「 空に見る者は仏道から離れる 」
「 空に見る 」
やはり解り難いのでしょう。
「 空 」は仏法の根本です。
龍樹の「 中論 」は有名です。
当Blogでもお話しています。
龍樹
「 自身からも、
他からも、
その両方からも、
無因からも
どこにおいても、
いつにあっても、
もろもろは生じない 」
見る働きを、離れても、離れなくとも「 見る自己 」は、
存在しない。
見る自己は、存在しないから「 見られるもの」も
「 見る働き 」もともに存在しない。
「 空 」を法理として解って頂ければ、上記の偈は解ります。
「 空 」に、
「 時間、空間、状態、分類、区別、差別、平等、隙間、
境、繋ぎ目、縁 」
はありません。
従って「 空 」に、
「 時間、空間、状態、分類、区別、差別、平等、隙間、
境、繋ぎ目、縁 」
を「 見る 」はファンタジーです。
「 見る 」がファンタジーですから、
「 知る 」もファンタジーです。
せめて「 空 」を法理として解って頂ければ嬉しいのですが、、
やはり、解り難いのでしょう。
解らない方に、
森羅万象や大自然の働きを「 外境 」として、そこに
「 空の様子 」を思い描く方が多いです。
人智を超えた森羅万象・大自然の姿に「 空 」を見るので
しょうか。
これは禅修行者の陥り易い間違いです。
龍樹
見る働きを、離れても、離れなくとも「 見る自己 」は、
存在しない。
見る自己は、存在しないから「 見られるもの」も
「 見る働き 」もともに存在しない。
と丁寧に示しています。
言い方を換えれば、
「 自他不二 」
「 空 」は「 外境 」の森羅万象・大自然ではなく
「 皆様 」です。
森羅万象・大自然は「 皆様 」に溶けています。
「 皆様 」は森羅万象・大自然に溶けています。
皆様に「 外境 」とした「 対象 」は実存しません。
「 外境 」とした森羅万象・大自然はありません。
「 自他不二 」
「 溶けている 」
皆様に、
「 時間、空間、状態、分類、区別、差別、平等、隙間、境、
繋ぎ目、縁 」
はありません。
皆様に如何なる「 実体 」はないのです。
ですから「 見る 」「 知る 」はファンタジー。
「 空に見る 」は不合理です。
「 無我 」
「 掴めない象徴 」。
初心の禅修行者には、まず「 無我 」を法理として解って
頂かなくてはなりません。
「 見る 」「 知る 」もない「 掴めない象徴 」の皆様に、
「 四苦八苦 」すら実存しません。
「 四苦八苦 」を「 見る 」「 知る 」はファンタジーです。
当然「 安楽 」「 本当の事 」「 真理 」の「 存在 」も
ありません。
「 安楽 」「 本当の事 」「 真理 」もファンタジー。
「 一切実存しない 」
「 諸行無常
「 諸法無我 」
「 涅槃寂静 」
しかしながら、腑に落ちる方は少ないです。
解り難いのでしょうか。
「 無我 」は「 禅修行一切 」
「 禅修行一切 」は「 無我 」
初関に「 無字の公案 」を与える「 理 」です。
公案は「 無字 」ひとつで事足りるということです。
ですから、自在な「 思考・論理・活動・検証 」が自由闊達に
出来るのです。
釈尊 「 我と大地有情と同時成道す 」
皆様に
「 時間、空間、状態、分類、区別、差別、平等、隙間、境、
繋ぎ目、縁 」
「 四苦八苦 」
「 安楽 」
「 本当の事 」
「 真理 」
はありませんから「 知る 」は不合理ですね。
「 知るはない 」とは「 主張はない 」。
ですから「 仏法に論証はない 」。
更に解り難いのでしょう。
ここまでお話ししますと、
「 サッパリ解らない、 狐に摘まれたような、、 」
とする方が出て来ます。
初心ならば無理のないことですが、、
何十年も禅指導をしている者にいるのは切ない。
何度も申し上げていますが、禅修行は「 無我 」の実証です。
「 諸行無常 」
「 諸法無我 」
「 涅槃寂静 」
の実証です。
「 空 」を実証して頂ければよいのです。
「 空 」は皆様です。
「 空 」は「 自身で自身を解決出来る道 」。
「 空に見る 」
空に「 眼耳鼻舌身意・因縁果・過去の業障・今 」を見る者は
「 苦しい人生なんか意味はない 」
と嘆く。
「 無我に見る 」
無我に「 心の癖・煩悩・雑念・仮の様子・本当の事 」を見る者は
「 痛快でなければ意味はない 」
と泣きつく。
既に皆様にはお解りの通り、
「 空に見る 」
「 無我に見る 」
は「 二元相対世界 」です。
「 二元相対 」は「 二元善悪 」に流れます。
「 二元相対認識 」には善悪が潜んでいます。
「 二元相対認識 」は「 実在論 」だからです。
「 二元相対認識 」で、
「 空に見る 」
「 無我に見る 」
と「 苦しい人生 」が出て来ます。
すると、相対の「 安楽・痛快な人生 」が出て来ます。
「 知ることはない空・無我 」を「 眺める 」結果です。
禅修行は厳しい。
禅修行者が
「 苦しい人生なんか意味はない 」
「 痛快でなければ意味はない 」
と発すると「 鉄拳・三十棒 」です。
丁寧に真剣に禅修行をしていない証左です。
「 苦しい人生なんか意味はない 」
「 痛快でなければ意味はない 」
と発する者は、
「 諸行無常 」
「 諸法無我 」
「 涅槃寂静 」
の「 法理 」すら、解らないのです。
初関の「 無字の公案 」にすら透過していない。
鉄拳・三十棒が飛んで当たり前ですね。
禅修行者は今一度自身を省みて頂きたい。
「 空に見る 」
「 無我に見る 」
と「 苦しい 」は出て来る。
「 見る、知る 」もない皆様の日々の様子に「 苦しい人生 」
を投影し、怯え、狼狽え、彷徨い歩く。
すると今度は「 安楽 」を得ようと「 痛快でなければ意味は
ない 」と泣きく。
多くの方も「 苦しい 」から逃れ「 安楽 」を得たいと熱望
します。
様々な「 宗教・教え・哲理・戒め 」の成立がそれを
物語っています。
何度も申し上げますが、禅修行は厳しい。
「 空に見る 」
「 無我に見る 」
者は「 自己 」を認め「 他 」を認めた「 実在論者 」。
その二元相対認識は
「 考えれば考えるほど悔しい! 」
「 いつか復習してやる! 」
に流れる。
やがて「 激しい情念の炎 」は、原因を他に求め「 責任転嫁 」
と流れます。
「 大虐殺の権力者の責任転嫁 」は歴史に見る通りです。
「 考えれば考えるほど悔しい! 」
「 いつか復習してやる! 」
すると「 虐殺の歴史 」が残る。
「 責任転嫁 」は自己を認め、他者を認めた「 二元相対認識の
結果 」です。
「 虐殺の歴史 」は二元相対認識、すなわち「 実在論の結果 」
厳しいですが、
「 空に見る 」
「 無我に見る 」
の「 実在論 」を叫ぶ禅指導者は、
「 人を迷わせる、人を狂わせる 」
根本は「 空 」。
龍樹
「 自身からも、
他からも、
その両方からも、
無因からも
どこにおいても、
いつにあっても、
もろもろは生じない 」
仏法に「 人を狂わせ、虐殺の歴史 」ありません。
仏法に、
「 時間、空間、状態、分類、区別、差別、平等、隙間、境、
繋ぎ目、縁 」
「 四苦八苦 」
「 安楽 」
「 本当の事 」
「 過去の業障 」
「 心の癖 」
「 煩悩 」
「 雑念 」
「 仮の様子 」
はありません。
道元は
「 眼横鼻直 一毫無佛法 」
と丁寧に示しています。
禅修行者は「 仏祖正伝の大道 」の実証です。
「 仏祖正伝の大道 」の実証が「 虐殺の歴史 」を終わらせる
のです。
禅修行者は「 実在論の禅修行 」 に堕ちていないか、
自問して頂きたい。
「 実在論の禅修行 」では決して解決しません。
禅修行者に
「 苦しい人生なんか意味はない 」
「 痛快でなければ意味はない 」
なぞと「 寝言 」を言っている暇はないのです。
原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:
https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo
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