常々人を信用していない。
近しい人間には全くそんなことないのだが、今後会うことがないだろう人に信頼を置くことができない。コンビニに行く時などは、財布からわざわざ金を引き抜き、それをポケットにしまい、そのまま会計に行き、身分証云々の入っている財布はカバンの奥底に入れるようにしているし、チャチなアンケートを取らんとするくだらない街頭に立っては通行人にストーキング行為をする営業マンなんかには、狂人のふりをして接している。
ポケットティッシュなんかは貰う気にもなれない。そんなもの使うんだから貰えばいいというのは、甚だ愚問である。こちとら年がら年中くしゃみに苛まれているというのに、今更小さいカサカサの、かむだけで鼻先が真っ赤になるちり紙などいるわけがないのだ。もう既に家には何層にも重なった、トイレットペーパーでいうところのダブルロール的なそれになっているティッシュがあるというのにそれを差し置いてまで、たかだか知らない人間のノルマのために、3回も鼻をかめば無くなる、吸水性もへったくれもないようなものを受け取る気にはならない。
そういう生活態度というか、人生における向き合い方のせいで、周りを敵と見なしすぎるあまり、自分のことがほとほと嫌いである。なんというか、ここまで醜い人間というのは、そうそう現れないように思う。形容するのも難しいが、本当に見ていられないのだ。そもそもこのようにして自分に自信がないのも、人を信じないというのも、それを、わざわざこんなところに記すのも、全て気色の悪い行為である。結論としては、とにかく自信が無い。皆さんの寛容にして立派な頭で考えてみてほしい。底無しの自信無き大男。不気味で、どんな傀儡だ?という体たらくの見た目。こんなもの、気色が悪い他になんと形容しようか。
元を辿ってしまえば、自分に対する世の中の、希薄で蔑するような、そんな視線や目線が悪いのだ。あまたの論説で、好きに生きるがよろしいと書くくせに、多少好きに生きてみれば、みるみるうちに体は肥えて、デブだのバカだのと言われ、誰も彼もが誰も彼もに説かないから分からない服装のセンスを、小言だけはここぞとばかり発してくる始末で、挙句の果てにはまず否定から始まるじゃないか。そのくせ否定から入る人間は人望がない!などと痴呆風説を撒き散らし、ことごとくナードな人種を世相から乖離させ歪ませているではないか。そんな荒波を慣れない体勢で乗りこなした我々のような者には、もう少し優しさというものを持って接するべきである。自信が無いくせに、自信が無くては生きていけない業種を選ぶ大男が爆誕するのも、言ってしまえば世相のせいである。自分の歌詞?メロディ?人が聴くわけないでしょう。顔面偏差値至上主義の濁流が轟々と音を立てる昨今では、醜形恐怖症であったり、内気極まりない者たち、後者はつまり自分のことだが、顔なんてのは出せないのである。出したって伸びず、出しても伸びないのなら出すべきであるが、もう意味などないのである。顔を出さずに活動するアーティストが増えだしたのは、きっとそういうふざけた世間のせいだと、自分は捉えている。
自分の仕事の行く末などお先真っ暗だ、と、常に思っているので、現実に戻りたくない気持ちが先行し、気付けば本を読み漁り、映画に浸り、音楽で外の音を遮断するようになった。窓の外から馴れ馴れしく侵入してくる女子高生の甲高い笑い声や、世界の汚れを知らない無邪気な小学生たちの話し声は、空蝉に等しい。全てが中途半端で、生半可な命を燃やしているこの体には、少し棘棘しく刺さって、そう簡単には抜けない。抜こうとすれば、幼少期の明るい笑い声や、砂場でトンネル開通をしたあの日や、犬に懐かれて電車に乗り遅れたあの日を思い出して、より一層虚無感に襲われてしまう。結局のところ、自分は受け身である。作ることには全く向いておらず、才能もなく、努力もせず、毎日こんな時間まで起きては駄文を書き散らし、頼まれてもいないのに勝手に落ち込んで、バカ丸出しである。このような状態を周りは見透かして罵倒してきたのだろうか。ならば辻褄は合う。もう、読んで聴いて観るだけの生活を、続ける他はないのだろうか。術はあると信じたいが、もう、努力も才能だと刷り込んでしまった哀れな頭では、思考をチェンジすることが出来ない。営業マンの住宅勧誘にはあんなに思考をチェンジ出来るというのに。哀れなまま生きていきたくはないが、もう今更どう変えるのかも分からない。一人の時間を乗りこなせない。いんそむにあ。