前回記事「浄土宗・祐天上人(その3)」の続きです。

 

 羽生村の怨霊事件を見事に解決した祐天ですが、実はその後も、自身が所属する弘経寺の近くで何件かの浄霊に成功していることが書物に記されています。

 

 後年、祐天の信者であった寺田市右衛門が執筆したとされる「祐天大僧正利益記」では、「弘経寺の近辺において、義母の怨霊が憑依した女性に念仏を授けた」「羽生村において、夫の浮気を恨んで死んだ女性の霊を鎮めるために念仏興行を行った」といったエピソードが記されています。また、祐天の名前を社会に知らしめた「死霊解脱物語聞書」の6年前に出版された説話集「古今犬著聞集」においても、祐天が弘経寺の近くで、累のほかに何件かの浄霊に成功したことが記されています。

 

 羽生村の怨霊事件の後、地域の有名人となった祐天は、住民の依頼に応じて浄霊を行っていたのでしょう。書物の中には「これは怨霊による仕業だ。累の浄霊に成功した祐天和尚に念仏回向を頼むしかない」といった内容が記されていますので、この頃、祐天は「名医」のような扱いになっていたということが推察されます。

 それよりも興味深いのは、羽生村の怨霊事件の後に間もなく、近隣の地域で何件も怨霊憑依事件が発生しているということです。そんなに怨霊が発生するっておかしくない?…とか思ってしまいます。ひょっとして、当時は「狐憑き」という言葉が一般的に使われていたように、憑依現象というのはよく見られた現象だったのでしょうか…。

 

 3/10記事「怪談「累ヶ淵」と仏教(その6)」において、「人柱のお伽羅の祟りが村を恐怖に陥れ、それが、羽生村の怨霊事件の発生原因の一つとなった」と考察しましたが、同様に、「羽生村の怨霊事件の発生が近隣地域の集団意識に大きな影響を与えた」ことを想像しています。「何か悪いことがあれば怨霊のせいではないか?」と、住民の間で、そういう思考的傾向が形成されていたのかもしれません。その結果として、地域社会のいたるところに怨霊が漂うようになっていたと。

 

 祐天は、江戸の民衆から「生き仏」と崇拝され、また、徳川綱吉の母親である桂昌院による強力な支持を得るほど、卓越した弁舌力と行動力があったとされ、最終的には浄土宗の大本山「増上寺」のトップにまで登り詰めますが、こうした「カリスマ」には、場の空気を完全に支配する力があります。そして、先に述べたように、怨霊が、人々の間で流れる噂、言い換えれば、集団意識である場の空気によって生まれるのであれば、祐天に怨霊を浄霊する法力があったということは十分に理解できると思います。

 

 

 …さて、どうなることかと思いましたが、怪談「累ヶ淵」から祐天までのシリーズは、この辺で一区切りです。書き始めの時は、今回のようなオチは全く想像していなかったんですけど、文献を調べたり、現場を訪問すると、新しい発見や気づきが大いにあって、それなりに書き切れたかなと思います。

 

 明日から、また新しいテーマを探さねば…。