前回記事「仏典を読む(その23)観無量寿経2」の続きです。

 今回は、お釈迦様による「極楽浄土の想い描き方」についての説法となります。個人的には「これこそ仏教!!」と思える大注目の内容です。

 

【観無量寿経】3

 ⑦ 釈尊が阿難とイダイケ王妃に仰せになった。

阿難よ。お前はこれから私が説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説き広めるがよい。私は今から、イダイケ王妃と未来の全ての人々が極楽浄土を思い描くことができるようにしよう。イダイケ王妃よ、お前は愚かな人間であり、未だ天眼通(超人的な視力)を得ていないから遥か遠くを見通すことができない。しかし、仏は神通力によって、お前にも極楽浄土を見せることができるのである。

 これに対してイダイケ王妃が釈尊に申し上げた。

世尊、私は今、あなたの神通力によって極楽浄土を見ることができます。しかし、世尊がこの世を去られた後、私や人々はどのようにして極楽浄土を見ることができるのでしょうか

 ⑧ 釈尊がお答えになった。

お前や未来の人々がどのようにして極楽浄土を思い描けばよいか。それには、まず日没の光景を見るがよい。姿勢を正して西に向かって座り、心の中に夕日を思い描く。そして、心を乱さずに集中できたのであれば、西の空に夕日がまさに沈もうとしているのを見る。そして見終わったあと、目を閉じても開いても、その夕日の姿をはっきり見えるようにするのである。これを「日想」といい第一の観とする。

次に、心の中に水を想い描くがよい。水の清く澄み切った様子をはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。水を想い描き終わったなら、次に水が氷となる様子を思うがよい。そして、氷の透き通った様子が瑠璃(青い宝石)であると想い描くがよい。それを成し終えたら、極楽浄土の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映り合う様子を見るのである。このように思い描くのを「水想」といい第二の観とする。

これらの観が成就したのであれば、その様子をさらにはっきりと見えるようにして、目を開いても閉じても目の前から消え失せないようにしなければならない。眠っている時を除き、常にこれを思い続けるがよい。そうすると、極楽浄土の大地を見たということになるだろう。さらに三昧の境地(強い集中状態)に入ったら、極楽浄土の大地を一層はっきりと見ることができるだろう。これを「地想」といい、第三の観と名付ける。

  釈尊が阿難に仰せになった。

阿難よ。お前は苦しみから逃れたいと思う未来の人々のために、極楽浄土の大地を思い描く方法を説き聞かせるがよい。もしこれを観ずることができたのであれば、長い間積み重ねた罪が消え、清らかな国に生まれることができるのである。このことを決して疑ってはいけない。このように観ずることを「正観」といい、これに異なることを「邪観」というのである。

 

 【メモ】

 極楽浄土への往生は、極楽浄土の有様を正しく思い描くことで達成されるのだそうです。それでは、どのようにして極楽浄土を想い描くか?…ということで、お釈迦様がめちゃくちゃ具体的で細かい説明をします。

 

 ⑦において、イダイケ王妃が「今はお釈迦様がいるから、私たちは極楽浄土の有様を目にすることができるけれど、お釈迦様が死んだ後はみんな困るのでは?」と言います。これに対して、お釈迦様は「私が死んだ後、残された人々はこのように極楽浄土を思い浮かべろ」と言ってその方法を示します。つまり、我々のために説法をしてくれているということです。心して聞きましょう。

 

 ⑧では、極楽浄土の思い浮かべ方として、「夕日を見てその情景を心に留める」「澄み切った水を見て心を乱さない」「水が氷となり、その氷が青色の宝石となり、それが大地であることをイメージする」「これらの観想を眠っている時以外、いつでもできるようにする」「その上でさらに三昧(ざんまい・強い集中状態)の境地に持っていく」…などと、詳しく説かれています。原典では、上の要約文とは比較にならないくらい、ものすごく細かい説明となっています。

 

 実際、これらのお釈迦様の教えのとおり観想行を実践しようとするとものすごく難しい。私は、長らく仏教とお付き合いしてきた経験から「宗教的天才とは、必ず卓越した想像力を備えている」と思っています。法然上人が、なぜあれほど多くの信者を獲得できたのか、それは、卓越した仏教知識に加え、卓越した想像力をもって、実際に極楽浄土を見ていたからだと思います。実際に見ていたからこそ他人が信じられるほど説得力のある説法ができたのでしょう。

 

 宗教的素質は、想像力の有無によって左右されます。

 エロ本なしでオナニーができる人は宗教的素質があります。これは間違いない。

 

 次回に続きます。