近世日本の身分制社会(027/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史18/34 - 2020/02/28
 
1568 年に信長が中央(京)に乗り込み、公正な治安を保証して都市経済を大再生し、朝廷も救済された 1571 年頃にもなると、信長の名目(誓願)の対抗馬になり得る勢力などもう日本にはいない差が、出始めていた。
 
しかしそんな織田氏に、組織的な反抗が唯一、継続できた戦国勢力、それが本願寺(浄土真宗)だった。
 
もう戦わなくても総力戦(裁判権の力比べ)という対決は大方は決着しつつあり、一時的に優位性が得られても、どちらにしても時間の問題だという状況である。
 
その後の織田政権による日本統一戦は
 
「従わない地方を掃討する側(指図する側)」 
 
「どれだけ抵抗できるか(格を認めさせる)側」
 
の立場になりつつあった時期である。
 
信長は無条件降伏を大前提に、全て屈服させる構えだった。
 
その無条件降伏を良しとせず抵抗することになった戦国組織が多かったが、地方の武士団らは家格の一切の保証もないことを織田氏に突き付けられた中でどうにもならなくなり、他に道もなく戦っている場合が大抵である。
 
「自分たちで時代に合った法(社会性)を整備してこれなかった国(地方)は、それができている側に従わなければ、踏み潰されて当然」という、教義競争による法(社会性)の力量差から地位や家格を、決める側と決められる側の立場が明確になる時代の突入である。
 
どの勢力も、最初から国力も整備力も歴然としていた織田軍に攻められると、一度でも敗戦すれば、軍を立て直す時間を全く与えられないまま織田軍にどんどん押されていき、総崩れを起こしてあっけなく消滅させられてしまったのが大抵である。
 
信長に殴られた最初の一戦では殴り返すことはできても、一度でも敗戦をしてしまえばその後は全く殴り返すこともできないまま、あっけなく無条件降伏させられてしまう場合がほとんどだったのである。
 
しかしそんな中でもただひとつ、何度敗れても組織的な抵抗力(裁判権)が全く崩壊せず、織田軍を散々苦しめることになった唯一こそ、戦国仏教化(戦国組織化)していたあの、浄土真宗(本願寺)だったのである。
 
信長から殴られるたびに、押されながらもそれを何度も殴り返した、それはつまり信長と教義競争らしい教義競争がまともにできていたのは本願寺だけだったといえるのである。
 
組織の戦意(裁判力)を全く崩壊させることなく、それをやってのけた顕如(けんにょ)のその教義実力は、いまいち過少評価されがちである。
 
押され続けながらも織田軍と実に10年も戦闘を継続できたこと自体が、他の戦国組織ではありえなかったことであり、その時点でかなり手ごわい強敵だったといえるのである。
 
その戦いも6年目になると、本願寺側は最後の砦である石山(いしやま)本願寺城に追い詰められるが、ここで実に4年も織田軍に抵抗し続けた。
 
この石山本願寺城とは、もともと道場(寺院)だったものが総本山化して、段々と軍事要塞化されていった施設で、現在の大坂城と大体同じ位置にあったが、その中心地(本丸)は現在復元されている大坂城の本丸から見て、もう少し西の海側にあった。
 
織田軍はこの城を4年も包囲し続け、何度も攻略を試みたが結局、武力で陥落させることはできなかった。
 
この織田氏と本願寺との低級裁判権争い(庶民法・徴税権とその代替権を先行きを巡る争い)は、10年目になるとついに和解し、本願寺側の武力解体といったんの寺領返上の降伏という、形式上は本願寺側の無条件降伏という終結となった。
 
しかしは実質は、浄土真宗の教義力(社会性・言い分)を認めさせることができた点で、他とはかなりの特異点がある。
 
本願寺(浄土真宗)は、信長と争った中で唯一、あっさり崩壊/無条件降伏しなかった、希有(きゆう・なかなか見られない例、めったにない存在や価値)の戦いぶりをして見せたことが、いまいち過小評価されがちである。
 
これまで浄土真宗の信徒たちは、永らく世俗権力への労役と納税を拒否して自立してきたが、今までの自衛権(武力)は放棄してこれからは織田氏の支配下の裁判権に従う代わりに、浄土真宗に対しても人事差別せずに公正に、教義力の格に見合った保護をする責任(義務)を織田氏も守る、という条件で折り合いがついた。
 
これは浄土真宗の軍事自治力(反世俗権力)を解体させて従わせることに成功した織田側の勝利に見えるが、どちらかというと浄土真宗の教義の品格を改めて認めさせることに成功したという点では、浄土真宗側にやや軍配が挙がった降伏だったといえるのである。
 
信長の無条件降伏を大前提とした制圧事業は、かなり厳しい処置だった所と、そこまで厳しくなかった処置の所とで地域差があるが、苛烈に対応された所が多かった。
 
法(裁判権)の整備が間に合っておらず地方政治に既に支障が出ていて弱体化が著しかった所は、一部の上には厳しく責任をとらせたが、その従事層たちには厳しい対応はしなかった。
 
しかし閉鎖地縁がいつまでも根強い地域だったり、時代に全く合っていない旧態権威がいつまでも成立し続けてしまっている地方・地域には、その旧態社会を徹底破壊するべく容赦ない見せしめが強行されていった。
 
その見せしめの典型例が、延暦寺焼き討ちの強行だった。
 
根強い名声を残し続けた武田氏の甲斐・信濃には、その戦後処置は相当の厳しさで対応されたが、どれだけ伝統と格式があろうがその旧態概念をしつこく擁護・抗弁しようとする宗教(神社・寺院)に対しても高圧的に規制をかけて回り、従わなければお構いなしに軍を向けて寺領を襲撃し、惨殺も強行した。
 
1571 年頃からの信長は、世俗権力の集権化だけでなく、聖属権力の集権化(教義の回収)についても本腰を入れ始めるようになった、新世界秩序事業の開始時期といえる。
 
日本はもうそこまでやらないと教義(国際力)の建て直しも困難だったという、この改革の風雲児である織田信長の判断は、まさに英断だったといえる。
 
信長がこの「嫌われ仕事」をやっておいてくれたおかげで、徳川家康の江戸幕府の設立にも、大きな助けになっているのである。
 
逆にいうと織田信長が中央の覇者として台頭しなかったら、この大事に徹底して踏み切る者も現れないまま、日本は後々にもっと深刻な教義問題を抱えることになっていったかも知れないのである。
 
信長がこの時にこれをしなかったら、日本の神道も仏教もそれこそ一気に衰退・壊滅してしまい、国教の中心も「言いなりのためのキリスト教」になっていたことも、十分にありえたような有様だったのである。
 
その意味は、国教として独自で育てなければならない伝統的な神道も仏教(教義)ももはや守り切れずに、それはつまり日本人が日本人であることの教義競争を忘れる(放棄する)方向に向かっていってしまう恐れがもあった、という意味である。
 
神道の危機はそのまま朝廷(皇室)の危機だったともいえ、信長のやったことは見た目だけは残忍に見えても朝廷(皇室)の国際力の大救済、すなわち日本全体の大救済になったといえるのである。(なぜそういえるのかを、追って順述していくが、少し話がそれる)
 
もちろんその意味は、例えば日本の国教がキリスト教に染まってしまうことが、そのまま日本人が日本人であることの放棄、というような単純な話ではない。
 
そこについては、日本人にとってより良い道に進むための、日本人が日本人であるための国教として扱っていけるのであれば、国教の中心が仏教であってもキリスト教であっても問題ではない。
 
つまり自分たちの教義のはずが「ただ恐れていいなりになるものを求め合い、それに頼ってただ格下狩り・正しさ狩りをしているだけの口ほどにもない偽善教義」としての向き合いしかできていないのか、そうではなく自分たちで教義競争をして大事に育てていけているかが、重要な部分なのである。
 
「日本人が日本人であるため」の部分はもちろん「日本人さえ良ければ」という意味ではない。
 
まずは日本人同士で、個々の確認(尊重)を丁寧にし合っていく努力(教義競争)で、自分たちで法(国際社会性)を育てていくことができていないのに、どうやって外圧争和に対して国際社会力で立ち向かっていけるのか、という意味である。
 
今の公的教義の問題もそこで、日本人が日本人である教義から国際文化的な教養を守ったり身につけていくという、世界にもその信用を見せていかなけばならない歴史的な大事な基本を、放棄させる一方の教育しかしていないから、筆者は批判しているのである。
 
よそが作った資本家絶対服従主義から民権化が多少進んだに過ぎないGHQ体質と大差ないやり方にいつまでもしがみついているだけの、とうに賞味期限切れを起こして偽善教義化してしまっているだけの愚民統制論を、いつまでも踏襲しているに過ぎない。
 
これは 1945 年に敗戦して 1951 年に独立講和を迎えてGHQが撤収するまで、GHQ(アメリカ)の都合を日本に植え付け続けたことが問題ではなく、その後に自分たち(日本人)の教義を自分たちで向き合おうとしない日本人が、結局は悪いだけの話である。
 
話は戻り、まず比叡山(天台宗)に限らず、どの聖属権力でも徹底的な規制を信長は始めるようになる。
 
高野山(こうやさん・真言宗(密教主体)の総本山)に対しても警告を通達したが、高野山は無視し続ける態度を通した。
 
そのため信長は、まず高野山の寺領を否定するために、その寺領に軍を差し向けて襲撃し、逃げ遅れた住民(信徒)は全て殺して回った上で寺領を取り上げ、高野山にも乗り込んで殺戮と焼き討ちを強行した。
 
信長はなぜそんなことをしたのか、その徹底ぶりは見た目は残虐に見えても、これがなぜ日本の教義の大きな救済になったといえるのか、これらは当時のやむを得ない緊急処置であったことを、順番に説明していく。
 
信長はまず、1570 年あたりから、近隣から順番に、世俗だけでなく聖属にも挑戦状を叩きつけ始めた。
 
その挑戦状は「あらゆる社領・寺領はこれからは、織田政権の認可を得ていない社領・寺領は全て横領と見なし、いったん臣従しようとしない宗教勢力は全て成敗する」というものだった。
 
「織田政権の支配地外の寺社領も、これからは全て織田政権の領地と扱い、織田政権から改めて正式に拝領を受ける形が採られていない寺社領を手放そうとしない宗教勢力は、摘発に回る」といい始めたのである。
 
「宗教勢力も全て、織田政権にひとまず降伏して臣従の意を示し、社領・寺領をいったん織田家に返還するという形を採れ。そして織田政権が各寺院の役割や重要性の高さ、態度の良さなどを改めて吟味していき、相応しい寺社領を再度与える」と言い出したのである。
 
こうした信長のやり方は、支配地を増やしていった過程で既に有徳狩りをして回る形で徹底されていたが、これまで比叡山や高野山といった、規模が大きくそれなりに抵抗力をもっていた(半戦国仏教化していた)総本山との遭遇(カチ合い)はまだ少なく、あっても融和的に済んだ所が多かった。
 
しかし京に乗り込んで以降の織田氏のその勢力分布は、もはや規模の大きい宗教勢力と間近に接近するようになっていた。
 
1569 ~ 1570 年あたりには北畠氏の抵抗力もいよいよ皆無になり、伊勢の大半を支配下に組み込んだ頃、すっかり貧窮していた伊勢神宮は北畠氏(元々の地元の支配者層)の肩をもつようなことばかりはせず、織田氏に反抗的な態度は採らなかった。
 
信長はその態度の良さに免じて「格式や役割(教義力)に応じて宗教(教義と地域貢献)を保護する」という、支配者としてあるべき責任(義務)を守るべく、当時貧窮していて困っていた伊勢神宮の救済に、積極的に協力する態度を採ったのである。
 
伊勢神宮は、本来は北畠氏が支えなければならない責任(義務)があったものの、伊勢の代表として地方の武士団をまとめられずに内紛もいつまでも収まらなかったため、伊勢神宮もろくに支えれなくなっていた。
 
伊勢をまとめ切れていなかった北畠氏が、織田氏から外交や軍事で押され続け、既に便宜上だけの伊勢の代表に過ぎなくなっていたため、神宮側もそこまで肩をもつ義理もなかった事情もあった。
 
しかし例えば朝倉攻めの越前侵攻の際の、規模も大きめだった気比(けひ)神宮の結末は、それとは全く違っている。
 
朝倉氏と敵対した織田氏に、気比神宮は朝倉氏の肩ばかりもって反抗的な態度を示したため織田軍に攻め込まれ、神宮は徹底的に破壊され、社領もとりあげられてしまった。
 
この気比神宮は 1570 年に滅ぼされて以来 1614 年になってようやく、越前の藩主となった結城秀康(徳川家康の次男)によって社領を与えられて再建されるが、信長は全く救済しようともしなかった。
 
これは比叡山(延暦寺・天台宗)もそうだったが、交渉しようともせずに警告を無視したり反意を示して抵抗しようものなら、もはやその宗教勢力の保証も面倒も見ない大前提で徹底的に破壊して回り、見せしめの対象にしていったのである。
 
聖属領地(社領・寺領)は、従来の支配者たちがあまりにも教義世界(閉鎖有徳も含めた宗教)を特別扱いし過ぎ、甘やかしすぎてきた風潮を、信長の出現によってついに徹底的にそういう所が否定されるようになった。
 
「織田氏の支配下にいったん降り、改めて織田政権からの拝領という形を通して、改めて寺社領が正式に維持される」
 
「しかしその後に問題ばかり起こし、その自己解決力(教義力)もろくに見せないような、教義失格の連中だと織田政権から判決されれば、もはやその存在を認めず寺社領も没収する」
 
その形を否定するのなら、いくら格式の高い宗教勢力であっても容赦しない姿勢を、信長は徹底した。
 
反抗した宗教勢力の寺社領を没収するために襲撃し、逃げ遅れた領民を容赦なく殺戮して回ったのは、従わないというだけの単純憎悪でやったのではなく、お互いの立場を思い知らせるため、ひいては下(従事層)にも等族義務を叩き込んでやるためである。
 
「お前たち下層(従事層)も、織田政権に反抗する教義に所属し続けるというなら、その教義力(国際規律)によって外圧(織田氏による弾圧)を実際に防いで見せ、その力量がどれほどのものなのかを世に知らしめて見せよ!」といっているのである。
 
これは、従わなければ寺院や寺社領を強制的に襲撃することで、その閉鎖教義力(閉鎖団結力)では織田軍の攻撃に何ら無力である実態を、存分に思い知らせる意図があった。
 
「織田政権に従えば、不当な外圧があっても責任をもって防衛に駆けつけ、公正な保護と判決の面倒も見ることも約束する」
 
だが織田政権が公認していない閉鎖教義の正しさに所属し続けようとする者は「その格式と正しさをただ掲げた所で誰も助けてくれず、何ら責任力(国際規律・団結力・反抗力)も育たない」ということを、それを解らせるために、その意味を叩き込んだのである。
 
新時代政権(織田政権)に逆らっておいて、困った時だけ助けてもらおうとして、それで誰も助けてくれなければ騒いで暴走(損失補填・横領)すればいいとする、戦国中期までに特に顕著だったそういう無関心・無責任・無計画な選択責任の不徹底態度は、もう許されない等族義務の時代に入ったことを信長は思い知らせた。
 
そういう手ぬるい勧善懲悪がいつでも許されると思っているような、教義競争に真剣に慎重に取り組もうとしない悪影響な態度を見せるいい加減な偽善教義集団は、それに荷担する連中もまとめて同罪にして殺戮して回った。
 
これを信長が徹底してやっておいてくれたおかげで、室町前期の高度成長経済後の大乱と戦国時代を迎えた後に、遅々として整備できていなかった大事な低級裁判権(庶民法)の、その大幅な整備の進展を見せることになったのである。
 
江戸幕府の時代になって徹底されるようになった、公家諸法度(くげしょはっと)と寺社奉行の制度(教義問題の意見回収と審判)は、信長がその前身を作っておいてくれたから、それが見習われて運営されるようになったのである。
 
教義(国際規律)の向き合いにいい加減な閉鎖劣情(無計画に感じただけの好都合と不都合)を共有して偉そうに社会正義を掲げているだけの、新時代政権(織田政権)が公認していないいい加減な連中に関わった者も、同罪扱いされて生死に関わるという仕組みを、あえて信長は作った。
 
それが解っていないのに調子に乗って悪影響を与える者は、その態度が裁かれる時代に入った。
 
名目(誓願)をよく考えずに、無計画に不都合を感じただけで「我が寺社はいついつの伝導大師の功績によって、いついつの天皇陛下によって寺社領を拝領されたという歴史があり、織田政権に拝領されたのではないわ!」などと、何百年も前の旧態根拠をいつまでももち出して偉そうに言い訳する態度も、もう許されない時代に入った。
 
それを信長が上から下まで徹底的に叩き込んでやったことで、当時の日本人にようやく少しは教義競争の大切さを気付かせることができたのである。
 
日本の織田政権でも、ヨーロッパの帝国議会でも、その審議と判決の内容にどうしても納得がいかないなら、そうまでして言い張るのなら非武力でも武力でも、皆が納得できるようなその国際性(国際規律・教義競争力)を見せよ、とした基本姿勢は互いに同じである。
 
結局敗れはしたが、日本では浄土真宗がどの宗派よりも最も国際性(国際規律)があったことを見せつけることができて、ヨーロッパでも同じく敗れはしたが、以後も教義力を高めていって認めさせたプロテスタントたちも、苦しくても信用のために戦い通して示さなければならなかった部分が共通している。
 
16世紀は日本もヨーロッパも、世俗権力と聖属権力の教義力が逆転するようになり、世俗権力側が教義をついに具体的に吟味する側に変容していった所が、共通点である。
 
日本は室町幕府になると、旧態聖属支配が中心の社会とはもう決別できたかのように見えたが、戦国時代が長引いて世俗権力側が一行に解決を見せなかったことで、世俗権力に反抗する形で浄土真宗が戦国仏教化して、台頭してしまった。
 
そして世俗側が整備し切れなかった低級裁判権(庶民法)を、聖属側が(浄土真宗だけでなく各地の寺院も)再びもっていこうとした。
 
織田信長が出現するまで世俗権力は、聖属の面倒も庶民の面倒も見切れなくなってしまったことで、聖属の不満を押さえ込めなくなり、その脱却を許してしまった。
 
比叡山も再び閉鎖権威を発揮しようとしたように、信長が出現するまで世俗も聖属も(各地の支配者も宗教勢力も)それぞれ閉鎖教義を掲げ始めて不確かな正しさを乱立させ、あるべき教義のゆくえ(回収整理する者がいない乱立意見)は永らく迷走が続いた。
 
そうして戦国後期を向かえた時に、そのゆくえを決める大仕事ができそうな、その最後の希望として出現した人物とは、織田信長顕如(浄土真宗の貫主・代表)の2人くらいしかいなかったのである。
 
顕如は、低級裁判権の代表(本来は聖属側だった有徳の代表)となるため、ひいてはこれまで世俗権力を否定してきた浄土真宗の信徒たちを守るために、信長に対して「あの有徳惣代気取りの仏敵法賊めが!」と気勢を挙げた。
 
それに対し信長は「世俗最強のこの俺(全ての教義の審議最大責任者)に向かって何が仏敵法賊だ! お前ら聖属の教義力がだらしないからこういうことになったんだろうが!」の応酬である。
 
この2人の低級裁判権争いはとにかく凄まじかったが、双方のこの表向きの態度ばかりを鵜呑みにしてはいけない。
 
言い分はどっちもどっちである。
 
室町以降は本来は世俗側が聖属を保護して教義を回収していく責任(義務)があったが、それが果たされていないかったし、聖属側も世俗権力に振り回されてばかりで、互いにあるべき法(社会性)を満足に整理できていなかった末の、信長(世俗の台頭)と顕如(聖属の台頭)のカチ合いだったのである。
 
顕如は内心は、勝てるかどうか疑問だっただろうが、浄土真宗の信徒たちだけでなく、今までの世俗権力に心底から納得できていた訳ではなかった、全国の上から下までその疑問をもっていた者たち全てを納得させるために、仕方なく戦わなければならなかった。
 
信長も内心はそこまで浄土真宗を憎悪しておらず、その難しい事情がよく解らない下層(従事層)たちを牽引するためにそういう態度を採っていただけであるのは、闘争終結後の浄土真宗に対する寛大な態度によく現れている。
 
2人は表向きは激しく争ったが、実際の所は日本の大事な教義問題と低級裁判権のゆくえについて今後、全国の上から下まで、教義にいい加減な向き合いをさせないため、その決着をつけるためのやむを得ない共同作業だったのである。
 
浄土真宗は敗れたが、10年間も抵抗力(国際規律)を見せつけた上で降伏したというこの重要な意義は、当時の日本の仏教の大きな支えとなったのである。
 
つまり「理由はどうであれ新時代政権(織田政権)にそんなに文句があるなら、その意志が本物であることを浄土真宗のように立派に戦い抜いて見せ、何でもいいから彼らと同等かそれ以上の法(国際規律)を見せてみよ!」という大きな前例になったためである。
 
信長は、特別扱いする訳にはいかなかったから、浄土真宗のことをあえて称えなかっただけである。
 
内心は尊重して向き合い「彼ら浄土真宗のように真剣に立ち上がって法(社会性)に向き合うこともできぬ連中が、大口を叩くな!」「貴様らはそこまで覚悟できているのか!」と、世俗聖属に関係なく全国にそれをいえる前例を作ってくれた彼らに、弾圧など一切せずに保護という形で報いているのである。
 
本来は公的教義が、それを導く責任(義務)があるはずなのである。
 
その公的教義から(延暦寺・天台宗)からかつて散々格下扱いされ続け、力をもたれないように常に弾圧を受け続けたこの本願寺(浄土真宗)というのが皮肉にも、失望一辺倒に向かっていた国教(仏教)の、戦国後期での最後の自力教義の手本になっていたのである。
 
本来は公的教義がそれをしなければならなかったのが、それができる最後の希望が在野(ざいや・外側で独自に育っていた存在のこと)の本願寺(浄土真宗)だけという有様だったのである。
 
日本人が選んだ国教(仏教)を、日本人が自分たちの法(教義競争)として大事に向き合い、その後の日本のゆくえに大きく貢献できていたのは、この浄土真宗だけだったという実態が、かなり過小評価されている所である。
 
浄土真宗がここまで力をもっていなかったら、自分たちで向き合うべき仏教の姿というものを、他宗同士ですら全く喚起し合う(見習い合う)こともできなくなり、日本はもっとあっさりキリスト教に染まっていたかも知れないのである。
 
繰り返すが、それが日本の国教として、日本人が日本人である文化的な法(社会性)として育てていけるものであれば、国教の中心が仏教でもキリスト教でも問題ない。
 
日本仏教は教義崩壊で失望ばかりさせ続けてきた中、日本人の自力教義としての最後の希望になるまでに育った浄土真宗の立証がなかったら、キリスト教が日本にやってきた時に「もはや仏教(自力教義)に何ら魅力などない」という一斉の流れになっていた危険性があったのである。
 
それはつまり、日本人が日本人としての、日本のための教義(仏教)というものを自分たちで大事にしていく姿勢など皆無なまま、教義競争が進んでいたというキリスト教の正しさの部分ばかり見て、ただ鞍替えし、ただその言いなりになるだけの、教義力(国際文化)も皆無な日本にさせていったかも知れないという意味である。
 
そうなってしまったらもはや、ヨーロッパの王室と教皇庁のいいなりになるだけの植民地と同じである。
 
自分たちで教義競争を放棄することは、自分たちで進んで植民地支配を受け入れようとしているのと同じことなのである。
 
信長にしかできなかった、当時のこの荒治療の宗教(教義)改め政策が強行されていなかったら、日本人は仏教だけでなく、神道やそれまでの伝統文化も自分たちで進んで放棄し始めて破壊してしまう選択も、してしまったかも知れないのである。
 
その意味で、戦国後期の織田信長(世俗)の台頭と、仏教のあり方を他宗にも喚起してどうにか日本の教義の支えとなっていた浄土真宗(聖属)の台頭は、日本の教義危機を支えていた、重大な存在意義があったといえる。
 
法(社会性)が目まぐるしく変わろうとしていた頃だったからこそ、織田政権と浄土真宗との戦後は、信長も顕如も必然的に発言も少なくなっている。
 
2人とも当時のことをヘタに発言してしまうと、下(従事層)たちが言葉通りに丸覚えして意図を曲解し始め、彼らの死後に「あの時あの実力者がああいった、こういった」と意味を深く扱わないまま言い合う火種になりかねなかったためである。
 
1580 年に織田氏に降伏することになった浄土真宗は、永らく世俗権力を否定して寺領を自営してきた社会観から、これからは世俗権力の支配下としての社会観に切り替えるために、今までの教義の向き合い方を改めるための議論が、門徒たちの間で続いた。
 
その時に門徒の中には「本当はまだまだ織田氏と戦えたはずで、もっと良い条件を引き出すこともできた」と、その議論の中で織田政権に対して堂々と不満をいう者も中にはいたが、信長は怒らずに彼らがどうするのか、様子を見ていた。
 
もし武装蜂起するにしても、まずは意見を整理して織田政権に提出し、どうにも埒があかなければ武力蜂起、というその順番を採れる、そういう所から人々に手本を示さなければならないという、国際規律のある連中だということも解っていたためである。
 
降伏後の浄土真宗は、議論の中では多少は織田氏への不満も述べたが、織田政権の法(社会性)を実際に阻害するようなことは一切せず、結局、再度の武力蜂起の選択はしなかった。
 
信長の死後もしばらく議論が続き、次第に教義の方針のことで意見が分かれて、1592 年頃には整理されて東本願寺(徳川公認)と西本願寺(大谷派・本流派)でそれぞれ浄土教を守っていくということで、落ち着いた。
 
顕如は
 
「これからは世俗が聖属と庶民の面倒を見るというなら、今後の支配者たちもその責任(義務)をもって大事に保護せよ」
 
「それができなければまた同じように世俗否定の強力な聖属一揆が起きたり、あるいは外国宗教(外国教義)に一方的に染められっぱなしとなっていき、日本中が再び大変なことになるぞ」
 
という警告を、世俗側に強く訴えることになった、重要人物だったのである。
 
見た目は苛烈に見えた信長のこうした教義対策は一方では、領内での宗教保護にはかなり寛大で、臣従した領内の寺社と、反抗した領外の寺社は、もはや天国と地獄ともいえるほどの差があった。
 
次は、信長は宗教保護においてはどんな対処の仕方をしていたのか、また当時の浄土教(浄土宗と浄土真宗)はどのように見られていたのかなどを紹介していく。