ヴェニスの商人(シェイクスピア)の時代と、ルターとマキアヴェリの時代(2/7) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- シェイクスピアの生まれ育った環境 -
 
「ヴェニスの商人」の設定がなんだか中途半端なものに見える背景として、シェイクスピアの中途半端な中産階級の家系と、彼が生まれた年代から容易に窺える。
 
1564年のイングランド生まれということは、彼が10歳の1575年は、丁度スペイン(カスティリャ)が第2回目の債務支払停止措置を執行し、アントウェルペンの証券市場が大混乱を起こして大騒ぎになった時である。
 
スペインは全部で7回の債務支払停止措置を執行したというが、この第2回目が最も凄まじかったという。
 
「債務支払停止」とは事実上の国家破産のことで、王室国債に関わる債権の「開き直りの踏み倒し」である。
 
シェイクスピアは当時10歳だったから意味が理解できていなかっただろうが、当時の大暴落事件は認知していたと思われる。
 
アントウェルペンの証券市場はヨーロッパ中で注目され、悪い意味で「金がない人間でも一攫千金の機会」のように受け取られていた。
 
そのためシェイクスピアの周囲にも、全財産をかけて大損して散った人や、運よく損切りできて財産を築いた人が何人かいたのではないか。
 
これまで順調だったシェイクスピアの家が1575年前後に急に傾きはじめているのにも、大きな関係があったかも知れない。
 
近世では遠隔地の都市間の取引網が強化されたため、商業がより活発になった時代であった。
 
遠隔地商業の規模も大きなものになってくると、各地の王族(国家)が銅や銀(貨幣)の「持ち込み」は歓迎したが「持ち出し」は厳しく規制され、「持ち出し」自体が特権扱いになっていた。
 
そのため品物を売りにやってきた外来商人は、代金を貨幣で受け取ることが簡単ではなかったため為替が広く流通した。
 
例えばドイツ人がスペインで取引した時にすぐに貨幣が必要な場合は、発行がドイツの為替(証券)をできるだけ受け取るようにして、それを国内にもって帰って銀行で換金するという訳である。
 
大市は多くの商人が集まるため、売り手に都合のよい為替を買い手がもっていなかったとしても、その都合同士で集まって為替を交換したり約手の手形を得たりしていた。
 
またその国の貨幣価値が少し安くなった時に貨幣を確保しておき、貨幣価値があがって物価が安くなった時を見計らって品物を多く購入して運ぶ、といったこともよく行われていて、発想が現代とそう変わらない証券が広く流通していた。
 
外国で購入した品々の持ち出しは、当時は馬車何台につき通行税がいくらという各地の領主の特権になっていたが、運送費と関税がかかるという原点は現代とそう変わらない。
 
こうした原始的な証券(手形)の取引は、その利ザヤ目的だけで取引する者も多く現れた所も現代とそう変わらず、アントウェルペンは世界規模の市場になっていた。
 
当初はこのヨーロッパ市場の相場を南ドイツ商人団が半支配化していたが、シェイクスピアが生まれた頃には南ドイツ商人が衰退してジェノヴァ人が操るようになっていた。
 
その頃にできたのが「エキュ(エキュドゥマルク)」という単位である。
 
16世紀ヨーロッパの貨幣単位は代表的なものだけでも
 
 ドイツ  :ライングルデン(グルデンとだけある場合はライングルデンのことを指す)
 ハンガリー:ハンガリーグルデン
 イギリス :ポンド・フェニッヒ(?)
 フランス :リーブル・フラン
 イタリア :ドゥカード・スクーディ
 スペイン :マラベディ・エスクード・フォリオ・レアル(?)
 ポルトガル:クルザード・リラ(?)
 ネーデルラント(スカンディナヴィア):クローネ
 
とざっとでこれだけあり、ここからさらに各国各地方で他にも単位が色々と使われていて、また貨幣価値(物価)、証券価値も常に変動していた。
 
エキュは貨幣ではなく、市場の平均価格を表すためにジェノヴァ人が作った単位だったが、為替ではこのエキュという単位が便利だったため浸透した。
 
アントウェルペンでは有力商人や銀行家が発行する証券が多く流通し、さらにスペイン王室(ハプスブルク家)の国債(フーロ)と関わっている政治的な証券も多く出回りっていて、それらに人々がこぞって買い求めた。
 
スペイン王室(ハプスブルク)とアントウェルペン(ネーデルラント公領)との関わりは、カール5世がオーストリア、ブルゴーニュ、カスティリャ、アラゴンの大領を一挙に相続したことに縁がある。
 
カール5世がそれぞれの王公貴族の孫だったためで、オーストリア王族とブルゴーニュ貴族の子にあたる父と、アラゴン王族とカスティリャ王族の子にあたる母をもち、祖父が皇帝マクシミリアン(オーストリア大公)という、まさに皇帝になるために生まれてきたような前代未聞の王族である。
 
ブルゴーニュ公国にはネーデルラント公領(現オランダとベルギー)が含まれていた。
 
そのためシェイクスピアが生まれる少し前まで、カール5世の妹のマリアがネーデルラント公領の総督として、アントウェルペン市場の代弁役も務めていたという背景もある。
 
カール5世の時代にハプスブルク領があまりにも広大になりすぎたことから、カール5世はスペイン(カスティリャ)を、弟のフェルディナントがドイツ王と副皇帝にそれぞれ就任し、以後ハプスブルク家はオーストリアとスペインの系統でそれぞれ歩むこととなる。
 
アントウェルペンは元々は、バルト海商業圏の1つの都市に過ぎなかったが、大航海時代以降はリスボンと並んで新大陸貿易とアジア貿易の主導的な大都市に変貌していた。
 
それがカスティリャ(スペイン王室=ハプスブルク家)の財政特権と直結していたことで、ここが当時のヨーロッパの最重要都市として発展し、巨大証券市場が誕生することとなった。
 
アントウェルペンの貿易権は、最初は貿易大国ポルトガルがその主導権を握っていて、スペイン(カスティリャ・アラゴン)とはあまり仲が良くなかったが婚姻関係などで和解され、その権利はスペインに統合されるようになった。
 
スペイン・ドイツ(ハプスブルク)と覇権を常に競ったフランス(ヴァロワ)もそれに対抗するように、シャンパーニュの大市を強引に移動させて改良したような、政治的な都合で作られた大きな証券市場がリヨンにあった。
 
当時のヨーロッパはこの二大市場を中心に、各都市の大市で盛況していた商取引と連動していた証券取引が盛り上がった。
 
ただし肝心のスペイン王室とフランス王室がことある事に軍事力を張り合い、限度知らずのメチャクチャな資金戦争を繰り返したことで、証券価値の大高騰と大暴落を招きがちだった。
 
そして両王室は何度も国家破産を起こし、その度にこの二大市場は破壊と再生を繰り返したが、もちろんそのたびに各地の市場も大騒ぎになった。
 
そのスペイン・ドイツ(ハプスブルク)とフランス(ヴァロワ)の闘争がルターとマキアヴェリの時代に本格化し、その中で教皇庁も時代の変化への対応が全く間に合わず、ヨーロッパ中の人々も何がなんだか訳が解らないような世界になっていた。
 
シェイクスピアの地元イングランドは、古くから羊毛の毛織物輸出が盛んで、ロンドンからネーデルラント(アントウェルペン、ベルヘン・オブ・ゾーム)に送られ、ここを基点に毛織物が船や陸路で各地に運ばれていった。
 
そのためロンドンとアントウェルペンとの都市間、つまりイングランド人とネーデルラント人(現オランダとベルギー)は国家上とは別に、商取引上では古くからの信用取引の間柄だった。
 
近世ではヨーロッパ中の人々がアントウェルペンに出向いて証券取引に夢中になり、当然イングランド人もいたと思われ、ロンドンにもアントウェルペンから証券が流入していたと予測される。
 
シェイクスピアが生きたヨーロッパは、そうした面白い経済成長も見られた一方で国家戦争や宗教反乱が激しく、イングランドは政局が大混乱を極めていた時代だった。
 
本来は土地所有貴族が農家を支配するはずが、この頃のイングランドでは自由土地保有農家が小農家を支配して小作人を抱えるという富裕農家(ヨーマン)権力の台頭を、政府が抑えきることができていなかった。
 
それによって格差社会が助長し、彼らから職を奪われて都市に溢れていた大勢の庶民の対処に国政が追われ、イングランドの財政がどうにもならなくなっていた所に、さらに宗教問題とイングランド王室の後継者問題につけこむハプスブルク主導の教皇庁からの圧力が加わって貴族権力が危ぶまれた。
 
その時のヨーロッパは、一時的ではあるが聖属権力(教皇庁)と世俗権力(ハプスブルク)の立場が完全に逆転していた時代で「まるでハプスブルク家がキリスト教徒の聖属と世俗の全ての代表であるかのような」主導権を有していた。
 
もちろん表向きは教皇庁がキリスト教の頂点であるが、一時的とはいえ実質ハプスブルクが全ての頂点だったといえるほどであり、そしてもうすぐその栄光の大転落劇がはじまるという、世の中が二転三転した頃である。
 
シェイクスピアの少し前の、ルターとマキアヴェリが生きた時代は、そのハプスブルク家の隆盛期の真っ只中だった。
 
ルターはハプスブルク家と教皇庁を、発言的には遠まわしにだが堂々と「信仰とは、権力に振り回されているだけの教皇庁の規制で決定されるものではなく、聖書に求めるもの」「責任ある指導者らが宗教を良い方向に全く導びこうとしていない」と抗議(プロテスト)した。
 
エリザベス1世の治世時代(シェイクスピアの時代)の西方教会(カトリック)から講義派(福音派・プロテスタント)への国教の切り替えは、事実上のスペイン・ハプスブルクとの対決宣告であったが、イングランドでも宗教観にだいぶ変化が出てきていたことの表れでもある。
 
このようにどの国も、キリスト教のとらえ方から法や慣習のあらゆる教義崩壊が激しく、時代に合った教義の再整備にどこも苦労していた時代だった。
 
その少し前のルターやマキアヴェリの時代はまさに教義崩壊の最全盛期で、エリザベス1世(シェイクスピア)の時代にその余波がイングランドに降りかかってきた頃だったといえる。
 
彼らが生きた時代は、ハプスブルク家やヴァロワ家をはじめとする世俗層、教皇庁と各修道会をはじめとする聖属層、その全ての下々が時代に散々に振り回されていた世界であった。
 

- 泡沫金融経済の、「近世の経済成長」と「昭和の経済成長」の崩壊の共通点 -
 
日本でもヨーロッパも、中世から近世にかけては様々な教義崩壊が起き、懸命に立て直された時代であった。
 
当時のヨーロッパの証券市場は、近年の経済の節目だった「昭和の泡沫(バブル)経済」に共通点が多い。
 
同じようなことが近世にも起きていたことを伝える目的で、ここでいったん昭和の頂点と崩壊の 1990 年代の、泡沫経済崩壊の荒さについてまとめたい。
 
昭和から平成前期の経済崩壊でにまず語られるのが、地価(不動産)の高騰だが、それに比例するように証券の高騰も目立った。
 
特に物価の上昇にともなう地価の高騰は凄まじく、これは不動産が堅実な資産価値と見なされ人気が高かったことで常に投機過剰状態だったことが要因だった。
 
景気が盛況になると、会社の資本的な体力が増強し、今までできなかった他の事業にも手が回るようになる。
 
今まで無かったものに挑戦され、そして会社員の資本的な体力も増強すると、今まで無かったものや買えなかったものも買えるようになり、生活の楽しみ方も変わっていく。
 
供給の安定力によって急激な人口増加が起こると、大勢いる人間ひとりひとりの価値は下がり、資格や資産に誇りが求められる乱暴な時代に早変わりする。
 
「地価や証券が天井知らずで高騰を続ける」という異常事態が続くと「それを買って値上がりして売れば大もうけできる」と安直に考える者も多数出てくる。
 
実際に証券会社に務める社員は、自身の給料を銀行預金ではなく全て証券に変えて温存した者が多くいた時代だった。
 
週刊誌は「財テク」や「金融ビッグバン」などという言葉がはやり、これまで経済に疎かった者でも急に大金が得られるかのような錯覚を煽った。
 
真面目に地道に貯金をしてきた者たちの中には、それが馬鹿馬鹿しく思えて貯蓄の全てを投機につぎ込む者もいた。
 
世の中が一変してくると信用経済に不真面目に向き合う者が増え、新たな仕様が次々と生まれる一方でその不正の摘発がおいつかない隙に入り込んで、人々の弱みにつけこむ悪徳業者が幅を利かせることになる。
 
「投機に失敗しても、失敗した分を次の投機で取り戻せば問題ない」「みんながそう考えているから自分も許される」という、損失補填的無責任の横行である。
 
「自分だけ得して他の奴がその分を損すればいい」という安直な発想が、それを巧みに狙った詐欺も横行し、気付いたら騙される側にいたなどということも頻繁に起きる。
 
メチャクチャな投機で大もうけを味わってしまうことが信用経済の意識を薄れさせ、悪徳金融や違法取引に手を染めはじめ、弱みを握られて追いまわされる者が続出した。
 
不動産神話が崩れ、銀行や証券会社の不倒神話も崩れて証券が暴落し地価が正常値に戻っていくと、強引な投機の繰り返しに頼り続けてきた者や、また景気の勢い任せの荒い経営ばかりして贅沢に慣れすぎてしまい、金銭感覚が麻痺していた資産家気取りが、一斉に路頭に迷った。
 
地価は、不動産の投機過剰が無くなり本来の正常値に戻っただけの話であるが、しかしこれが例えば崩壊直前に10億の不動産を購入し、崩壊後には実際には5億の価値しかないものに10億を投資してしまった、というような状況に追い込まれた人々が多かった。
 
それを例えば半分を銀行の融資に頼っていた場合、単純な穴埋めとしては5億の損失を返済するためにその不動産を手放し、丸々5億分の資産を失った上に利息まで払わされる概算である。
 
急激な好景気の物価高騰の反動の通貨高騰は、不動産担保の地価も物価も下がっているのに借入の額面だけは変わらないから、返済はもちろん利息も苦しい。
 
相場の世界の難しい所は、相場上の価値と実態価値に時間差があることが特徴的で厄介な所でもある。
 
自身の新居や車のための借入だったら、債務が増えたとしても返済の責任意欲は保てるが、いい加減な負債の抱え方をして膨れ上がった「資産が残る訳でもない債務の返済」に責任意欲が生まれる訳がなく、犯罪や自殺に走る率も高くなるのは必定である。
 
昭和から平成前期にかけて不動産や証券の投機に興じていた人々がかなりいたため、債務だけが膨れ上がってどうにもならなくなり、生きる希望を失った自殺者がかなりいたといわれる。
 
これは投機に限ったことではなく、例えば会社の運転資金を銀行の融資をあてにしていた経営者にとっても同じような痛手が起きた。
 
崩壊直前に借りた運転資金の3000万が、崩壊後は2000万の価値だった場合は1000万円分多くの利息と返済を支払いを続けていかなければならない状況になる。
 
それは例えば設備を増強した矢先に経済崩壊してしまった場合などで、人件費は削減できても、物価の上昇が著しかった時期の設備投資はどうにもならず命取りになりやすかった。
 
借り店舗や借り事務所で経営していた会社が、好景気期に自社ビル等のための不動産に手を出してしまった会社などが好例である。
 
不動産神話の錯覚と好景気の利益率膨張の安心感で高額の不動産に手を出し、好景気時代の基準で銀行から借入してしまい、不景気期に突入したら地価が下落してしまい利益も落ちこんだ所に返済がおいつかず倒産、という会社がかなりあったようである。
 
もし賃貸料が高騰していても、事務所や店舗を全て賃貸で拡張し運営してきた会社は、不景気になったら人員を削減して賃貸も解約すればいいだけだから、利益が落ち込んで倒産することになっても、たたむ際の債務責任は最小限に抑えることができる。
 
しかし経営自体は健全だったのに、不動産に手を出してしまったり急速に大規模な設備投資をしてしまったことが命取りになり、債務責任に縛られ、自宅をはじめとする資産の全てを手放さなければならなくなり、倒産後も債務義務に縛られ続ける元経営者は、自業自得とはいえ悲惨である。
 
債務を清算できないと「倒産後の多額の債務を返済するための事業の再起」をしたくてもまず銀行からの融資が困難である所が悪循環である。
 
もうどうにもならなくなり破産宣告にすがった人も多かっただろうが、中には債権者に申し訳がない義理を深く感じ、誰にも顔向けができない後ろめたい暗い人生を歩まなければならなかった人も多かったことは、なんとも残酷な話である。
 
そうして売掛金が予定通り回収できなくなってしまった会社が多く出てきて、また人件費削減が目立ちどこも羽振りが悪くなると、世全体の消費意欲が落ちてどこも利益が落ち込み、銀行への返済もますます大変になる。
 
そういう時の国家の態度は、手のひらを返すように貸付専門事業(ノンバンク)を早々に撤退し、手遅れ寸前の貸倒れ危機の地方銀行の救済まではしても、民間に対する救済はもちろんしないものである。
 
だからこそ昭和のような「いずれ崩壊期が来た時に全く対応できなくなるほどの過剰な好景気」というのは厄介である。
 
しかし世の中に大して便乗できず、忙しい思いばかりさせられながらも地道に蓄えていた人にとっては、多くはないだろうがその後に一時的に起きる急激な通貨高騰(デフレ)期に良い思いをできた人もいる。
 
例えば、あまりの景気の悪さに資金繰りに困っていた不動産業者から、今まであきらめていた不動産を格安で入手できる可能性等もでてくるためである。
 
景気が悪くなるとようやく会社も景気便乗型の概念を切って、自営努力型の概念を採用しはじめ健全化される傾向も多少は強くなるが、それも世の中が変わるというよりも本来の適正性が見直されるだけの話である。
 
人類が体験したことがないような歴史的景気を人々が体験すると、新たな仕様が次々と誕生する一方で法がそれに追いつかず、人尊軽視と資尊重視が定番のように起きるのは、当時も現代も共通していえる。
 
そのような時というのは「人間関係の変化」と「損失補填の問題」について顕著になってくる。
 
好景気の証券経済の台頭は、資産家とは何の縁もない一般庶民にも入りやすい世界になり「損しないための会社資産の運用」から「儲けるための会社資産の運用」になりやすくなる。
 
「損しないため」から「儲けるため」というにわかな発想で、急激に増長した経営者や大して資力のない一般庶民でも、連帯信用の縁を作らずに投機参加できてしまうから多くの問題が起きる。
 
閉鎖的な世界から、庶民でも参加しやすくなったといわれると聞こえは良い。
 
しかし損失補填の問題を学ぶ関心も機会もないまま投機参加できてしまう者が増えることは、大きな社会問題となる。
 
ここでいう「損失補填の問題」の意味は「表向きの理由ばかり立て、自身の資力以上の投機を始める、債務に無計画で無責任な身の程知らずの博徒的行為」のことを指す。
 
筆者は投機売買には全く興味はなく何の知識もないが「得できなかったから損をした」という発想しかできていない時点で損失補填主義(博徒主義)の無能な発想しかできていないことくらい、冷静に考えてみれば誰にでも理解できることと思っている。
 
損失に関心をもち、洞察的で丁寧な、「人に迷惑をかけないための」損切りの清算計画能力を身に付けることが大事なのは、何においてもいえる人的信用基本だろう。
 
貸借対照表でいう所の「貸方に利益要因を求め、借方に損失要因を求める」のは不健全な損失補填主義であり「貸方に事業名目を、借方に利益要因を求める」のが関心的で健全な信用主義だと筆者は考えるためである。
 
だが異様な好景気期は、信用に向き合おうとしなくなる悪い意味での「時は金なり」の誘惑で、人間関係も変化しやすくなる。
 
荒い投機方法でも勝機が高ければ「信用ある人物の紹介」しかよそ者も受けいれなかった閉鎖的な壁も崩れやすくなり、人間性よりも数物証拠主義の資物性ばかり優先されやすくなる。
 
融資も表向きの利用が事業資金といった理由でごまさかされれば、実態がほぼ投機目的の大問題の借入でも勢い任せの時代ではそのすり抜けも見逃されやすくなる。
 
近世でも現代でも「商取引の価値と、証券の価値」を一体で考えてみた場合の二面性として、1つはその商取引が単純に費用より利益が上回る場合、もう1つはその商取引が値段が高くても必要とされている品がその場所に届く利益と考える。
 
後者は当時でいうと、食品用や紡績用などの作物が不作となった地域があると、いつもそこから仕入れていた地域がその不足分を、高くついてもよそから補う必要が出てくる場合である。
 
また都市に資力がつき、人口増加が目立ち新規事業も少しずつ行われてくると、今までよりも食料や原料の供給仕入を増加させる必要が出てくる場合も該当する。
 
現代では、値段が高くても競合の少ない新製品や新サービス開発の商戦に成功した場合が後者に該当するが、当時でも現代でも「欲しい地域へ、欲しい人のもとへ必要なものが届く」ことが何より重要になってくるだろう。
 
市場の相場とは元々は、相場の押し付け合いでケンカしないよう、商取引の差別がないよう平等性を保つことが第一の目的である。
 
近世の市場は、信用のある人間が集まり、各国の貨幣価値を各都市ごとに平均値(コント)を算出して相場が設けられ、そこから証券価値も算出されたため、仮に誰かが不当に貨幣価値や証券価値を上げ下げしようとしても、無茶な操作はできなかった。
 
その各地の市場の証券価値を集計していたのが、当時ヨーロッパで力をもっていた南ドイツ商人団、のちにジェノヴァ商人団らである。
 
近世の証券も、即時のものから先付けのものまで条件は様々で、先付けは期日が遠いほど価値が安めになり、期日が近いものほど価値は高めになる、現代でいう先物(さきもの)や付加(オプション)取引の原型がこの時代には既に存在していたため、当然のこととして投機対象にされた。
 
前者の発想では、不当廉価販売(ダンピング)のように、買い占めるように原料を大量にかき集めて市場を原料不足に陥れて市場を独占し、同業者を簡単に排撃できてしまうことが近世では顕著になっていたが、ただしそれをやった時の非難もかなりのものであった。
 
当時も「安くあげ迅速な販売を可能とする」大規模な体制を大手に整えられてしまうと競合小口が全く抵抗できなくなり、大手の相場のいいなりの力関係になりやすかった。
 
競争自由化社会とひとことでいっても、それが近世ではその規模が中世とは比較にならないほど顕著で、人類が始めて体験し驚愕する規模のものが多かった。
 
スペインとフランスの国家破産でまず国債(フーロ)が崩壊し、投機に興じて膨れ上がった債務の支払いができなくなった者があふれ、それを無責任に放棄して夜逃げする者が続発したことが市場崩壊に拍車をかけ、商取引に甚大な負担をかけることになった。
 
シェイクスピアの少年期は、そうした市場の事情がそのまま国際問題として取り沙汰されるようになっていた、人類が初めて体験した時代であった。
 
この証券経済のように、単に投機過剰が起きて実態価値とかけ離れた過剰評価がされているに過ぎなかったものを実態価値だと錯覚し「適正な価値に正常化されていった」に過ぎないことを、元々の実態価値を考えずに「価値が無くなった」と勘違いするのは、当時でも現代でも一緒である。
 
何に対しての価値にでもいえるが、実際にはそこまでの価値がないはずの概念価値に損失補填の愚行を繰り返そうとする身の程知らずが多いのは、それこそが既成概念だと自覚ができないのは、当時の人々も現代人でも同じなのである。