前回記事「仏典を読む(その16)無量寿経(下巻)4」の続きです。

 前回はお釈迦様が人間の愚かさについて説きましたが、今回はそれを踏まえた上でのお釈迦様と弥勒菩薩の会話となります。

 

【無量寿経(下巻)】5

 

 続けて、釈迦が弟子の弥勒菩薩や天人などに仰せになった。

⑬ 私は俗世の有様(人間の愚かさ)を語った。これを踏まえ、お前たちは十分に考え、悪を遠ざけて善行に励むがよい。世の中は無常であり、どのような栄華もいつまでも続くことはなく、いずれ全てが失われてしまう。この世に本当に楽しむべきことは一つもない。幸いにも、今この瞬間、私(釈迦)という仏がこの世に存在するのであるから、努め励んで悟りを求めるがよい。私の教えに疑問があるのであれば、どのようなことでも尋ねるがよい。私は説いて聞かせよう

 

⑭ 弥勒よ知るがよい。お前は、計り知れないほどの遠い昔から菩薩として修行を積み、多くの人々を悟りに導いた。しかしながら、遥か昔から迷いの世界に生まれ変わり続けて憂い苦しみ、今もなお迷いの世界にとどまっている。ただ、お前は、私(釈迦)という仏に遂に出会い、教えを聞き、また、阿弥陀仏のことを聞くことができた。これは、本当に喜ばしく素晴らしいことであり、私もお前と共に喜びたいと思う。

 

⑮ お前たちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れることを願うがよい。体と行いを整えて多くの善行を積み、心の汚れを洗い清め、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして迷いを離れるとともに衆生も救い、極楽に生まれかわって悟りを得ることを願い、功徳を積むがよい。一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後に極楽浄土の国に生まれてこの上ない楽しみを受けることができる

 

⑯ お前たちが、この世において心を正しくして、様々な悪を犯さなければ、それは極めて優れた徳であり、類を見ないことであろう。なぜならば、他の仏の国の天人や人々は自ずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、悟りの世界に導きいれることが容易いからである。私がこの世界で仏になって、五悪と、それがもたらす現世と来世での苦しみ(五痛・五焼)に満ちた世界に存在することは大変な苦労なのである。しかし、その中で、人々に対して教えを施し、五悪をやめさせて迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えて悟りを得させたいと思う。

 

【メモ】

 原典では、お釈迦様の説法に対して、弥勒菩薩が「師匠、すごいっす!!」「最高っす!!」「どこまでもついていくっす!!」みたいなアゲ台詞を連発していますが、毎度お馴染みの「経典あるある」ですので省略させていただきます…。

 

 ⑬では、お釈迦様が「ここまでで、何か質問はありますか?どんなことでもいいですよ」と言っているのが面白い。お釈迦様は人類の教師とも言われますが、まさにそのとおりと感じさせる場面です。

 ⑭では、弥勒菩薩を名指しして教えを聞かせています。お釈迦様は神通力で弥勒菩薩の過去世が見えるのでしょう。その上で、これまで大変な苦労をしながら菩薩として何度も生まれかわり、未だ悟りに至っていないところに、仏である自分と出会えたことについて喜ばしいと言っています。ちなみにご存じかと思いますが、弥勒菩薩は、我々の住むこの世界でお釈迦様の次に悟りを開く人物とされ、現在では天国(兜率天)で修行中で、56億年後に再び我々の世界に生まれかわり、悟りを開いて世界を救うとされています。

 ⑮では、お釈迦様が「現世は苦しくとも、来世は楽しいから我慢して修行せよ」と言っています。「来世」とか「輪廻」は、宗教離れが進み、また、死が身近ではない現代人にはあまり響かない考え方のような気がしますね。私からすれば、修行自体が楽しいのですが…。

 ⑯は面白いですね。極楽浄土など仏が建設した国は、ほとんど善行しか行えないような理想郷ですが、我々が住む世界は、醜く穢れた世界であり、善行を行うことが困難な環境です。ゆえに、そのような苦しい環境下で行う善行こそに価値があると、お釈迦様は言っています。俗世で仏道を歩もうとする人々を励ますお釈迦様の言葉です。

 

 次回に続きます。