どこにでも日常がある | 「ありのまま」でいいんじゃない

どこにでも日常がある

興奮と緊張で「うとうと」しては「目がさめる」ことを何度も繰り返していた。眠りは浅かったように覚えている。カーテンの隙間ごしに夜が白々と明けていく鳴門海峡を見て心が躍った。「いよいよ始まるんだな」という嬉しさが込み上げてきた実感を思い出せる。心の修行なのですが子供の頃のように「挑むワクワク感」がフラッシュバックし始めた。

 

予定より早く徳島駅に着いたおかげで駅で長く待つこともなくドンピシャのタイミングで予定していたのより早い電車に乗れた。車内は人もまばら他にお遍路さんは一人もいなかった。生まれて初めてきた四国の地、車窓からの眺めは新鮮そのもの、あっという間に一番礼所霊山寺のある坂東駅に着いた。この駅から帰ることになるのですが、「戻ってくるぞ!」という「りきみ」は一切なかった。小さな駅から静かな住宅街を5分程度歩くと目先にさほど大きくない門が飛び込んできた。

 

人として自分の発する言葉を心身に染み込ませたい思いがあった。家族への強い思いがあった。行える身体があること、行える環境に今いること、一番近くの理解者そう妻がいることに気づける。実に有り難い贅沢な修行であることは間違いない。

 

夏場の暑いさなから歩き始め、今は冬。「人間の魂、この世の中に修行に来ている。お遍路は世のため、人のためになる修行である。空間を歩いて心身を養うことに意義がある」と書かれている。よく聞く「同行二人」とは弘法大師空海と「二人で」という意味ですが、自分の心にある様々な方々と行く思いもある。合掌して門をくぐる。そこにも日常があった。

 

「日常と非日常の境、それを決めているのはあくまで心のうち」