こちらに華厳経の現代語訳本があります。内容が素晴らしいというのは確かである(らしい)のですが、私にとって仏典を読むことは中々の苦行です。そんなことを言えば「仏教者が仏典理解を苦行と考えるとは何事か!!」などと叱られるでしょう。しかし、仏典というのは、文字に起こされたものである以上、やはり「慣れ」や「読解力」あるいは「センス」などが必要となります。

 あらかじめ、仏説が説かれた背景やあらすじを踏まえた上で読めば、頭への入り方は全然変わってきますし、そして何度も読めば、読む度に新規の情報が少なくなっていくので脳の負担が減っていき、最終的には行間も読めるようになって、自分なりの考察もできるようになります。

 ただ、この「慣れ」や「読解力」については、一朝一夕で身につくようなものではなく大変な労を要するものです。そのため、多くの人は、仏典を直接読むことを諦めて、識者や僧侶の解説本に頼らざるを得なくなってしまいます。私も、できるだけ仏典(和訳ですが)を直接読むようには心がけているのですが、読後には「結局何が書いてあったんだ…?」となりがちです。

 仏典は、まず最初の数ページで読者の心をバキバキに粉砕します。例えば…ということで、以下、華厳経入法界品序章から最初の数ページを抜粋してみます(流し読みしてください)。

 

 このように私は聞いた。あるとき、世尊はシュラーヴァスティーに滞在しておられ、サマンタバドラ菩薩とマンジュシュリー菩薩とを始めとする五千人の菩薩と一緒であった。

 

 すなわち、ジュニャーノーッタラ・ジュニャーニン、サットヴォーッタラ・ジュニャーニン、アサンゴーッタラ・ジュニャーニン、クスモーッタラ・ジュニャーニン、スーリヨーッタラ・ジュニャーニン、チャンドローッタラ・ジュニャーニン、ヴィマローッタラ・ジュニャーニン、ヴァジュローッタラ・ジュニャーニン、ヴィラジョーッタラ・ジュニャーニン、ヴァイローチャノーッタラ・ジュニャーニンという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ジョーティ・ドヴァジャ、メール・ドヴァジャ、ラトナ・ドヴァジャ、アサンガ・ドヴァジャ、クスマ・ドヴァジャ、ヴィマラ・ドヴァジャ、スーリヤ・ドヴァジャ、ルチラ・ドヴァジャ、ヴィバラ・ドヴァジャ、ヴァイローチャナドヴァジャという菩薩摩訶薩たちであった。 

 

 また、ラトナ・テージャス、マハーテージャス、ジュニューナ・ヴァジュラ・テージャス、ヴィマラ・テージャス、ダルマ・スーリヤ・テージャス、プニヤ・バルヴァッタ・テージャス、ジュニャーナーヴァバーサ・テージャス、サマンタ・シュリー・テージャス、サマンタ・プラバ・テージャス、サマンタ・プラバ・テージャス・シュリー・テージャスという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ダラーニー・ガルバ、ガガナ・ガルバ、パドマ・ガルバ、ラトナ・ガルバ、スーリヤ・ガルバ、グナ・ヴィシュッディ・ガルバ、ダルマ・サルドマ・ガルバ、ヴァイローチャナ・ガルバ、ナービ・ガルバ、パドマ・シュリー・ガルバという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、スネートラ、ヴィシュッダ・ネートラ、ヴィマラ・ネートラ、アサンガ・ネートラ、サマンタ・ダルシャナ・ネートラ、スヴィローキタ・ネートラ、ヴァジュラ・ネートラ、ラトナ・ネートラ、ガガナ・ネートラ、サマンタ・ネートラという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、デーヴァ・ムクタ、ダルマダートゥ・プラティバーサ、マニムクタ、ボーディマンダ・ムクタ、ディグヴァイローチャナ・ムクタ、サルヴァ・ブッダ・サムブータ・ガルバ・マニムクタ、サルヴァ・ローカダートゥードガタ・ムクタ、サマンタ・ヴァイローチャナ・ムクタ、アナビブータ・ムクタ、サルヴァ・タターガタ・シンハーサナ・サムプラティシュティタ・マニムクタ、サマンタ・ダルマーダートゥ・ガガナ・プラティバーサ・ムクタという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ブラフメーンドラ・チューダ、ナーゲーンドラ・チューダ、サルヴァブッタ・ニルマーナ・プラティバーサ・チューダ、ボーディマンダ・チューダ、サルヴァ・プラニダーナ・サーガラ・ニルゴーシャ・マニラージャ・チューダ、サルヴァ・タターガタ・プラバー・マンダラ・プラムンチャナ・マニラトナ・ニガルジダ・チューダ、サルヴァ・タターガタ・ヴィクルヴィダ・プラティバーサ・ドヴァジャ・マニラージャ・ジャーラ・サンチャーディタ・チューダ、サルヴァ・トリアドヴァ・ナーマチャクラ・ニルゴーシャ・チューダという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、マハープラバ、ヴィマラプラバ、ヴィマラ・テージャッハ・プラバ、ラトナ・プラバ、ヴィラジャ・プラバ、ジョーティシュ・プラバ、ダルマ・プラバ、シャーンティ・プラバ、ヴィラジャ・プラバ、ジョーティッシュ・プラバ、ダルマ・プラバ、シャーンティ・プラバ、スーリヤ・プラバ、ヴィクルヴィタ・プラバ、デーヴァ・プラバという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、プニヤ・ケートゥ、ジュニャーナ・ケートゥ、ダルマ・ケートゥ、アビジュニャー・ケートゥ、プラバー・ケートゥ、プラバー・ケートゥ、サマンターヴァーバサ・ケートゥ、マニケートゥという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ブラフマ・ゴーシャ、サーガラ・ゴーシャ、シャイレーンドラ・ラージャ・サンガッタナ・ゴーシャ、サルヴァ・ダルマダートゥ・サーガラ・ニガルジタ・ゴーシャ、サルヴァ・ダルマダートゥ・スパラナ・ゴーシャ、サルヴァ・ダルマーダトゥ・サーガラ・ニガルジダ・ゴーシャ、サルヴァ・マーラマンダラ・プラマルダナ・ゴーシャ、マハーカルナー・ナヤメーガ・ニガルジダ・ゴーシャ、サルヴァ・ジャガット・ドゥッカ・プラシャーンティ・アーシュヴァーサナ・ゴーシャという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ダルモードガタ、ヴィシェーショードガタ、ジュニャーノドガタ、プニヤ・スメールードガタ、グナ・プラバーヴォードガタ、ヤショードガタ、サマンターヴァバーソードガタ、マハーマイトリ・ウドガタ、ジュニャーナ・サムバーロードガタ、タターガタ・クラ・ゴートロードガタという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、プラバー・シュリー、プラヴァラ・シュリー、サムドガタ・シュリー、ヴァイローチャナシュリー、ダルマ・シュリー、ダルマ・シュリー、チャンドラ・シュリー、ガガナ・シュリー、ラトナ・シュリー、ケートゥシュリー、ジュニャーナ・シュリーという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、シャイレーンドラ・ラージャ、ダルメーンドラ・ラージャ、ジャガド・インドラ・ラージャ、ブラフメーンドラ・ラージャ、ガーネンドラ・ラージャ、デーヴェンドラ・ラージャ、シャーンテーンドラ・ラージャ、アチャレーンドラ・ラージャ、リシャベーンドラ・ラージャ、ブラヴァレーンドラ・ラージャ菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、プラシャーンタ・スヴァラ、アサンガ・スヴァラ、ダラニー・ニルゴーシャ・スヴァラ、サーガラ・ニガルジタ・スヴァラ、メーガ・ニルゴーシャ・スヴァラ、ダルマヴァーサ・スヴァラ、ガガナ・ニルゴーシャ・スヴァラ、サルヴァ・サットヴァ・クシャラムーラ・ニガルジタ・スヴァラ、プールヴァ・プラニダーナ・サムチョーダナ・スヴァラ、マーラマンダラ・ニルゴーシャ・スヴァラという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 また、ラトナ・ブッディ、ジュニャーナ・ブッディ、ガガナ・ブッディ、アサンガ・ブッディ、ヴィマラ・ブッディ、ヴィシュッダ・ブッディ、トリアドヴァーバサ・ブッディ、ヴィシャーラ・ブッディ、サマンターヴァーロカ・ブッディ、ダルマダートゥ・ナヤーヴァバーサ・ブッディという菩薩摩訶薩たちであった。

 

 上述の者たちを始めとする五千人の菩薩たちはみな、普く優れた菩薩行と誓願に熟達していた

 

華厳経入法界品 序章

 

 

 長いよ(笑)。…タイピングに1時間くらいかかりました(笑)。登場人物というより、もはや聴衆の紹介ですね。岩波文庫版だと、この聴衆の紹介だけに7ページも割いています。見開き1ページにほとんどカタカナ人名だけというのは圧巻です(笑)。仏教学に「仏弟子研究」というジャンルがあるように、仏典の中にどの仏弟子が登場しているかというのは、結構重要なポイントだったりしますので、上のようにやたらと長い聴衆紹介になっていることには何かの意味があるのでしょう。

 しかし、それは、研究者などの超上級者向けの話であって、一般の仏教徒にとっては、仏典理解のハードルを高くするだけの要素に見えます。「上述の者たちを始めとする」とありますが、そもそも冒頭の「サマンタバドラ菩薩(普賢菩薩)とマンジュシュリー菩薩(文殊菩薩)」を始めとする」くらいで留めても良いと思います

 

 というわけで、今後、仏教学習の一環として、こうした仏典の読解を困難にしている「過剰な説明」「回りくどさ」「同じあるいは似た内容の繰り返し」といった「仏典」独特のお作法を極力省いた「要約仏典」を新たに作りあげて記事にしていく作業を進めていきたいと思います(地道に)。

 

 とりあえずは、浄土三部経から挑戦します(先日、累が淵と祐天上人の記事を書いたので、改めて浄土経典を読みたくなりました)。

 

 次回に続きます。