前回記事「仏典を読む(その37)勝鬘経1」の続きです。

 

 両親に仏道を勧められた勝鬘は、釈尊に会いたいと強く念じた結果、釈尊に会うことが実現します。そして、勝鬘は、釈尊に対して厳かに礼拝したあと、偈(詩)をもって讃えるのですが、これに釈尊が応えます。

 勝鬘は深く頭を下げて釈尊に礼拝した。釈尊は、これに対し、「記」(未来に仏になれるという仏の予言)を授けた

 そなたは仏の真の功徳を讃えた。この善行によって、そなたは遥か永い時の間、神々と人々の世界の帝王となるだろう。そなたはどこに生まれ変わったとしても、私(釈尊)と巡り会うこととなり、今と同じように私を讃じるだろう。

 また、数えきれないほどの仏がたを供養し、計り知れないほど長い時を経て、普光という名の仏となるだろう。そして、仏となったそなたが築く国には、悪趣(地獄・餓鬼道のような世界)も、老病衰悩(老・病・死などの苦悩)も、不意の災いや不善や悪業の言葉もない。そなたの国の人々は、容貌、寿命、五感がことごとく快楽であり、神々にも勝る。そなたの国の人々は大乗(仏教)に帰依している。様々な善行を積む人々がそなたの国に生まれ変わって集まるだろう。

 勝鬘がこのように記を授けられた時、多くの神々と人々が勝鬘の国に生まれ変わりたいと願い、釈尊は、神々と人々に対し、「皆、ことごとく生まれ変わることができるだろう」と記を与えたのであった。

 

【メモ】

 勝鬘経の冒頭からお釈迦様は超絶ポジティブな発言をしています。勝鬘と会っていきなり、「お前は将来悟りを開いて普光という名前の仏になるよ」と伝えます。このように、仏が修行者に対して「将来に仏になる」と予言することを「授記」といいます。お釈迦様も遥か昔の前世において燃灯仏という仏から授記されています。

 この授記ですが、実のところ大乗仏教では非常に重要な考え方であり、修行僧は仏に会って授記されなければ仏になれないとされています。そのため、仏教徒は、生まれ変わってどこかの仏の国に行き、仏に会って授記してもらおうとするわけです。つまり、お釈迦様が亡くなられたこの世に住む我々はどうやっても仏になることができない…ということを意味しており、「弥勒菩薩が56億7千年後に我々の世界に現れて仏になるまでは、誰も仏になれない」という思想の根拠となっています。

 

 となると、やはり、我々の住むこの世は、死後の仏の国に生まれ変わるための修行場…といえるのかもしれません。修行しましょう。

 

 次回に続きます。