芽吹いた命から | 「ありのまま」でいいんじゃない

芽吹いた命から

 

朝、パソコンに向かい窓の外を眺めると子育て真っ最中の燕が飛びかっている。人が80年生きたとすると、その人が何らかの接点を持つ人の数は3万人程度と言われているが、そのうちの一人、娘の子と出会う。

 

娘が身近で産んだ子どもとなると感慨深いものが生まれるのはどうしてなんだろう。歳を重ねたことも一因としてあるが、それだけではない気はする。芽吹いた命には心を透き通るように真っさらにしてくれる不思議な力がある。

 

生まれてきたときの娘と孫の今とを重ね合わせられるほど、記憶を辿ることはできないが、娘の生まれるその日の朝陽だけは今でも鮮明に覚えている。娘のそのときと同じような感性を持ち合わせていることだけはわかる。芽吹いた命は過去の感慨を蘇らせてくれる。

 

「会うは別れの始め」という諺がある。仏教のお経にある「会者定離」(えしゃじょうり)という言葉から生まれ、人生の無常を表した人生言葉だそうだ。「出会ってもう別れかよ」と突っ込まれそうだが、人生で起こり続ける日常的な現象。綺麗な花が咲いてもいずれ花びらは散る。形あるものも朽ち果て地に帰る。今ある心地よさも消え去っていく。

 

出会いを最も深く認識させられることに「生き」「死に」がある。出会いがあれば、必ず別れがあると言葉で解ってはいても、その現実を受け入れ、きっちり受け止められるかと言えば、そんな容易いことではない。人は無常に対して一旦は無力に陥る。誰もが心に深く刻まれるような出会いや別れに一喜一憂する。

 

「いってきます」「いってらっしゃい」と日々交わされる別れの言葉には「行って戻ってきます」「行って戻ってらっしゃい」という意味が込められているそうだ。「あなたの心に戻ってきます」「私の心に戻ってらっしゃい」と心を付け加えればどうなるだろう。「私の心」と「あなたの心」がかたく結ばれていくような気がするのは私だけだろうか。

 

芽吹いた命からいただきものがありました。