最近体が急速に坐禅モードになりつつあります。2/1の記事「坐禅談義(その2)」でお話ししましたが、私の体が坐禅モードに入る時はメンタルに黄色信号が出ている時です。

 

 道元禅師は著書の「普勧坐禅儀」でこのように述べています。

 

「所謂坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり」

 

 …などと、坐禅を「安楽の法門」と表現していますが、まさにその通りで、坐禅は安楽そのものだと思います。

 

 多くの人は、だらけてぼーっとすることがものすごく好きですが(ですよね?)、実のところ、こうした「何もしない」ということは、一見、休息しているように見えて、結構なストレスとなっているように思えます。

 

 他方、「忙しい」は「心を亡くす」と書きますけど、忙しい時には、生活のために必要なことをやっているため、後ろめたさが少なく、妄想による苦悩が入り込む余地が少なくなると思います。

 

 それで、忙しくした結果、「疲れたら休め」とか言われますけど、それでも、人は休まずに何かをしてしまうのは、そういうことでしょう。そして、人は、休みたくても休み方を知らないし、休めないのです。

 

 今、私の体が座禅モードになりつつあるのは、私にとって、安楽という観点において「坐禅>>働く>>何もしない」ということを体が知っているのでしょう。つまり、今の自分は「何もしない」ことができない状況にある…そんなわけでメンタルが黄色信号なんだろう…などと思っています。

 

 道元禅師は、「強為」(ごうい)と「云為」(うんい)という話をしています。曹洞宗の藤田一照禅師は、「強為」は、何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理やりに強引に行うことをいい、「云為」は、思慮分別を離れて自ら発動してくる自然な行いのこと…と説明しています。そして、坐禅は云意でなければならないと言います。

 

 自然に体が坐禅を求めるようになっている…。今の自分は「云意」でしょうか。そんなわけで仏道修行の書き入れ時です。

 

 というわけで坐禅します。

 

 次回「坐禅談義(その4)」に続きます。