自我も無我も善悪でないから、人間は難しいのだな。 | 『唯唯普通に生きる』

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肯定も否定もなく、スッとやる、をモットーに今日の自分を超えていく為の独り言です。

正しい判断力ができる

原理原則を何も知らないで、


闇雲に行動していたら、

大事故を起こすのも、

原因と結果の因果の道理から

必然だ。


だから、真理の教学は絶対的に必要だが、

その必要性に気付くというのも、

よっぽどの事がないと気付けないのも

事実だな。


だから、

感動した時や、

自分がやれると高揚感を得た時や、

このままだと死んでしまうと

危機感を感じた時、など


感情が大きく動く時しか、

そういうキッカケも中々起こらないのだな。


自分を振り返っても、

それも原理原則なのだと思う。


自分の場合は、

悪気なく迎合して組織にぶら下がっている

状態の人を幼少期に間近で見ていて、

絶対にそれは嫌だ、という嫌悪感と危機感

が、今の根本的な阿頼耶識に薫習されていて、


そうならないように、

自力で頑張ってみたが、


そうなりたい、でなく

そうなりたくない、という

気持ちが逃げている矛盾がどんどん自分を

苦しめていった。


全く違う思考で、前向きに生きていけそうな

きっかけがあり、そんな自分でも、

自分を活かせて社会に貢献できると

信じた道が、


行き着いた最後は、

自我意識の強化で、

求めていたものとは全く違い、


完全な行き止まりで、

前に進めなくなり、

精神的に病んでしまった。

 

そこから、

この苦しみの本質を知らずには

いられなくなり、


最後は、仏教、唯識、天風先生、などの

真理の教えにたどりついた。


幼少期に、自分の心に素直に

なれるような、形から心に至る

真理を掴んだ人に出会えたら、


まずは、言われた通りに行動してみたら

いずれ、その行動の意味がわかっていくと

思うが、


形が形だけの人、自我意識の人の事を

素直に聞いていたら、


正当化、傲慢さ、卑屈さ、馴れ合い、

迎合などの感覚が自然に

見についてしまい、これが自然な感覚に

なるから、


その状態に陥っていても、

違和感すら感じず、それを指摘されても、

指摘した側が歪んでいると捉えてしまい、

自我意識から抜け出せなくなる。


その世界が悟りの世界と

捉え違いしてしまう。多分こういう人も

沢山いるんだと思う。


 だから、人間は

分かち合う事が難しいのかもしれない。


だが、自我も無我も善悪ではなく、

そういう状態、というだけである。