「 安楽の法門 」

 

道元の「 普勧坐禅儀 」にある言葉です。

 

「 普勧坐禅儀 」は支那から帰国した道元の最初の書です。

「 身心脱落 」の道元が「 仏祖正伝の大道 」を日本国に

初めて宣言した書です。

「 仏祖正伝の大道 」すなわち「 仏法 」を初めて日本に

示したのです。

「 仏祖正伝の大道 」を「 普勧坐禅儀 」として現れました。

「 坐禅の仕方 」( How to )の書ではありません。

 

「 所謂坐禅は習禅には非ず 唯是れ安楽の法門なり 」

有名です。

引用される文章です。

 

「 坐禅は習禅には非ず 」

 

坐禅に「 目的・状態・結果 」はない。

坐禅に「 求め、得て、なる 」はない。

坐禅に「 意義・意味 」はない。

 

「 坐禅は坐禅なり 」

 

言い方を換えれば、

「 只管打坐 」

これで終わりです。

禅修行は「 坐禅は習禅には非ず 」で、十二分に言い

尽くされています。

 

しかしながら、腑に落ちて頂ける方は少ないです。

やはり解り難いのでしょうか。

 

原田雪渓老師は

 「 苦になり切る、迷いになり切る 」       

 「 修行というものは要らない 」

 「 坐ってはいけません 」

 「 何もしなくてもよい 」

と丁寧に示しています。

 

 

「 坐禅は習禅には非ず 」で、十二分に言い尽くされて

いますので「 唯是れ安楽の法門なり 」は余分ですね。

「 普勧坐禅儀 」に失礼だと、揶揄されそうですが、、

 

余分なのですが、、、

「 唯是れ安楽の法門なり 」は一人歩きを始めます。

「 坐禅・禅修行 」に「 特別な価値 」を付加したいと

考える者が現れます。

「 宗派・宗風・禅風・家風 」を持ち出し、そこに優位性を

示そうとします。

 

道元の真の教えは「 我が宗風・禅風・家風にあり 」。

 

歴史に見る通り、いつの世も同じです。

一神教では宗教間・宗派間の虐殺の歴史です。

 

 

 

「 安楽の法門なり 」

 

一般的には「 唯是れ安楽の法門なり 」は

坐禅を

 「 安楽を得る 」

 「 安楽に成る 」

とした道元の教えと読むのでしょうか。

坐禅は

 「 安楽を得る 」

 「 安楽に成る 」

ことを可能にする「 修行 」なのでしょうか。

坐禅には「 特別な何かの力が潜んでいる 」とする響きが

あのでしょうか。

禅に親しみのない一般の方の読み方です。

 

 「 禅修行をすれば、安楽になれる 」

 「 禅修行は、苦しみから解放され痛快に人生を送れる 」

と期待し、その願いが叶えられる、となるのでしょう。

初心の方はそのような「 夢 」を持って参禅するのでしょう。

逆に「 坐禅・禅修行 」に勧誘し、参禅者を増やす事には

有効かも知れません。

 

 

身も蓋もないと言われそうですが、、、

 「 坐禅・禅修行 」にそのような働きはありません。

 「 坐禅・禅修行 」したからと言って「 特別な事 」は

 ありません。

当然「 特別な人間 」になるわけでもありません。

 

決着が付けば、

 「 元のまま 」

 「 雲収まりて、山露骨す 」

 「 到り得て帰り来たれば別事無し  廬山は煙雨、浙江は潮 」

 「 全ての事象は過ぎ去る 」

 「 眼横鼻直 一毫無佛法 」

 「 何の変哲もないただの道 」

 

しかしながら、

禅指導している方にも腑に落ちている方がいない。

 

 

何度も申し上げていますが、

 「 雲収まりて、山露骨す 」

 「 到り得て帰り来たれば別事無し  廬山は煙雨、浙江は潮 」

 「 全ての事象は過ぎ去る 」

は皆様の「 外境の事 」ではありませんよ。

皆様の日々の様子。

 

 

 「 何の変哲もないただの道 」

 「 元のまま 」

ですから、禅修行は

「 日々の様子の皆様が日々の様子の皆様に落ち着く 」

悟りは

「 日々の様子の皆様が日々の様子の皆様に落ち着く 」

皆様の日々「 まま 」に落ち着いて頂ければよいのです。

 

 「 坐禅は坐禅なり 」

 「 只管打坐は只管打坐なり 」

 「 仏法は仏法なり 」

 

それを道元は

 「 所謂坐禅は習禅には非ず 唯是れ安楽の法門なり 」

と示しています。

 

 

しかし、

「 唯是れ安楽の法門なり 」は更に彷徨い歩きます。

坐禅は

 「 安楽を得る為 」

 「 安楽に成る為 」

の手段・修行。

禅修行は

 「 安楽を得る 」

 「 安楽に成る 」

でなければ「 意味がない 」とする禅指導者です。

 

 「 苦しい人生なんか意味はない 」

 「 痛快でなければ意味はない 」

と叫んでいます。

 

皆様は既にお解りの通り大変な間違いですね。

 「 二元相対認識の禅修行 」

禅修行者はくれぐれもご注意頂きたい。

「 二元相対認識の禅修行 」では永遠に決着はありません。

 

 

道を求める旅に出たのですから、

 「 実在論の禅修行 」

はしてはならない。

人生を掛けて旅に出た「 僧侶 」ならば、特に自身を省みて

頂きたい。

「 二元相対認識の禅修行 」に堕ちていないか。

単なる「 趣味人 」で終わってしまいますよ。

 

 

痛快になりたければ、、、

テレビの前でビール片手に大谷選手の特大ホームランを

待ち続けることです。

時に特大ホームランで「 痛快 」。

時に三打席三振で「 苦しい 」。

 

大谷選手

 「 野球しようぜ! 」

 

 

課題:

 「 狗子に還って仏性ありや也無しや 」

趙州の

 「 無 」

 「 有 」

 「 家々の門前の道は、長安の都に通じている 」

の裏に隠されている「 実 」は何か?

 

 「 野球しようぜ! 」

 

趙州はさぞや目を丸くすることでしょう。

 

 

禅修行者は

 「 苦しい人生なんか意味はない 」

 「 痛快でなければ意味はない 」

 「 諸仏の境界を楽しむ 」

 「 元には戻らない 」

など「 寝言 」を言っている暇はありませんよ。

 

 

 「 元のまま 」

 「 何の変哲もないただの道 」

 

だから、

 「 野球しようぜ! 」

 

 

 

 

 原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:

https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo

 

「 禅友に贈る書 」 Amazon:URL

http://www.amazon.co.jp/禅友に贈る書-禅解説書-町野-久義/dp/4884695968/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230515546&sr=8-1

 

「 宝鏡三昧普説 」 Amazon:URL

https://www.amazon.co.jp/宝鏡三昧普説-原田-雪溪/dp/4938902052/ref=pd_aw_sbs_14_5/356-0539940-0687737?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4938902052&pd_rd_r=74c9f56a-8ba3-494d-a9a2-32d3bda43381&pd_rd_w=nS0J4&pd_rd_wg=a2Gzv&pf_rd_p=bff

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