1/25記事「仏教と霊魂(その5)」の続きです。

 

 ここまで「仏教と霊魂」をテーマに論を述べさせていただきましたが、求められているような話ができているかといえば、全く自信がありません。「釈迦は固有不変の魂アートマンを認めなかったとか、説一切有部は刹那滅の心を主張したとか、理屈っぽい話はどうでもいいよ。結局のところ実際は霊魂は存在するの?」と思う方は多いでしょう。

 とはいえ、ただ単に「霊魂の話をします」というのであれば、幽霊の話を自由に語ってもいいんでしょうけど(私はそもそもオカルト好きで、怪談ネタはたくさん持っています)、しかし、「仏教と霊魂」をテーマとしている以上は、仏教の教学上の根拠を押さえた上での話をしなければいけないと思っています。

 それゆえ、今後も続きます。さらに理屈っぽい話が…

 

 …さて、私自身も、お会いしたお坊さん方によく質問をします「霊魂(幽霊)についてどうお考えですか?」と。しかし、これに対する回答を曖昧にする方々は非常に多く、多くの場合が「聞いてみたけど、結局よく分からなかった…」という結果になります。まあ、逆に「霊魂は存在します」あるいは「霊魂は存在しない」と断言するお坊さんに対しては「こいつヤベェ…」と思ってしまうわけで、「一体、俺はどのような回答を求めているんだ…」とか自分自身がわからなくなりますが…。

 

 相応部経典に以下のような記述があります。

 ゴータマよ、人は死後も存在するのでしょうか。

 ヴァッチャよ、私は、人は死後も存在すると言わない。

 

 では、ゴータマよ、人は死後存在しないのでしょうか。

 ヴァッチャよ、私は、人は死後存在しないと言わない。

相応部経典「ヴァッチャ」から抜粋

 釈迦はここでも「無記」の姿勢を貫いています。1/21「仏教と霊魂(その1)」でお話した「毒矢のたとえ」では「そんなことを考えていないで修行しろ」でしたが、「ヴァッチャ」におけるエピソードでは、以下のように続きます。

 

 ヴァッチャよ、異教者は、身体を自分のものと見て、自分は身体を有すると考える。また、同様に、感覚・想像・意思・認識の機能を自分のものであると考える。そのため、人は死後存在せず、または、存在しないなどと答えるのである。

相応部経典「ヴァッチャ」から抜粋・要約

 つまり、仏教においては、元々縁起の法則によって成立する「存在」について「ある」と断定するのはNGであるところ、一度「ある」と考えてしまうと、それを基準として「ある」の連鎖が起き、結果として「ある」と「ない」で何でも判断するようになっていくということです。本来存在しないはずの苦しみも、元々、こうした「ある」「ない」という二元論的な考えから生じるものとして釈迦は戒めたわけです(何でも白黒つけたがる現代人には重要な教えです)。

 

 釈迦は、縁起の法則で成立する存在を「ある」と断定することを「常見」(じょうけん)、逆に「ない」と断定することを「断見」(だんけん)として禁止し、「常見」でも「断見」でもない「中道」(ちゅうどう)こそが正しい道であるとしました。そして、釈迦に対して「霊魂は存在しますか?」という質問は「存在」の有無を問うことなので、「ある」でもなく「ない」でもない、やはり無回答となるわけです。それゆえ、お坊さん方は霊魂に対して積極的な見解を示さないのでしょう。

 そう考えると、釈迦の教えにおいて、(一般的な感覚をもって)霊魂の存在について問うことは、1/22「仏教と霊魂(その2)」の結びでもお話ししましたが、やはり、あまり意味がないということに思えます。

 

 しかしながら、「霊魂は存在するか?」という問いについては、通常、悟りや仏教徒の価値観に基づいて発せられるものではなく、単なる知的欲求心からや、愛する人の死後を知りたいから、あるいは、幽霊に悩まされている(という)人が救いを求めて…など、一般人の価値観から発せられるわけです。仏教は、これに応えることはできないのでしょうか。

 

 私としては、日本仏教であれば、「霊魂は存在するか」という問いに十分に対応できるものと考えています

 

 次回「仏教と霊魂(その7)」に続きます。