真理の教えを学んでいないと、
自他の道理を外す思考と行動は、
嫌悪感がきて、次に無関心に陥る。
ここで自我意識を強化していく人と
割り切ってしまう人に分かれるが、
どちらも精神の限界が来る。
それも受け入れないで生きていくと、
自己洗脳で思い込みを強化して、
自分に都合の悪い事は
正当化と迎合で生きていき、
真理からはどんどん遠ざかるが、
それにすら気付けない。
その一部始終を間近で観させてもらい、
まだこの状況でも気付かないのに、
正直呆れているが、
呆れる、という言葉は、
善悪を超えている言葉なのに気付いた。
呆れる、
という感覚がでてきてから
心が軽くなってきているのも事実で、
軽安に入りやすくなってきている。
諦めるは、明らかに観る、が本来の意味だが、
その先には、呆れる、という言葉があった。
この言葉を作った人は、
もしかしたら、こんな感情を得て、
それを伝える為に言語を残してくれたのか?
改めて日本語の奥深さに驚嘆している。