皆様は「 無字の公案 」はご承知でしょう。
最も有名な公案です。
趙州和尚、因に僧問う 「 狗子に還って仏性ありや也無しや 」
州云く 「 無 」
臨済宗では最初に参じる公案です。
無門関の無門慧開禅師の評が有名です。
「 三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将って、
通身に箇の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ 」
修行者は「 ムー 」「 ムー 」「 ムー 」と。
師を前に修行者は「 ムー 」と叫ぶことになります。
中には「 ムー 」の発し方を丁寧に示す指導者まで現れます。
初心の方には「 ムー 」「 ムー 」も大切です。
「 ムー 」に集中して頂きます。
数息観・随息観も同じです。
坐に慣れて頂きます。
坐に慣れて頂きましたら、数息観・随息観・「 ムー 」は
忘れて下さい。
何十年も随息観をしている方がいます。
参じている指導者が悪いのです。
坐に慣れましたら「 ムー 」は不要です。
「 無字に参じる 」は「 ムー 」と発することでは
終わりません。
間違った参じ方をしている方が多いです。
専門僧堂の雲水でも「 無字 」は早い方で1年、苦労すると
5.6年になります。
日々の独参で師から絞られての5.6年です。
その絶望から自死する雲水も珍しくありませんでした。
それほどまでに、
「 サッパリ解らない、 狐に摘まれたような、、 」
の日々です。
雲水が「 ムー 」「 ムー 」「 ムー 」と大声を立て、その
あまりの煩さに「 ムー 」を禁じた道場があったと
聞いています。
日々の所作のひとつひとつに「 ムー 」「 ムー 」と声を
出していた雲水もいたようです。
一所懸命なのでしょう。
しかし「 無字に参じる 」とは「 ムー 」と発することでは
終わりません。
「 ムー 」と何年叫んでも「 無字 」は透過出来ないのです。
「 無字 」で有名な笑い話があります。
参禅者が朝、通りがかりの雲水に「 おはようございます 」と、
その雲水は「 ムー 」と発した。
雲水は
「 おはようございます 」
と、返事が出来なかったのです。
趙州の「 無 」が参禅者の「 おはようございます 」と
異ならず、がその雲水には解らなかったのです。
陥り易い間違いです。
趙州は
「 狗子に還って仏性ありや也無しや 」
の問いに、
「 無 」
時に、
「 有 」
時に、
「 家々の門前の道は、長安の都に通じている 」
と。
趙州は自在です。
「 無字 」に参じるとは何なのでしょうか?
趙州は自在なのに、
「 ムー 」「 ムー 」叫んでもいるだけでは埒が開かない。
趙州は自在なのですから、 修行者も自在のはず、、、
疑問が出て来ます。
「 狗子に還って仏性ありや也無しや 」
趙州の
「 無 」
「 有 」
「 家々の門前の道は、長安の都に通じている 」
の裏に隠されている「 実 」は何か?
ヒント
プーチンに「 門前の道、ありや也無しや 」
虐殺された幼な子の「 無 」は「 どこの都に通じている 」。
「 机をコン、扇子をヒラヒラ、カーカー、縁のまま、
桜が散りはじましたね 」
とかではチリンチリン。
脳みそが汗をかくほどに探求して下さい。
スラスラと自在にお話が出来る禅友をお待ちます。
原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:
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