前回「仏教と飲酒(その1)」に続き、仏教における飲酒の話です。

 

 仏教では、「戒」と「律」という二つの側面から禁止事項が設けられています。「戒」は、悟りを得るための修行や、死後天道へ生まれ変わるための善なる生き方において、障害となる行為を禁止するもので、「律」は、サンガ(仏教教団)を組織として維持するために、社会からの非難を受けるような僧侶の行為を禁止するもの…となっています。

 経典を読むにせよ、坐禅・瞑想するにせよ、飲酒した上で行うと絶対にまともなものにはなりませんし、また、深酒によって路上で嘔吐する坊さんの存在は仏教に対する信頼を低下させるでしょう。したがって、真摯な修行や生き方が求められる仏教において、飲酒が禁じられる「不飲酒戒」が設けれらるのは当然のことであると言えます。

 

 さて、「不飲酒戒」については、僧侶・在家信者共に対象となっているにも関わらず、日本では全く守られていないように見えます。これに対する弁護の余地はあるのでしょうか。着目点はいくつかあります。

 

1 薬としての飲酒は許される

 戒律の聖典である「四分律」において、「不飲酒戒」の説明箇所の最後に以下の記述があります。

不犯とは若しは如是如是の病あり、世の薬治にては差えず、酒を以て薬となす、若しは酒を以て瘡に塗るは、一切無犯なり

(四分律)

 つまり、薬としてなら酒を飲んでもよいと明記されているのです。2500年前のインドでは、醸造の技術も低く、酒は現在のイメージよりも格段に毒物であったことが推察されます。毒物ゆえに薬としても扱われていたのでしょうし、どちらかといえば、現代の違法薬物に近いイメージがあったのかもしれません。

 

2 飲酒そのものは悪ではない

 そして、「薬としての飲酒であれば問題ない」ということであれば、後世の学僧たちは「飲酒そのものは悪ではない」と分析します。戒の中でも、「不殺生戒」や「不偸盗戒」などについては、悪の行為を戒めるための「性戒」(しょうかい)であるとされますが、「不飲酒戒」については、それ自体は悪ではなく、世間の非難を避け、他の罪を誘発しないように設けられる「遮戒」(しゃかい)であるとされています。前回述べた「莎伽陀のやらかし」が「不飲酒戒」制定のきっかけとなったエピソードが好例となります。

 ちなみに、これらが盛んに論じられた古代インドにおける「不飲酒戒」については、インド部派仏教の最大勢力を誇った説一切有部は「遮戒」、大乗仏教の大学僧の世親は「限定的遮戒」、南方上座部では「性戒」であると、それぞれ判断が分かれていたようです。

 

 ともあれ、こうなると、虚弱体質の人が飲む養命酒ならよいとか、病気を治すために飲酒が継続的に必要だとか、飲酒自体が悪でないのであれば寝る前に少しだけ飲むとか、他の戒を犯さないように完璧に管理できるならOK…などという話に展開していくことでしょう。例外規定を設けると、そこからどんどん抜け道ができてきて、気がついたら本規則が骨抜きされてしまっていることは、よく見られる光景です。実際、日本仏教と飲酒をテーマに語る際には、「薬」と「遮戒」が頻出のキーワードとなります…。

 

 次回記事「仏教と飲酒(その3)」もこのテーマが続きます。そろそろまとめたい…。