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後で一斉に全体を見直し分量集約予定。
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はじめに

 
※この記事は書きかけのため、後で書き直される場合もあり
 
当著では、江戸時代がまずどういう時代であったかを整理することが主目的となっている。
 
そこをまとめるために、江戸時代だけでなく、なぜそうなっていったのかを整理するために、その前時代に何があったのかにも多く触れている。
 
当著では、これまで過小評価されてきたのではないかと思える部分を前面にして、過大評価され過ぎていたのではないかと思える部分にはあまり触れないようにした、ちょっとした新解釈的なものになっている。
 
江戸時代は、前半と後半では社会感覚にかなり違いが出てくる時代である。
 
しかし当時の体制や社会風潮の一つ一つが、どうしてそうなっていったのかという前後関係を通して説明されることがあまりにも少な過ぎるように思ったため、筆者が掴めている江戸時代の前後関係を並べたまとめの記事もあった方が良いと思い、試しに書いてみたかった。
 
 
- 江戸前史・室町時代の高度成長と崩壊 - 2019/04/23

近世(江戸時代)の前史である、日本での本格的な貨幣経済の始まりの歴史から触れておきたい。
 
日本での貨幣の歴史としては、貨幣が庶民に浸透し、庶民も貨幣に強い関心をもつようになった通貨流通経済が始まったのは室町時代の15世紀初頭あたりからである。
 
それ以前にも貨幣は認識はされていたが流通量は極小で、限られた者たちのものだった。
 
貨幣経済が世間一般的に広く浸透するようになったのは、室町三代将軍の足利義満の頃に、いったんの安定期を迎えたことがきっかけとなった。
 
後醍醐天皇の建武親政が発端となった南北朝闘争時代を経て、再び武家政治に改められ、室町幕府と皇室の交渉努力も実って皇室闘争の和解も進むと、その後も政乱はしばらく続くもいったん国内は落ち着きを取り戻し、農商業の発達が顕著な時代を迎える。(後述)
 
日本は15世紀に入っても、貨幣鋳造の事情は、何かを記念して鋳造されることはあっても規模は小さく、庶民にまで貨幣が流通するほどの体制も、両替の体制もできていなかった。
 
政権の地位を確実なものとした三代将軍の足利義満は、それまで国内争乱に追われてすっかり途絶していた中国との交流(貿易)を再開した。
 
この時に中国製の銅銭(永楽銭、永楽通宝)を膨大に輸入したことがきっかけで、貴族から庶民にまで、貨幣が広く流通することになった。
 
当時の中国と日本は、力関係に差がありすぎて、外交上は日本は従属国扱いで、貿易の条件も散々足元を見られる関係であった。
 
当時の中国は、アジアはもとよりユーラシア全土から見ても、その高度な政治力と軍事力はどこも遠く及ばず、世界の頂点といえるほどの文明先進国だった。
 
今の日本国王が誰であるか「中国からも公認されている(国印を授けられる)」ことが重要だったほどで、ただしその力関係は外交上(貿易上)だけの話で、中国は「海の向こう側」の日本の国政に干渉していた訳ではなかった。
 
この時の中国との交易によって、経済成長が著しかった室町政権を大いに支え、人々も富を謳歌する時代を体験した。
 
特に貨幣の影響は、例えればヨーロッパで時計が発明された時に急に時間基準社会に早代わりさせたように、庶民を一瞬にして貨幣基準社会に早代わりさせることになった。
 
それまで日本は、国内は為替の範囲も限られていて、商業は物々交換が中心で、製塩、製鉄、製紙などは分業はされていたが、自給自足に依存した産業もまだまだ多かった。
 
※どんな先進国でも外国貿易においては19世紀初頭までは、見合う価値を商談しながらの物々交換が基本だったため、物々交換=非文明的とは言い切れない。
 
分業と物流が発達し、庶民にも貨幣が広く浸透していくと、なんでもかんでも貨幣価値で換算する社会に早代わりして、為替も多く流通するようなった。
 
当時の様子は、各地の寺院が連絡をとりあっていた当時の書状の中で「貨幣の浸透が、非常に便利な世の中に変えてくれたのと同時に、貨幣が全てであるかのような世の中にすっかり変貌してしまった」ことの驚きの様子が、記述から伝えられている。
 
中国との交流は貨幣の導入の他、新たな製鉄や水利の技術も積極的に導入され、農具が強化されたことで耕作力も広がるようになると、中国からもたらされた品種の綿や菜種(アブラナ・採油用の植物)なども栽培されるようになり、そうした換金作物産業を専業にする者も現れ始めた。
 
それまでは庶民の衣料といえば麻が中心のゴワゴワした粗末なものが主流だったのが、綿の供給が広がったことで庶民の衣料事情も改善され、また菜種の生産が広く行われるようになったことで、それも庶民の生活をかなり助けたようである。
 
菜種の油は、食品としても燃料としても使え、そのしぼりカスも畑の肥料に恐らく使えたため、菜種の広まりは当時の庶民の生活を大いに支えたと思われる。
 
室町の強力な支配者として地位を確立させた足利義満の時代は、大規模な高度経済成長を日本人が始めて体験した時代だった。
 
農業の発達によって、作物の種類を増やしたり副産業にも手が回るような余裕も出てくると、これまでの「生きるための食事」も、使われる食材やその味付けも豊富になってきて、民間でもちょっとした食事の豊かさを楽しむ余裕も出てくるようになった。
 
取引所が各地で増え、時間も貨幣換算するようになったことで証文による信用貸しをする業者も現れ、それを支度金に新産業を興す者も現れた。
 
これまでは力をもった公卿(貴族)や上級武士や寺院などに対する労役義務の専門だった、大工や織物業者、工芸や家財道具などの職人らも、貨幣が浸透したことでその産業は庶民にも向けられるようになっていった。
 
人口が増え生活品の生産力も高まり、運送業が不可欠になってくると、馬借(ばしゃく)という大規模な運送専門の物流業者団体が出現し、街道(都市と都市を結ぶ道路)の交通も盛んになると、街道の間に新たな宿場が盛んに作られ、小都市化、小商業地していくなどした。
 
しかしこうした経済成長は、全ての庶民が平等に豊かになる訳ではなく、地域によってはいまだに古い慣習で地縛させられていた小作人もまだまだ多く、格差も広がるようになっていった。
 
貨幣が浸透し、物価も労働基準も大きく変貌していた一方で、地代の権利を得ていた名主たちは、何十年も前の古い価値基準の頃の納税の未払い分をただ利息漬けで縛り付けているだけの借金の証文をいつまでも振りかざし、小作人や下男(人身売買の奴隷に等しかった)に主従隷属を強要し続けていた。
 
支配者層は、既に時代遅れの支配体制であることは解っていても、労働力に逃げられないよう、力をつけられないよう、いつまでも過去の支配権を強要することに躍起になり、古い理屈を押し付け続けたため、最下層は反感を抱くようになっていった。
 
高度経済成長の急激な速度に対し、室町幕府は納税や労役義務や補償制度などの法の整備が全くおいつかなくなっていった。
 
そうした問題は、個人の単位だけでなく村の単位でも、地域が確立した産業の権利を不当に横取りされたり妨害されたりすることがないように、自治団体の結成を促進させることになった。
 
※総と惣の字の違いは、総は境界的な形容で、惣は人的代表の形容
 
室町政権によって公家権力(宗教権力)が大きく押さえ込まれ、ただでさえ崩れがちであった荘園権力(宗教・教義権力)は、経済価値が一変したことでますます崩れていき、もはや政府の庇護に頼ることもできなくなっていた各地の寺社も、新たな経済社会との共存(あるべき姿)が摸索されるようになった。
 
かつては宗教の権威(各宗派の聖属の頂点である総本山の権威と、それら強い繋がりをもっていた朝廷の権威)に従い、有徳層(うとく・寺社を支えていた武家や富豪庶民などの世俗層)らが支えるという、その古い体制時代はもはや終焉し、宗教の世界も新たな局面を迎えた時代だった。
 
「統制のために宗教の権威の言いなりになる」という過去の宗教は、室町(足利氏)の政教整理によって終止符が打たれ、これからは、これまで宗教を支えていた各地の世俗層(有徳層)も、地域ごとの現世利益の保護救済の法の名目がより重視される、その移行期となった。
 
だからこそ宗教論争も激化するようになり、急激に変貌してしまった経済社会に合った教義が摸索され、どこまでが現世権益の法の保護で、どこまでが人的信用指導なのか、何をもって腐敗や堕落なのか、その範囲を巡る宗派ごとの内部分裂と、信徒を巡る布教合戦も顕著になっていった。
 
室町時代の急激な経済成長は、同時に飢饉が起きるたびに、保障問題のあるべき姿が強く求められ、惣国一揆の下地が同時に作られていった。
 
この時代はいくら好景気になって人々が豊かになっていっても、戦乱や水不足や天候不良といった不安とは常に隣り合わせで、経済発達と人口増加が著しいほど、水不足や食糧不足(飢饉)が起きた時の被害も甚大なものになり、そういう時にこそ過去の古い習慣が非難されるようになり、保証問題が強く訴えられた。
 
飢饉がある地域とない地域とで、庶民間でも取引の優劣格差を生じさせるようになり、順調だった地域が急に貧窮して例年通りの支払いが停滞し始めると、納税ばかり要求する権力者に、その代替義務である保護を人々はより強く求めるようになったのである。
 
その運動は、それぞれの地域の産業の権利を守るため、地元の寺社の代弁が大いに用いられて同業者団体が結成されていき、一方の好景気の「銭さえあれば」という考えの蔓延が、階級社会の階段を無視し始める異変も起き始め、庶民が権力者に条件を突きつけるのも当たり前になっていった。
 
室町幕府の名目は、再燃しつつあった院政(皇室)と荘園(貴族宗教的)の力を再び押さえ込み、武家政治の管領・守護・郡代・地頭制による新たな中央裁判権(上級裁判系・行政権)と地方裁判権(低級裁判権・徴税権)を整備する過渡期だったが、急激な経済の発達に追いつかなくなり、座や惣村(同業者自治権団体)の台頭を抑えきれなくなっていった。
 
庶民は、武力で押さえ込もうとする支配者層に抵抗するための自治武力集団を当然のように結成し、それが支配者の従事層士分と結束するようになった「地侍」の台頭を許し、こうして庶民も自治利権を守るようになった一方で、閉鎖感もかなり強めていくことになった。
 
戦国時代の下地である、こうした悪党的(自由化運動的)な惣国一揆の機運は、室町の高度成長と同時に強まっていき、それが年々顕著になっていった。
 
その300年後の江戸時代中期でさえ、経済成長にともなう法の整備に苦労しているのに、日本が始めて体験することになった室町時代の急激かつ大規模な高度成長に合った法の整備に、すぐに対処できる訳がなかった。(誰もこの事態を予測できなくて当然だった)
 
次第に山城(京都府)近江(滋賀県)大和(奈良県)といった経済の要衝で一揆が頻発するようになると、室町政権の権力基盤と財政は著しく崩れていった。
 
日本史上でも大規模の部類に入る「正長の土一揆(しょうちょうつちいっき・どいっき)」は、度々の飢饉で膨れ上がる庶民の借金の取り消しを訴えた代表的な一揆だった。
 
庶民は飢饉が起きるたびに「徳政一揆」と称して蔵役(御料局・政局金庫・役所)に殺到し、ほとんど暴力任せで証文を奪って破り捨てるようになり、それが激化すると蔵をまるごと焼き払ったりして訴えをのませるなど、乱暴なやり方が常習化していった。
 
室町幕府はそのたびに容認せざるを得なくなっていき、これが現代では「徳政令」として伝わっているが、その実態は「徳政」でもなんでもない「悪政令」である。
 
このような場合は本来は、一方的に得をする者と一方的に損をする者が出てこないように代替権を整備するのが幕府としての義務であったが、しかしどうにも対応できなかった室町幕府はこの「徳政」とやらを容認し続けていったことで、蔵役(国家銀行)の信用失墜は著しくなり、まず幕府財政に甚大な支障を及ぼした。
 
普段通りに品々を納品していた各地の商工団体は、この「徳政」とやらが起きるたびに売掛金が回収できなくなり、直接問題があったわけでもない地主までが徴税不能に陥ったことで地方でも税制(裁判権による支配体制)が崩れていき、「徳政」とやらのせいで不条理に大損をさせられた者たちによる室町政府に対する不信が蔓延した。
 
高度成長の量産物流体制の発達は、それに不可欠になってくる為替や両替の信用取引も同時に発達していくことを意味するが、その矢先のこうした不祥事の頻発は、それだけ流通経済全体の信用にも深刻な大打撃を与えることになった。
 
徳政の常習化はそのまま「飢饉になったら徳政一揆を起こして要求をのませればよい」という、いい変えれば「飢饉さえ起きれば何でも許される」という安直な悪習化に向かい、政府から庶民まで債務責任に非常にいい加減な向き合い方にさせ、信用経済を著しく乱す深刻な原因にした。
 
どうにもならなかった幕府は「借金の額面の1割を幕府に納入すれば、借金を帳消しに権利を与える、取り立てる権利を与える」布令を出すありさまで、問題の本質から外れすぎている何の政治理念もないその安直な思いつきに、人々もいよいよあきれた。
 
もはやこの時点で室町幕府の行政権(最上級裁判権)による支配体制(等族統制)の名目は完全に崩壊していたといっても過言ではなく、応仁の乱に至るだいぶ前から「徳政一揆」とやらが頻発していた時点で、室町幕府はとうに教義崩壊していたのである。
 
この徳政一揆は、古い慣習で不条理に隷属させられ続けた小作人らがこれに便乗して集結し、ドサクサに証文を焼き払うことで隷属から逃れようした点では意義は大きかったが、法の整備の名目(十分な惣代)もろくに立てられずに発散的に身勝手に行われていったため、当然のこととして社会信用を不健全化させ、人々が疑い合う閉鎖的な世の中に早代わりさせた。
 
幕府が徳政一揆をろくに鎮圧できなかったのは、これまでの支配教義の象徴だった寺社が、いよいよ世俗保護教義の象徴と化したことで、各地域の寺社の貧民救済の名目が今まで以上に重視されて介入するようになったことで、簡単に鎮圧できなくなっていたのだと思われる。(詳細を後述)
 
宗教の世界は、これまでの全体主義的な聖属支配が急になくなり、悪党的(民権的)な教義聖属に変わってしまったために、幕府の権威が失墜するほど、有徳層(寺社を支えていた武家や、富裕の商人団や、惣村の財産を管理していた惣代たち)も地域の都合以外のことは何を基準にしていいのか解らない状況に陥っていたと思われる。
 
室町幕府が偉大だった点は、かつて争乱があるごとに聖俗に頼ってばかりいたことが、かえって収拾を困難にしがちであったために「各地の寺社勢力と朝廷との強い結び付きによる権威」をより削減し、聖属支配社会の名目を弱体化させ、聖属介入の乱世にいったんの終止符を打ち、以後は世俗支配(武家支配)を争点とする名目社会に大きく移行させた意義が、過小評価されがちである。(政教整理)
 
しかしその新体制も、経済の急激な発達に次々と起きる問題に法の整備が間に合わず、幕府もだんだんその保証義務が果たせなくなってくると、幕府の権威は著しく失墜していくことになった。
 
室町幕府の存在は、政教整理の点で重要な役割を果たすことになったが、そうなったからこそ新たな課題が次々と浮上し、結果的に対処しきれなかった、難しい時代だった。
 
その悪化の一途から迎えた八代将軍の足利義政(三代将軍の足利義満の孫)の時代は、問題が山積していた混迷期の真っ只中だった。
 
この頃には支配者(管領や守護)の従事層にあたる中下級の士分と庶民は「政府権力者に関われば関わるほど、ただ負担されられるだけで何の代替権も保証されず、大損させられる一方だから、我々が認めても良いと思える、頼りになる人間だけを信用するようにしよう」という閉鎖的な風潮がすっかり強まっていた。
 
従事層はその名目を得るために、各地の寺社の名目を大いに活用した。
 
年々の経済成長の発達と共に、度々起きる飢饉の一揆の勢いも激しさを増す一方で、その庶民の機運に押されるように士分階級社会も、良い意味では実力主義に、悪い意味では勢力争いの治安の乱れと交流の閉鎖化という教義崩壊(良くいえば時代に合わない古い規則の破壊)を助長していった。
 
従事層は上を無視するようにその時の利害で地侍(半農半士的な自治集団)と勝手に結び付いたり勝手に敵対したりして暴走しがちで、宗教の世界も常にその世俗事情に振り回されがちだった。
 
この頃の宗教は、目先の都合の名目を欲しがるばかりの世俗が「地域の寺社を世俗(有徳層)が支えている」という既成事実ばかり強調し、教義統制の全責任を過剰に寺院に押し付けるのみで、そこに協道的でなかった世俗側の努力不足の矛盾が、寺院の教義の建て直しを困難にしていた。
 
その矛盾についにあきれた聖属側は「自分たちの身を守るためのものでもある地域振興(宗教)を、目先の名目欲しさしか大事にせず、教義の全責任を聖属にただ押し付けるのみで、そこに向き合う実態がいい加減だから身を滅ぼすのだ」と世俗に、法にもっと関心を向けるよう強く訴えるようになった。
 
いわば顕密体制のやり直しの再整理のような主張がそれぞれの地域、それぞれの宗派で顕著になり、その中でも最も力強く寺院の建て直しを図った代表格が、信徒も多かった浄土真宗の本願寺であった。(後述)
 
これがのちの、強力な一向一揆の運動へ向かい、寺領と聖属のあり方を巡って戦国大名を恐れもせず堂々と敵対し、散々の火花を散らすことになるが、こうした宗教の機運は浄土真宗に限らずどの宗派でも、応仁の乱が起きる前から、その傾向が既に強く現れていた。
 
信用(名目)の乏しい名ばかりの室町幕府は、その行政権(上級裁判権)を振りかざすだけでは抑えきれなくなっていき、身分統制の境界も、地域の宗教勢力(有徳層)と強く結び付くようになったその悪党的な実力支持主義に押されがちで崩れやすく、下克上の風潮を強めていくことになった。(上級裁判権と低級裁判権については、詳細を後述)
 
足利義政の時に起きた「応仁の乱」は、そうした下層(従事層)の閉鎖的な利害闘争と、上層(管領や守護)同士の蹴落とし合いの、各人のメチャクチャな利害の結び付きから発展した、目先の支持の獲得をもくろむばかりの無計画(名目不足)なものであったため、それぞれ一貫した政治的な名目はついに見出されることがなく、乱れに乱れた。
 
「徳政一揆」が、自治区に都合の悪い証文は焼き払えばそれで良いとするいい加減で浅ましい実態だったように、下層のその閉鎖的な単純根性がそのまま上層に逆流したに等しい「応仁の乱」は世の中全体を極めていい加減な債務責任(等族義務の名目不足)に変えていった。
 
結局「応仁の乱」の名目は、それぞれが理由をこじつけしていただけで、その実態は誰しもがどうにもならない社会制度不足の怒りの矛先を向け合うのみで、この戦いによって「あるべき指導者」が出現することを期待はされたが、結果的にその存在を見出すには至らなかった。
 
この戦いは結果的には、地方と中央との権力機構をいったん崩壊させて(切り離して)おいて、惣国一揆の名目を表面化させ、そこから支配者のあるべき姿を摸索して今一度、地方の代表ごとによる行政権力の再構築のための「戦国時代」に突入させるための通過儀礼だったという見方ができる。
 
京(京都)で戦火が続き、政局都市としての機能が完全に崩壊すると、それまで京と東日本の商業を結んでいた流通経済の要衝(重要拠点)のひとつであった大津(近江・滋賀県)の有力商人団体もこの事態に困り果て、中央の復興が全く期待できない彼らも、新たな自立自営の再生を目指すことになった。
 
応仁の乱以降、16世紀に入ると戦国時代の争乱も次第に地方ごとの法の整備(分国法)によって行政権力が少しずつ再建され、乱れながも各地の経済復興も目立つようになる。
 
乱れながらも地域政治の整備も進んでいくと悪党的な闘争もいくらか落ち着いていき、近江(滋賀)の実力者の六角氏(佐々木源氏)は再び力を取り戻すと、六角氏の楽市令によって近江商業が整備されたのをきっかけに、経済復興も活力が見られるようになる。
 
楽市令で近江の経済復興の機運が高まると、各地でも同じように物流が復興し始めるが、この頃になると地域権力の台頭による閉鎖社会化と絡んで、貨幣の破損と貨幣不足が深刻化するようになっていた。
 
室町前期に中国から導入されて以来の銅銭は何も手入れされないまま、応仁の乱を経たその後も長らく使われ続けていたため、さすがに貨幣に著しい欠損も目立つようになっていた。
 
物流経済が立て直され、経済がより発達して、以前よりも多くの貨幣が求められた矢先に貨幣不足が深刻化し、流通経済に支障をきたすようになっていた。
 
貨幣経済が浸透してから150年後(応仁の乱から100年後)に織田信長という強力な戦国大名が出現するまで、この貨幣問題の解決のきっかけとなる強力な支配者は出現せず、それまでは誰かが何らかの仮対策でこの問題を凌ぐしかなかった。
 
どこでも困り果てていたこの問題は、各地の商人から懇願された大津商人(近江・滋賀県の商人団体)が、貨幣不足を解消するために、仕方なく貨幣を鋳造するようになった。
 
当時の日本は、造幣と両替の体制の歴史が浅く(応仁の乱から300年後の江戸時代中期ですらその対処に苦労している)、何の体験もない近江商人が仕方なく貨幣を鋳造した結果、これまで使われていた貨幣と比べると、形から刻印からやはり品質が悪いと見なされ、その新鋳貨幣の価値は常に不安定だった。
 
これによって貨幣不足はいったん解消されたが、この新鋳貨幣は従来の永楽通宝と散々比較されてビタ銭(鐚銭・ビタセン)と呼ばれ、価値の低い貨幣と見なされながら流通していった。
 
これは従来の永楽通宝の価値を高めることになってしまい、そちらを保持しておきたい有力商人らはこのビタ銭の押し付け合いになりがちで、地元意識の閉鎖感が強まっていた当時の社会風潮がこのビタ銭の存在によって力関係の格差を助長し、流通経済を阻害する原因にしていた。
 
また永楽通宝であっても破損した場合の価値は定まっておらず、それを許容できるほどの両替の体制がどこにもなかった当時はその価値を巡って押し付け合われがちで、この貨幣問題は当時の人々にとって甚大な苦痛になっていた。
 
応仁の乱以降、80年ほど戦国時代が経過した 1540 年頃には、それぞれ各地で分国法が整備されていき、この頃には郡代(今でいう市ほどの範囲)や守護代(今でいう県ほどの範囲)といった単位の争いは収拾に向かい、地方ごとで団結した明確な戦国大名が台頭するようなっていたが、時代は新たな段階の、地方の代表同士の総力戦の戦国後期に移行しつつあった。
 
その次世代で、軍政両面のその総力戦体制のための再整備を最も進め、群を抜いて強力な戦国大名として台頭したのが織田信長で、信長が各地の商業権や鉱山権を掌握するようになると、この貨幣問題もやっと対策されるようになった。
 
信長は「こういう破損はいくらの価値で、またビタ銭の場合は何枚分で永楽通宝1枚分の価値」と細かく規定を整備し、その規定通りに織田氏が正銀や穀物などの物品といつでも交換(両替)すると保証した。
 
実際にその規定で交換(両替)してもらった者が現れると、人々の間でそれが大評判になった。
 
これは長らく庶民の苦痛になっていたこの深刻な貨幣問題を、信長の登場によってようやく向き合われるようになった一例である。
 
この時は結果的には、すぐには貨幣問題は解決できなかったものの、しかし織田信長のこの姿勢に民間は「やっとこの問題に取り組む支配者が現れて、ようやく時代も変わってきた」と思わせるだけでも十分な効果があった。
 
織田信長は恐怖政治ばかり行っていたような印象が強い一方で、庶民の様々な苦痛に関心を向け、その保証に熱心な姿勢も見せていたため、仕打ちがいくら厳しくて不満があったとしても、やるべきことにも向き合う織田氏に対し、庶民は納得のいく所もかなり多かったのである。(後述)
 
この貨幣問題にまず織田信長がその対策に乗り出し、ビタ銭は少しずつ回収されながら豊臣時代には本格的な造幣局が作られるようになり、徳川時代に再び経済成長期を迎えると、より貨幣のあり方に向き合われていった。
 
戦国時代はよく「関ヶ原の戦いを以(も)って、戦国時代は終わった」というような言い方がされるが、長期にわたった戦国時代の社会風潮は、徳川氏が豊臣氏を滅ぼして江戸時代に入った直後も抜けることが容易ではなく、その風潮が原因の騒動もいくらか起きるほど根強いものがあった。
 
日本の主導権の大局が徳川氏に決したのは関ヶ原の戦いだったが、戦国の風潮を弱めて終焉に向かわせた総仕上げは「大坂の戦い(大坂夏の陣)」だったと見るべきだろう。
 
関ヶ原の戦いは、かつての応仁の乱のやり直しともいうべき戦いで、今一度、政権のあり方を訴え合った明確な名目のもとで戦われ、その名目の差が実力の差となって大きく現れた戦いだった。
 
これは日本の政権の今後の主導権を、豊臣なのか徳川なのか、後で誰にも文句を言わせないために各地の有力者らに、どちらを支持するかの選挙権をそれぞれもたせて迫った、強制参加型の総選挙ともいうべき、真にやるべき、あるべき戦いに結果的にできていた貴重な戦いである。
 
これは強制参加だったため、渋々参加の者と熱意参加の者との温度差が激しく、大半が消極的であったことが特徴的である。
 
表向きだけでも徳川支持を表明し、徳川氏に反抗的な態度を見せなかった有力者(大名)は、この戦いで大した功績を立てていなくても戦後は特に追求されることはなく地位が保証された。
 
また徳川氏にしっかりと義理立てした上で西軍についた者も多く、戦後にはそれらは寛大な処置を受けた者が多かった。
 
しかし徳川氏に何の義理立てもせずに態度を曖昧にし続けた者は豊臣支持と見なされ、その多くは戦後に減封や改易(領地や特権の剥奪)などの厳しい処置が下された。
 
徳川氏に失脚させられて行き場を失った西軍諸氏の中には、東軍参加で保証や加増を受けた縁者に頼った者も多かった。
 
徳川氏から領地や特権を剥奪された不満をあらわにして、その後は豊臣氏の本拠大坂に集結して反抗的になった者も多くおり、頼る縁もなく行き場を失っていったんは帰農した者の中にも、その機運に便乗して再興の機会を求めて大坂に集結する者も多くいた。
 
この問題は外交での解決が試みられたが決裂し「大した名目もなく反対者の利害だけで結託して公的政権に反抗しようとすることはもはや許されない、戦国前期で通用していたような甘い考えはもはや通用しない」ことを、実力の差を見せつけるために行われたのが「大坂の戦い」であった。
 
こうして、戦争のない新たな繁栄期である江戸時代を迎え、やがて江戸中期の元禄から享保あたりまでの高度経済成長期を経て、江戸後期では様々な諸問題に苦労する時代に移行する。