ぼくの人生では、大きく3回の断捨離があった。

1回目
断捨離という言葉をまだ聞いたこともなかった学生時代。
大学で応援団に所属して、毎日が充実していたものの、どこかで、違う居場所を探していた。
沢山の学びもあったし、人間関係も満足、厳しい練習の中にも喜びが溢れていた。
そして、辞めることを決心したぼくは、放浪の旅に出た。
北斗の拳が大好きだったぼくは、目的地を設定した。ただひとつ、『北へ』
下級生が共有しているノートに旅しますと書いて歩き始めた。
結果的には、土地勘もなく、Googlemapもない時代なので、名古屋から歩き始めたのに、気づいたら思いっきり西に向かって歩いていて琵琶湖についてしまった。
お金ももっていなかったので、ココイチで1300㎏を20分で食べるチャレンジ(当時、無料になるキャンペーンが話題になった)をして、ギリギリで乗り越えた。店員さんがタイマーを持って席にきた瞬間に最後のスプーンをくわえた。
鈴鹿峠を真夜中に歩いたら野生の猿と眼があって震えた。
卒業を控えた年に、体育会系部活員同士の飲み会で知り合った女性と付き合うことになった。
美人ではないが、場を盛り上げる頭のいいバカだと思った。めちゃくちゃ意気投合して、『コンビ組もうか?』と言った。
しばらくして付き合うことになって、違う意味でコンビになった。
結構長い間、仲が良かった。どの夫婦よりも仲がいいと思っていた。
不妊治療も乗り越えて2人の子宝に恵まれた。
ぼくは一度は酒の問屋で就職したけど、ジレンマがあって、その5年後、義父の経営する土建屋に就職した。
3年で個人事業主として独立、その3年後、義父が癌で亡くなる直前に法人成りをして株式会社ホタコンの代表としてスタートした。
経営のことはさっぱりわからなかったので、酒問屋の社長の息子に誘われて青年会議所に所属した。
若き経営者や事業継承を待つ人たちと一緒に街づくりを真剣に考えた。
しかし、青年会議所で役職を持つことに価値を重んじ過ぎた。
自分の生活や会社など身の丈を無視して、理事になった。
仕事も家庭も後回しにしてしまった。
青年会議所のやるべきことあるべき姿を求めて、そのことすら間に合わなくなった。
40歳になって、青年会議所を卒業した時、会社も家庭もボロボロだった。
売上減少、協力会社の離脱、連続する赤字決算、離婚、別居、、、
仲のよかった学生時代の友だちや青年会議所の仲間から離れることを決心した。
LINEグループはいくつあったのだろう?30くらいだろうか、全て抜けた。
その後、たまに連絡をとったり、会いに来て来る人もいたけど、冷やかしでくる人もいた。
この時の自分が一回目の断捨離といえる。
2回目
再起を目指しながらも、マネタイズに苦しむ時代
人間関係を一度リセットして、会社の黒字化を目指した一年は、本当に必死で、本当に黒字化に成功した。
が、気づくと、自分は交流会やグループに所属して、業績に直接結びつかない行動に明け暮れた。
自分が何をしたいのか全くわからずに、誰かの言葉を信じて、裏切られたり、折り合いがつかなかったりと、川に流れる小枝のように時間の流れに身を任せていた。
ただ、人脈は爆発的に増えた。土建業はお金の流れがダイナミックなので、接待交際費が月に50万でもあまり影響がないように錯覚してしまう。
芸人さんや知識人、政治家など、多様な人生を歩む人たちと仲良くなれた。
問題はマネタイズで、本業は現場の数は微減したけど、利益率は上がり、その反面、トラブルが増えて、その処理に多くの費用が発生した。
この環境をつくりだした自分に辟易として、結果として二回目になる人間関係の断捨離をした。
人間関係を会社の中に求めて、外部での交流を激減させて、経費のスリム化を目指した。
が、その断捨離は未完全で曖昧なものだった。
結局、何かしらの繋がりで断り切れずに所属する団体があったり、何だかんだ声をかけてくれる人たちがいて、そこに甘んじてコミットメントが始まる。
3回目
土建屋を捨てて、本当に自分の満足できる生き方を探す。
3回目の断捨離は、会社の閉鎖を覚悟した時になる。
2025年の年越しを実家で迎えて、ぼくは、いきなり会社を辞めるという選択肢に真剣に向き合った。
ずっと、それだけは”無い”と自分に言い聞かせていた。
状況は最悪だった。毎日というほど、督促の電話、郵便物。
気が狂いそうだった。
一番きつかったのは、信頼してついてきてくれた職人さんからの連絡だった。
『支払いはいつになりますか?』
毎月繰り返されるようになっていた。このやりとりが、ぼくの心を闇に落とした。
すぐに返事が出来なかった。わからない。でも何とかしたい。しなきゃ。
これ以上、続けても状況は悪化するだろう。
今、自分が続けている理由は何か?
既に、義父から引き継いだ時の取引先は、廃業したり、亡くなったりしていた。
自分がこの会社を守る理由もほとんどなくなっていた。
唯一、自分が苦しい時についてきてくれた職人さんが自分の続けている理由だったのだろう。
でも、その職人さんも周りからの工事の依頼を断って続けてくれている。彼は仕事には困らないだろう。
自分自身も土建屋に対するモチベーションがなくなっていた。
そして、ボランティアのように、団体に所属したり、イベントを開催したり、何かを手伝っていた。
さらに、スピリチュアル的なイベントに誘われることが増えて、MLMの誘いも加速して、ぼくはためらわずに話を聞きに行って、参加もしていた。それは、それなりに忙しくしていたけど、居場所があることが一番の弱みだったと思う。
会社を閉鎖しようと動いている中で、熊本の会社から声がかかった。
希望に満ちた話だった。自分のこれまでの苦労や習得したものが活かせると本気で思った。
ぼくは熊本に賭けてわずかな残金をもって車で出発した。
名古屋にある人脈を断捨離したわけではないが、結果的に、俯瞰してみることで、大きく自分の人生観が変わった。
この後、熊本でさらに苦労するわけだが、その時の体験が3回目の断捨離になる。
この話は長くなるので、次回に。
↑生きることそのものがアートである。ホタコンのページ。