有名が祖禄です。

 

無門関第四十一則「 達磨安心 」

達磨面壁。

二祖立雪。

 斷臂云、弟子心未安、乞師安心。

 磨云、將心來爲汝安。

 祖云、覓心了不可得。

 磨云、爲汝安心竟。

 

達磨以前に多くの「 仏の教え 」は既に支那にありました。

しかし「 法 」はなかった。

そこに「 法 」を伝える達磨です。

皆様もよくご承知の通りです。

 

禅宗の開祖達磨と二祖慧可です。

禅宗が支那で最初に世に問うた問答です。

禅宗の始まりを象徴する問答です。

禅修行者は避けて通れない祖禄。

 

達磨は慧可に

 「 覓心了不可得 」

言わしめた。

釈尊、龍樹、達磨、そして慧可へと「 証明 」されて来ました。

 

 

慧可は達磨に指し示す「 心 」を探したのです。

何年もの時を費やしたのでしょう。

慧可は「 心 」を、

 

 意識なのか、魂なのか、感情なのか、認識なのか、

 知覚なのか、計らいなのか、精神現象なのか、癖なのか、

 自己保存本能なのか、自我なのか、過去の業障なのか、

 

不安な「 心 」を探して、探して、真っ暗闇を、奈落の底を

彷徨い歩いたのです。

脳みそが汗をかくほどに考え探求したのです。

達磨に参し、何度もの「 チリンチリン 」に怯えながら、、

しかし、その「 心 」を見つけることが出来なかった。

慧可は「 奈落の底 」に疲れ果て「 困り切った 」様子です。

 

 

 香厳に、庵一人墓守、

 臨済に、黄檗三十棒、

そして、

 香厳、竹の音、

 臨済、黄檗の老婆親切、

 

多くの祖師方も慧可と同じように脳みそが汗をかくほど

考え探求した。

しかし、どうしても、どうしても「 見つける 」ことが

出来なかった。

香厳も臨済も、慧可同様「 奈落の底 」に疲れ果て

「 困り切った 」絶望の様子。

祖師方も斯くの如くです。

「 皆様と異らず 」

 

 

 

 「 何としても決着を付ける 」

 「 道元の身心脱落をこの身で確かめる 」

 「 趙州を頷かせてみせる 」

素直に自身を省みれば、、

 「 未だ、霧が掛かっている 」

されど、

 「 自分を誤魔化すことも出来ない 」

 

禅修行者は「 自分を誤魔化してはならない 」。

禅修行者は困り切って、困り切って、奈落の底を這いずり

回って、更に困り切って、困り切って頂かなくては

ならないのです。

 

 

畢竟、どうすればよいのだ。

「 自分を誤魔化さない奈落の底の菩提心 」です。

 

 「 坐る 」

 

 「 苦になり切る、迷いになり切る 」       

 「 修行というものは要らない 」

 「 坐ってはいけません 」

 「 何もしなくてもよい 」

の「 坐 」です。

「 坐 」を説ける禅指導者がいない。

 

 

 

困り切って、困り切って、恐る恐る慧可は、

 「 覓心了不可得 」

と、達磨に答えた。

何度も申し上げますが「 達磨安心 」は皆様です。

皆様の日々の様子。

慧可は皆様と同じように「 不安なる心 」を怯え「 安らかな

心を得たい 」と、、

「 慧可は自身に落ち着けていなかった 」

 

「 困り切って、困り切って、疲れ果て、最後の力 」で、

絞り出した慧可の言葉、

 「 覓心了不可得 」

さぞや恐ろしかったのでしょう。

また「 チリンチリン 」か、、

 

達磨の返答は「 爲汝安心竟 」。

 

慧可はさぞや驚いたことでしょう。 

慧可は達磨の「 爲汝安心竟 」に悟りを開いたされています。

よくご存知の有名が祖禄です。

 

 

 

祖禄・公案は「 脳みそが汗をかくほどに参究する問答 」。

発心禅堂は課題を出します。

 

「 不可得 」に「 爲汝安心竟 」。

では、

 「 不可得 」に、何故「 爲汝安心竟 」と言ったのか?

 慧可の「 不可得 」の「 心 」と、達磨の「 爲汝安心竟 」

 の「 心 」は、同じか、否か?

 達磨「 安んぜず 」にも、慧可は悟ったか?

 慧可「 得 」に、達磨は「 爲汝安心竟 」と答えたか?

 慧可「 覓心了不可得 」に「 達磨黙然 」それでも慧可は

 悟ったか?

 「 維摩黙然 」 何故達磨は「 爲汝安心竟 」と発したか?

 

発心禅堂の課題。

脳みそが汗をかくほどに徹底探求して頂きたい。

「 自在 」にお話になる禅友の現れるのを楽しみに待って

います。

発心禅堂は根本を皆様の胸元へフォーシーム。

ブラックホールを突き抜ける「 自身 」をお願いします。

「 アインシュタイン逆さ吊り 」

 

「 道い得るも也三十棒、道い得ざるも也三十棒、速かに道え 」

 

 

 

ここまで申し上げますと、

禅修行は「 厳しい、冷たい、怖い 」との感想を持つので

しょうか。

「 暖かみが感じられない 」と山門を前にクルリと引き返す

者もいます。

 

禅修行の厳しさを心配する方は、

「 胸元へフォーシームでは導けない 」

 

 「 何としても決着を付ける 」

 「 道元の身心脱落をこの身で確かめる 」

 「 趙州を頷かせてみせる 」

の「 奈落の底の菩提心 」では、

 

 「 苦しい人生なんか意味はない 」

 「 痛快でなければ意味はない 」

 「 過去の業障に苦しい 」

 「 知情意がバラバラで苦しい 」

 「 外境がこの身に突き刺さって苦しい 」

 「 自分には魔物が潜んでいて苦しい 」 

 

と、悩み嘆き心が弱った人は救えない。 

 「 何のアドバイスにもならない 」

心が弱った方を心配する人なのでしょうか。

 

 

 

ある本に面白い話がありました。

ロシア人の若い女性が高飛び込みのトレーニングしていた。

人気のないスポーツだが、オリンピックを目指し毎日プールに

高飛び込み。

ある日、板に反動をつけて飛び込もうとした瞬間、足を滑らせ

背中から全身を板にぶつけた。

今でもその傷が背中にある。

 

その時、ウクライナ人のコーチが

 「 いまの飛び込みをもう一度やろう! 」

 「 すぐにやっておかないと、恐ろしくなってしまうから、 」

 

痛みと恐ろしさに立ちすくむロシア人の若い女性に

ウクライナ人コーチは更に、

 

 「 恐怖って何だと思う? 」

 「 ためしに明日、恐怖をお皿にのせてもってきてみてよ 」

 

痛みと恐ろしさに言葉もないロシア人の若い女性に、

 

 「 恐怖って私たちの頭にしかはいっていないものなのよ 」

 

とウクライナ人コーチは告げた。

 ロシア人の若い女性の胸元にフォーシーム ???

 

ロシア人の若い女性は何回も、何回も、何回も、何回も、

 「 プールに高飛び込み

 

 

 

 

 「 苦しい人生なんか意味はない 」

 「 痛快でなければ意味はない 」

 「 過去の業障に苦しい 」

 「 知情意がバラバラで苦しい 」

 「 外境がこの身に突き刺さって苦しい 」

 「 自分には魔物が潜んでいて苦しい 」

と悩み嘆く禅指導者にフォーシーム。

 

「 ためしに明日、苦しいをお皿にのせてもってきてみてよ 」

「 ためしに明日、痛快をお皿にのせてもってきてみてよ 」

 

ねえ、 ねえ、、 明日、 ためしに、 ためしに、、

 「 過去の業障、知情意、外境、魔物 」

ついでに、

 「 眼耳鼻舌身意、因縁果、煩悩、雑念、心の癖 」

 「 今、縁、安楽、本当の事、仮の様子 」

をお皿にのせてもってきてみてよ。

 

「 それってあなたの頭にしかはいっていないものなのよ 」

 

 

そこで、課題です。

ウクライナ人コーチの「 実 」は何か?

 

「 道い得るも也三十棒、道い得ざるも也三十棒、速かに道え 」

 

 

 

 

 

 原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:

https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo

 

「 禅友に贈る書 」 Amazon:URL

http://www.amazon.co.jp/禅友に贈る書-禅解説書-町野-久義/dp/4884695968/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230515546&sr=8-1

 

「 宝鏡三昧普説 」 Amazon:URL

https://www.amazon.co.jp/宝鏡三昧普説-原田-雪溪/dp/4938902052/ref=pd_aw_sbs_14_5/356-0539940-0687737?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4938902052&pd_rd_r=74c9f56a-8ba3-494d-a9a2-32d3bda43381&pd_rd_w=nS0J4&pd_rd_wg=a2Gzv&pf_rd_p=bff

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