。
 
裁判権に従わない社領・寺領への問答無用の討ち入りの根幹も、そこである。(宗教改め・教義改め)

羽柴秀吉の「死にかけ貧困農民の出身強調」は、地方を恫喝するために信長が始めた計画的な手口だったといってよく、秀吉としてもその重要な意味をよく理解し、あえてその役を買って出たのである。

羽柴秀吉は、浅野氏との緊密な関係になったのだから土岐源氏出身だと言い張ることもできたし、半農半士を地侍といいかえて、その中では地位が高い、何々氏から派生した一族出身など、いくらでも誇張することもできた。

これはいかにも織田信長らしい、一石三鳥も四鳥もある皮肉のあてつけな、効果的なやり方だったといえ、それに応じた羽柴秀吉も、口ほどにもない名族高官主義の不条理に向けた強い気迫が窺える所である。

羽柴秀吉の存在自体が、口ほどにもない地方への信長の恫喝の広告塔そのものだったといえ、地方の有力者らはさぞ青ざめ、それこそ気絶(錯乱)した気の小さい者も中にはいたと思われる。

各地方では、法の整備が遅々として進んでおらず、地方内で疑い合ってばかりで大した団結もできず、庶民の生活も一向に向上していなかった地域もまだまだ多かった。

そういう地域の従事層から見れば、国際規律をもってだらしない上から順番に制裁を加えにやってきた「半農半士あがりの羽柴秀吉」の印象が悪いはずがなかった。

支配者や有力者に対し、従事層側の内心の不満が強かった地域ほど「偉そうに威張り散らすばかりで、困っている従事層をろくに救済せずに差別と収奪しかしない有力者たちが、農民出身のよそ者についに裁かれることになって、本当に良い気味だ」と思うに決まっているのである。

元々の地位の低さをわざわざ強調した羽柴秀吉の存在意図は「庶民たちの味方として、下に迷惑ばかりで手本にならない上を成敗しに来た国際軍団長」という、下層にとっての同胞像・英雄像的な狙いがあったのである。

藤吉郎(秀吉)の大抜擢は特に別格だったが、信長が平然とやってのけた組織改革ではその規律で当たり前の、人事の最低限(基本)になっていた。

何の手本(教義力)にもなっていない口ほどにもない旧態家長主義(外戚問題)を改める法の再整備を、遅々として決別・解決できていなかった地方とは、そういう所からの大差がもはやあった。

しかしもし、浅野長政や、弟の羽柴秀長、妻のねねの方(高台院)といった優れた周囲たちが羽柴秀吉を支えていなかったら、才気がありすぎて少し凶暴な側面も抱えていた秀吉だけの力では、こうした実現も難しかったと思われる。

次も引き続き、秀吉とその周囲の様子から、織田政権の教義性の特徴について述べていく。