矛盾は調和の中において生かされる
「調和の中にはあらゆる矛盾が含まれている。そして、矛盾は調和の中において生かされる」意味深い言葉だ。日常の中で調和を取ろうとすると、どうなるだろう。心は「歪む」、それとも「制させる」、もう一つの「整される」なのか。
一番札所で遍路お決まりの金剛杖を買った。周りの所作をうかがいながら真似るしかない。礼拝を終え納経帳に印をいただく。一番札所は誰もが最初に訪れようとする処だけあってお遍路さん用記帳ノートが置かれていた。日付と名前とを記入する人、そうでない人もいるだろう。ことを起こす前に「記する」とはどういうことなのか。どういう思いが込められていたのか。今はもうわからない。ただ、「宣言した」という思いだけが頭に浮かんだ。
日常の中で「宣言」することは、「もう歳だからという思い、年甲斐もなくとも言われそうで」歳が経てば経つほど少なくなるような気がする。「歩いてはお経をあげ、また、歩いてはお経をあげる」日常ではない自分と日々暮らす地元の人々との出会いが始まる。そこにどのような調和が生まれるのだろうか、どう調和をとろうとするのだろうか。予想もつかなかった。ましてや考えもしなかった。「調和」が2年前に経験したお遍路の本質の一部なのかな、と今頃になって考える。まだまだ気づき切れないことがたくさんある。ほんとうに奥が深い。
妻との約束があった。それは毎日歩き終えたら電話を入れることだった。「ここで寝る、次の日の予定はここまで」を伝えたことで全行程が記録として残っている。おかげでそれを頼りに思い出して書くことができる。彼女は「明日はこのへんかな」と言えるまでになっていった。「言い出したらやる」私ですから彼女からすれば私は矛盾の塊のはず。妻あっての私は「矛盾は調和の中において生かされる」ことの一つだと思う。
道中「調和の中に含まれる矛盾」と向き合っていった。遍路の地だからなのか「スー」と落とし込めたこともあり、日常を思い出した途端落とし込めないこともあった。何度も繰り返しながら。
日々が「シンプル」であれば、「気づき」もまた「シンプル」で「ダイレクト」になるはず。