小笠原貞慶の苦難と石川数正の出奔劇2/3(付録・梶田大膳なる者) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 深志城攻防戦の時の小笠原洞雪の様子 -
 
最初に深志城に乗り込んだ上杉派の小笠原洞雪が、深志城を占拠後に何ら対応できなかったことについて、筆者の個人的な記述をしていきたい。
 
まず小笠原洞雪は深志城を占拠後、北条勢の影響によって当初予定されていた上杉氏からの後援が、結局得られない事態となった。
 
上杉勢8千と北条勢2万以上の緊張では、上杉勢は他のことに手を回しているような余裕など一切なかったことは明らかである。
 
上杉氏からの後援が途絶えた小笠原洞雪の直接の手勢は、梶田大膳と八代民部が率いる200騎だけである。
 
洞雪のもとに集結した旧臣達は、深志城だけの都合で勢いで集まったに過ぎない。
 
ここから筑摩郡と安曇郡の支配権を確立するための人脈や地盤などを何も持ち合わせていない集まりに過ぎない以上は、いくら大勢になってもあてにならない集団でしかない。
 
深志(筑摩)のすぐ南隣の伊奈郡には、徳川氏の信濃攻略軍(酒井勢)が乗り込んできていた。
 
何の動員力もなかった洞雪がこの時に大人しく何もしなかったのは、自身が上杉派として筑摩に乗り込んできている以上、すぐ南隣の伊奈にいた徳川勢を刺激したくなかったからではないだろうか。
 
さらに一度追い出した木曾勢が「北条氏に味方し上杉派を攻撃する」という名目で再び深志奪回を狙っていたことも、洞雪は警戒していたと思われる。
 
洞雪の少ない手勢とあてにならない集団だけで、郡内を全て上杉派に塗り替えるべく制圧していくことは、ほとんど無理だったに違いない。
 
徳川勢の後押しのあった貞慶でも郡内の不満分子の制圧に苦労しているのに、上杉氏の後押しもなく洞雪が郡内を制圧することは到底無理だったと思うためである。
 
小笠原貞慶の徳川勢の支援のように「何かあれば、なんなら酒井勢がそのまま乗り込んでくるかも知れない」ような、増援がいつでもやってきそうな大きな背後というものは、あるのとないのとでは大違いである。
 
洞雪はせっかく深志城を奪還しても、上杉勢の援護が全く受けられなかったために、ただ城を守る以外に何の進展もさせられなかった。
 
勢いで集まってきた旧臣たちはこの事態に内心は「いくら大勢が集まった所で、よその権威に頼らないと自分達だけでは何もできない」という亡国の弱さを痛感し、自分達の不甲斐なさにかなりイライラしていたのではないだろうか。
 
洞雪のもとで旧臣達が梶田大膳と八代民部に非難を具体的に向け始めたのは、恐らくは小笠原貞慶が徳川氏の援軍を得て深志城に向かっているという報告が届いた時だろう。
 
何もできないまま状況が悪くなった旧臣達は、だからといって小笠原氏の当主の実弟である洞雪に不満をぶつける訳にいかず、また元々力を貸してくれた上杉景勝を非難して心証を悪くする訳にもいかなかっただろう。
 
その彼らが自分たちの状況の悪さから小笠原貞慶のもとに走ろうとする理由欲しさに、梶田と八代にを悪者扱いしていたようにも見える。
 
文献では「実権は梶田と八代が握り彼らが横暴で、皆が失望した」とだけあり、どう横暴だったのかがよく解らず、権威の背景が乏しかった洞雪の発給(指令)がうまくいっていなかったのではないかという指摘も少しされている。(天正壬午の乱・平山優著、松本図書館・長野県史15巻)
 
この梶田と八代の非難については、筆者は色々思う所があり、それについては詳細を後述している。
 
小笠原貞慶が最初に単身で深志城へ向かった時は、旧臣らは全く相手にしなかった。
 
しかし洞雪が上杉氏からの後援が期待できなくなり、小笠原貞慶が徳川氏の援護をとりつけて再び深志城にやってくると、彼らは態度を急変して早々に貞慶のもとへ走った。
 
しかし小笠原貞慶の基本路線には、その後もよその力の介入をできるだけ避け、自力で再興しようとしていた節も見られる。
 
再び深志城を目指すことになった時、徳川氏の力を借りておきながら貞慶の内心は「伊奈衆との縁をただ徳川氏に取りもってもらったに過ぎない」という、都合のいい解釈をしようとしていた節がある。
 
それは洞雪が深志城を退去する際に「自分は徳川派でも上杉派でもなく、双方と争う気はない」などと中立を保っているかのような書き方をしているためである。
 
本人はそんなことがいえるような立場ではないことは解っていても、そういう立場を表面だけでも保っておきたかったのだろう。
 
そんな調子であるから1年後に徳川氏から人質を要求された時も「小笠原と徳川は外交上では対等の関係で、そこまでする義理はない」といいたかったようである。
 
貞慶に時折表れるそうした態度は徳川氏からは図々しく見えたかも知れないが、筆者は小笠原貞慶にはそうした小笠原一族の当主としての気位の高さを恐れずに主張しようとしていたからこそ、結果的にその命脈を有利に保つことができたのではないかと考えている。
 

- 小笠原貞慶の筑摩安曇の再支配 -
 
先述した「小笠原貞慶の苦難」についての、筆者の個人的な補足を述べる。
 
「小笠原貞慶の苦難」を読んだ人の中には「小笠原氏の存亡がかかっている大事な時に貞慶に反抗しているような家臣達は、いくらなんでも緊張感や意識が低すぎるのではないか、揉めている場合ではないだろう」と思った人もいると思う。
 
貞慶が父長時と共に信濃を追われ、最後までそれに付き添い、貞慶と苦労を供にしてきた側近たちは、間違いなく待遇は約束されていた。
 
また多くはなかっただろうが二木氏のように、地元に居続けて小笠原再興に協力的で気遣いし続けた者たちも、特権などの家格上げが期待できた。
 
どのくらいいたか不明だが、流浪時代の貞慶に気を使って、手紙やささやかでも金品を届けたりして少しでも応援していた者などがいれば、当然待遇が優先されただろう。
 
だがほとんどの者はそうではなく、貞慶がのちに復活を果たすことなど、全く想像もしていなかった者がほとんどだったのではないか。
 
武田支配時代にかろうじて特権や領地を維持できていた小笠原一族の多くは、外で苦労している貞慶らのことをほとんど無視していたのではないだろうか。
 
だからこそ貞慶に戻ってこられるとその後ろめたさがあり、それらは貞慶がけむたいとすら思っていただろう。
 
貞慶が信濃を追われた時はまだ4歳か5歳くらいの時であっても、父や側近たちから「あの一族は友好的だった、敵対的だった」という話を当然聞かされていたと思われる。
 
貞慶が外で苦労している間に「外の誰にも気遣いもせず、苦しんでいるときも何の応援もしなかった」彼らと貞慶が迎合した時、貞慶は内心は「お前達はどの面を下げて!」と怒鳴ってすぐにでも報復したいぐらい怒っていただろう。
 
貞慶復帰の機運に従わざるを得なくなって渋々従っていただけの者も多かったことが、容易に想像できる。
 
その他は深志城攻防戦を機に集まってきただけの何の権力基盤もない下々で、貞慶からほぼ認知されていないような連中である。
 
それらは貞慶のために何か貢献し、待遇を認めてもらう機会だと従っていただろう。
 
深志城を奪還後に、貞慶の郡内の再支配が始まるが、わずかながら特権や領地を維持してどうにか生き残っていた小笠原一族からすれば、貞慶の支配権が完全に確立されてしまうと、後でいくらでも取り上げられてしまうことを恐れた。
 
そのため貞慶との関係が良くなく、のちに剥奪の恐れのあった者たちは、必死に貞慶に心証を得るよう努めるか、反抗の機を狙うかしかない。
 
しかしそういう時はいつでも足場の悪い連中の派閥が作られがちで、後者になりやすかったと思われる。
 
またこの大事な時期に失策を貞慶から強く叱責されてしまったような家臣らは、足場の悪い連中の誘いに乗りやすかっただろう。
 
そのような足場の悪かった連中は、貞慶に支配権を掌握されてしまえばもう何も抵抗できなくなる。
 
後で些細なことで地位を剥奪されてしまうことは目に見えていた場合は、貞慶に支配権を掌握される前に何らかの反抗をくわだてる他に道のない者もいただろう。
 
小笠原氏の存亡がかかっていた忙しい時期に、木曾義昌や上杉派からの誘いに乗った者たち、また貞慶の兄の貞次を擁立したりして足を引っ張っていた者たちはそういう連中だったのである。
 
貞慶にただ協力したというだけでは待遇を約束される保証など何もなく、また貞慶への心証を悪くすれば失脚する恐れすらあった。
 
上からの恩賞の後に下級階層の者たちにも何かしらの小さな役が付けられる可能性もあっただろうが、せいぜい数十数百の枠である。
 
その対象に入れなかった者達も、貞慶の権力が確立されてしまった後に必要がなくなれば、下から順番に召し放される(解雇される)運命だった。
 
目立った手柄を立て認知してもらおうとしてもついにその機会がなく、士分の身分を確保できなかったのなら帰農する他ない半農半士の者が大半だったと思われる。
 
下々の多くは諦めて帰農しただろうが、中にはわずかな望みをかけて足場の悪い派閥の誘いに乗った者もいくらかはいたと思われる。
 
最初の深志城奪回で6000も集まったというが、現地の集結はいてもせいぜい1000か2000くらいだっただろう。
 
木曾義昌が深志城を防衛するために郡内で徴発が行われたと思われ、名主らの多くがそれに反抗したことが容易に想像できるが、恐らくは洞雪勢に食料などを届けて協力していた関係者全てを数えれば6000くらいはいたかも知れない。
 
それらはただ協力したというだけでは、何か特別なことでもしない限りさすがに何千も待遇が与えられることはない。
 
何千もいた下々の連中もそれを解っていて、わずかな希望をかけて小笠原氏の復帰戦に参加していた。
 
戦国は夢のある世界に語られることが多いが、それはほんのひと握りの者達の話だった。
 
この時代に生きた人々の大半は、出世どころか最低限の士分待遇を確保すること自体が大変だったのである。
 
ひと握りの劇的な出世に人々は注目し、それを賞賛したりひがんだりしながら、わずかな希望を自分にも重ねていた、そういう時代であった。
 

- 石川数正の出奔劇 -
 
特に証拠らしいものはない中での、この事件の当時の情勢から個人的に整理してみた。
 
まず小笠原貞慶が「深志城(松本城)を奪還し、小笠原一族の当主としての権威を回復」するためには、徳川氏などの大きな権力者との結び付きに頼る他なかった。
 
貞慶が深志城(松本城)を奪還した1年後の1583年に、徳川氏から人質を要求され、子の貞政(秀政)をやむなく送ることになった。
 
その管理責任者として徳川家康から任されたのが、家老の石川数正である。
 
筆者は、石川数正の出奔劇の原因は結局、徳川家康または徳川家臣にあったのではないかと邪推している。
 
まず豊臣秀吉が織田時代の政敵を抑えて中央権力を確立していった過程で、秀吉は誰も恐れなかったが、ただし従わせようとした時に徳川家康だけは手ごわい相手だった。
 
徳川氏を押さえ込もうと「小牧長久手の戦い」で試されるが、これは表向きは豊臣秀吉の勝利だったがかえって徳川家康の実力を認めざるを得ない結果となってしまった。
 
この戦い以前から豊臣秀吉は既に「天下総無事令」の構想を表明していた。
 
そしてその目的に沿って、この戦いで表向きは豊臣秀吉が徳川家康を臣従させる形がとれたが、肝心の徳川家康の権威を何も削減できずに終わってしまった。
 
豊臣秀吉が宣戦布告や懲罰処分を執行して多くのものが地位や領地を削減されたり潰されたりしたが、それを唯一跳ね返すことができたのは徳川家康だけである。
 
ここから筆者の予測小説を記述していく。
 
豊臣秀吉がこの時に一番困っていたのは、小牧長久手の戦いによる豊臣秀吉と徳川家康との直接対決は終結していても、徳川家康が信濃の支配権に介入し、信濃では間接的な交戦が続いていたことだった。
 
信濃は豊臣氏の要請による上杉氏の信濃支配を進めたい所だったが、その都合に反抗するように徳川氏が真田昌幸に対する攻撃などが行なっていた。
 
豊臣秀吉の「天下総無事令」の名目の手前、信濃の争乱をいつまでも解決できていないことは、豊臣秀吉にとってみればとにかく厄介でしかなかった。
 
この問題はいずれはどのような方法でも収拾されただろうが、豊臣秀吉は当時は信濃問題だけでなく様々な対処にあたらなければならない。
 
そのような中でも自身の権威のためにも「天下総無事令」の達成を早めるためにも、政治力や外交力を見せ付けておきたい所である。
 
しかし小牧長久手の戦いでは、秀吉が家康を表向き従わせただけで曖昧にしか押さえ込めず、その後の豊臣氏と徳川氏との外交はこじれた。
 
家康は「天下総無事令は豊臣側の都合であろう」といわんばかりの「自分は信濃衆からの支援要請に応えているだけ」の態度を通すばかりである。
 
秀吉は表向きは、自分の方から家康に歩み寄ることができなかったが、内面では秀吉の方から家康に歩み寄ろうとしていたように思われる。
しかし家康はそれを解っていて、白を切り通していた。
 
その折衝役になったのが、信濃の重要人物の小笠原貞慶の人質、小笠原貞政(秀政)の預かり人であり、その責任者になっていた石川数正である。
 
しかしこの問題は本来は石川数正を介すべきではなく、豊臣秀吉と徳川家康が直接的に向き合って交渉し、解決するべき深刻な問題であった。
 
しかし徳川側は家老の石川数正をわざと挟むことで、その外交問題をうやむやにし続けていた。
 
この時「ほぼ徳川側が一方的にごねていただけではないか」と筆者は疑っている。
 
徳川側が秀吉のことを認めず、自分達を尊重させようと躍起になっていた当初はそれで良かった。
 
しかし日に日に豊臣秀吉の実力が証明されていき、権威が高まっていくその現実を、次第に徳川側が受け入れようとしなくなっていたと思われる。
 
間に入っていた石川数正は、双方からアレコレと無理難題を一方的に言われ続けていたものと予測される。
 
数正は双方を仲介している間に、豊臣秀吉の朝廷の権威や寺社との友好的な交流によって、天下人としての階段を着実に歩んでいる実態を直視したに違いない。
 
知将として名高い数正は、徳川家が心配だからこそ、秀吉の実力の実態を冷静に分析して率直に正直に報告していたものと思われる。
 
当時の秀吉の評判は三河でも世間で広まっていただろうが、しかし家康または家臣団がいつまでもその実態を受け入れようとしていなかった。
 
家中は豊臣氏に対して、敵対派と和解派で分かれていたというが、和解派はわずかだったのではないかと筆者は思っている。
 
それはこの時に「敵対派と和解派で家中の意見がまっぷたつに分かれた」という感じではなく、敵対派の勢いばかり目立っているためである。
 
そういう状況の時は決まって、ほんの少しでも和解意見に同調しようものなら同胞意識が欠落していると見なされ、売国奴扱いされるのが常である。
 
和解派だった数正の報告は、敵対派から見ると、まるで秀吉に買収された秀吉を担ぐ代弁者のように見えてきたのではないか。
 
もちろん数正はその深刻な実態を冷静に認識して報告しているに過ぎないが、家康または家臣らに不都合な話ばかりしはじめる数正に怒りを覚えはじめたのではないか。
 
人間というのはこういう時こそ本当にムシが良くなり「お前は徳川家のことを心配していない考えていない」などと数正を挑発し、相当に人格否定していたことは容易に想像できる。
 
豊臣秀吉は手詰まりな所があったからこそ、まだ小田原攻めが行われもしていないこの時点で、のちの徳川の関東加増移封のような原案を練っていたのではないか。
 
そして豊臣秀吉はその構想を、石川数正に正直に打ち明けていたかも知れない。
 
豊臣秀吉がもはや「先祖伝来の地うんぬんといっている次元ではない」ことや、向こう(豊臣)では戦国時代がとうに終わって国際組織に向かっているのに、こちら(徳川)がまだ時代遅れの戦国組織であること説明しても、家中は全く耳を貸さなかったのではないか。
 
この時、徳川側はほとんど外交をうやむやにするために石川数正を間に挟んでているだけだった。
 
それを良いことに家臣団は調子に乗って勢い任せで、自分が豊臣秀吉に釈明する立場でないことをいいことに、不都合の全責任を数正に押し付けて数正を口汚く罵っていればいいだけである。
 
こういう時というのは、数正のような立場を悪用して忠臣づらをして、家康に心証を得ようとしたがるものである。
 
「お前は徳川家のことを心配していない考えていない」のは自分達が時代遅れの戦国組織であることを認めずに忠臣づらをしている家臣らの方である。
 
もしこんな状況下で豊臣秀吉が各地の大名への移封の構想をしている話でもしようものなら「我々を家臣扱いは許せん」「お前は何もいい返さなかったのか」と騒いで数正に噛み付くだけで何も会話できない状態だったのではないか。
 
この時の徳川家康はどうだったか。
 
家康は家中の勢いに押されて同調するふりをしていたか、あるいは家中と一緒になっていたかのどちらかである。
 
知将であり冷静な石川数正にとってみれば、もはや家中が情勢と関係ないことで何の遠慮もせず数正に叱責するだけで、現状を真剣に話し合おうとせず何も譲歩しようとしない姿勢に数正もついにあきれたのではないか。
 
数正も、もし色々と話し合った結果として、改めて敵対派を鮮明にすることになるのなら、それもやむを得ないと考えていただろう。
 
どちらにしても、曖昧になっている徳川家の名目というものをしっかり鮮明にした上で、改めて姿勢を公表しなければならない。
 
むこう(豊臣)が国際的な名目を立てているのに、こちら(徳川)はただの領土争いの戦国的な名目以外に何ら国際的な名目が作れていないことを、数正は一番問題視していたと思われる。
 
その次元の違いを認めずに、徳川家の行く末の岐路に立たされているのにそれをうやむやにし続け、戦国的名目だけで戦闘を継続しようとしていた。
 
一方で「通用しそうにもない徳川側の主張」を秀吉にしてくるよういわれ、数正が渋々それを秀吉に伝えた場合はどうか。
 
恐らく秀吉は、数正がいいにくそうにその主張を釈明している姿をみて、怒るどころか家康の心情とそれに対する数正の苦労を悟っていたのではないか。
 
数正は双方の間にただ入らされているだけのやりきれない立場に、その内に秀吉の方が数正のその立場に同情的になっていたように思われる。
 
豊臣秀吉は石川数正が自身の家臣ではなかったからこそ、名高い数正を尊重し苦労を理解しようとしただけで、これは秀吉の人心工作以前の人間としての礼儀の話である。
 
この時の構図は、徳川家から見れば「数正は徳川家に不名誉な報告ばかりする」だが秀吉と数正からすれば「徳川家がまったく歩み寄ろうとしない」ことで一致していて2人はウンザリしていて、暗に意気が合っていたのではないか。
 
これは裏切りでもなんでもない。
 
数正の立場としては秀吉に好意をもつに決まっているし「自分は今まで徳川家のためにこんなに努力してきたのに、あれだけ自分のことを否定されてしまっては、自分の人生はいったいなんだったのだ」と思っても仕方のないことであろう。
 
そんなやりとりが繰り返される内に数正は、徳川の将としてのこれまでの地位や名声の全てを放り投げる決心がついてしまったのではないかと想像する。
 
そこで「石川数正の出奔劇」である。
 
限定された家族と人質だけを連れ、当面の問題の重要人物であった小笠原貞政を秀吉に引き渡すと、ここで数正は家族を秀吉に頼んで切腹を考えていたかも知れない。
 
もし数正がそう考えていたなら「徳川家のもとで家康のために切腹するくらいなら、豊臣家のもとで秀吉のために切腹した方が遥かに良い」という徳川家へのあてつけが多分にある。
 
しかし秀吉からすれば石川数正が切腹しなければならない理由などなく、ここで秀吉が自身のもとで切腹を認めてしまっては「秀吉が数正を徳川家の反逆者扱い」することになりかねない。
 
もうそのようなことがあったとしたら、これはむしろ秀吉も困った事態だっただろう。
 
石川数正の人生を破壊してしまったことを、本来は家康が反省しなければならない所を秀吉が責任を感じ、それに代わって報いようとしていたのではないか。
 
秀吉はこの時に小笠原貞政(秀政)を手に入れることができたことで、信濃の表向きの代表であった徳川方の小笠原貞慶を豊臣方に変えさせることができたため、そこから信濃問題は大きく前進した。

豊臣秀吉はこの時に、威厳を保つために家康を多少は挑発したかも知れない。
 
しかしあまりにも後味の悪すぎる結末に、この件に関しては秀吉も内心は暗くなっていたのではないだろうか。
 
秀吉は策士でずる賢く、残忍な所もあり、必要であれば人を蹴落とすことも平気でやり通すような人間だった。
 
ただしそれは、蹴落としても構わない、価値のない、人間性に問題の多い相手だと見なした場合の話である。
 
生まれが良くなく、厳しい競争を勝ち抜いてきた秀吉から見れば、今まで多く見てきたずるくて浅ましく図々しい人間とは全然違う、生真面目で優れた石川数正を尊重していたのではないか。
 
秀吉の工作に釣られただけの単純な事件であれば、秀吉は用が済めば「主人を平気で裏切るような価値のない者だ」と、切腹どころか斬首や磔刑にして見せしめにしていた可能性すらある。
 
この事件はつまり「小牧長久手の戦い」の後始末としての信濃問題を、豊臣秀吉も徳川家康も片付けることができず、その重すぎる後始末を石川数正が代償することになった事件だったと、筆者は予想するのである。
 
出奔事件が起きてから、数正をまったくかばおうとしなかった家康も、ここでようやく少しは反省しただろう。
 
信濃の小笠原貞慶が豊臣側になってしまったことで信濃介入の名目が危うくなった家康は、ここでやっと事態の深刻さを認識するようになり、渋々だったがようやく譲歩し始める。
 
もしこの出奔事件で「人質の小笠原貞政を失う前に」秀吉との交渉に向き合っていれば、もっと条件の良い交渉ができたと家康は内心では後悔しただろう。
 
しかしこの事態に家臣たちはとにかく怒り憤慨し「数正のような裏切りは絶対に許さない」悪い見本の雰囲気が早々に作られ、三河武士の恥と罵った。
 
家康は内心では数正のことを許していたかも知れないが、忠臣づらをしていた家臣達の中では絶対に許せることではなかった。
 
出奔事件の数年後、小田原攻めが行われることになった時に家康は、徳川の関東移封のことをあるいは数正の一件で既に認知していて、しかし家臣が動揺しないようそれは黙っていて、当日にわざと憤慨するふりをしていたのではないか。
 
小牧長久手の戦いで徳川家康が、自身の権威を主張するためにごねておくこと自体は決して間違いではなく、それは重要なことだった。
 
ただし徳川側のその引き際がうまくいかず、それを石川数正が犠牲となって制御したような形である。
 
家康が強気でいられたのは、自身が三河、遠江、駿河、甲斐、信濃南部の5カ国の支配者の地位を確立できていたことに加え、関東の最有力の北条氏との友好関係が背後にあったのは大きかった。
 
しかし豊臣秀吉が満を持して小田原攻めがいよいよ行われる時期には、北条氏も豊臣氏から見れば結局は「張子の虎」だった権威の差の現実を、誰しもが見せ付けられていたと思われる。
 
家康の秀吉に対する、建前の抵抗は小牧長久手の戦いまでで十分だった。
 
あのままろくに名目も確立せずに反抗し続けていたら、いくらその場の戦局だけ優位に進められても後々には北条氏と同じ運命になる所だったと、小田原攻めが行われる時には、少なくとも当主の家康は当時を振り返ることができていたのではないか。
 
そして戦国的な名目だけでなく、国際的な名目を立てていかなければならない時代になったことを徳川氏は、結局は豊臣氏から学んだのではないか。
 
家康が関東に移った後、新たな領地がかつての支配地と隣接していていた例えば甲斐は、豊臣氏との縁の強い浅野氏の支配となる。
 
このように、かつての徳川の旧領の支配権を家康が主張することを諦めさせることを意識した、秀吉の譜代が積極的に配置されている。
 
その後の石川数正は、徳川家との復縁を摸索していたかも知れないが、どちらにしてもはや修復不能だったと思われる。
 
数正の子の石川康長の代の時には、関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し、徳川の家臣たちと戦場で再会しているが、かなり冷め切った関係だったと思われる。
 
石川康長はのちの大久保長安事件に連座して厳しい取り調べを受け改易されてしまうが、この数正の家系が救済されることはなかった。
 
石川数正の家系の石川家に対する徳川家臣からの風当たりは、関ヶ原の戦いの後も相当のものだった。
 
現在残されている康長の悪評も、たまたま威張っていた代官の話を康長本人のことに無理やり繋げたり、ちょっとした失態を誇張したのかも知れない。
 
筆者はこれは「石川数正が徳川家を裏切った」のではなく「徳川家中が石川数正を裏切った」ことを認めるわけにいかなかった処置ではないかと思っている。
 
徳川家にとってはあまりにも格好が悪く気まずい記録であり、数正に対してあれだけ騒いで忠臣づらしていた手前、もう引っ込みがつかなくなっていたのだろう。
 
それにしてもその時の石川家への改易の時の処置はあまりにも厳しすぎる。
 
もしその時に数正が「徳川家へのあてつけで豊臣秀吉のもとで切腹しようとしていた」なら、徳川家康の性格からしてそれが一番激怒させる行為である。
 
石川数正ほどの者なら、そのくらいの気概はもち合わせていても何ら不思議ではない。
 
もしそうであったなら、なかなかそんなことができる時代でなかった石川数正のその気迫に、筆者は賞賛したいと思うのである。
 
今後この新事実の手がかりになる文献や解釈が発見されるかも知れず、それが筆者の考えと全く違う場合も踏まえて、これを小説と位置付けておいた。
 
(続く)