理想論は、耳に心地よいが
実人生を破壊する力を持ち、
その中でも無償と呼ばれるものが
我々の人生に大きくのしかかっている。
戦後無償の行為と呼ばれる理想論を
受け入れた為に捨ててしまった考え方に、
見返りを求める考え方が犠牲になった。
見返りを求める事は、生きていく上で
社会や人間関係の柱となるべき
重大な考え方をなしている。
それが昔からの常識であったし、
近所付き合いから、家族、仕事、
愛情、友情、信頼などを支え、
あらゆる社会性と人間関係
が成り立っていた。
社会や人間関係から見返りを求める気持ち
がなくなれば、その関係には
重大な柱がなくなる。
戦後の理想論と抵触する事で
歪んだ姿にされてしまった。
見返りを求める心は、実際には
我々の心の奥深くにある。
しかし実際は理想論に抵触する事でなく
見返りを持つ心を悪いと思ってしまう気持ち
が生ずる事にある。
これは、理想論に囚われ、それを礼賛し過ぎた
結果、強迫観念によって、現代日本人は
見返りの求め方が非常に歪んだ形になり、
社会性と人間関係に一種の疑心暗鬼を
生み出す結果を招いている。
無償の行為とは美しい響きだが、私の
知る限り、人間の歴史には存在しない。
もし存在すれば、神だけだが、
私の見た所では神も見返りを求めている。
信仰の為に物質的、精神的に多大な犠牲を
費やして、生活や祈りを絶えず神に捧げる
行為そのものが、恩恵に対する見返りを
求められ、結果を出そうとしている。
何の犠牲的行為も行わずに、神から特別の
恩恵を受けた人間など私は見た事がない。
神の愛が無償なのは錯覚に過ぎない。
神の愛を活かしている人は、神の為に尽くし
神が喜ぶように行動している。
神の愛ですら、無償ではその恩恵に与る事は
出来ない。
正しく無償の意味を知っておく必要がある。
だから、人間にはそれをそのまま実行する事は
絶対に不可能で、無償の行為は
行えば気持ちがよいから、無償とは言えない。
気持ちがよければ、それだけで
大変な利益を受けている。つまり自己中心的な
行為なのだ。
人間同士の信頼関係に無償はない。
自分を信頼してくれる人に対する見返りは、
その相手の期待に応える事に尽きる。
また相手を信頼したならば、
応えさせなければならない。
信頼関係を無償だと思う人間は、
必ず人の信頼の利用しか考えていない。
家族が崩壊していく一番大きな原因も
ここにある。
親が子に対して育て上げた恩の
見返りを求めないから、恩義を弁えない
人間になってしまい、また何をしたらよいのか
わからぬ人間になり、無償が大切な子供を
潰してしまう。
見返りを要求するとは、
言葉を変えれば、何かを与えられた人間が
自分で何を返せばよいのががわかる
行動基準を教える事に繋がる。
我々は絶えず他人から見返りを
求められる事によって成長していく。
人は誰でも何かを人に与え、
何かを他者にもらって生きている。
この世の構造を理解する為にも
無償などはこの世にはない事を
把握しなければならない。
見返りを要求し合う事が人間関係と
社会を実体あるものとし、円滑に動かす為の
血液となる。
見返りを悪と思わなければ、
人間は本音で付き合える。
綺麗事には全て嘘が含まれている。
美しい無償がこの世にないのを知るのは
確かに辛いが、それにより実のある人生を
手に入れる事ができる。
本音は美しくない事も多いが、
それがこの世の姿で、真実の中で
生きる事が最も美しい人生を創るのだ。