釈尊は菩提樹下に何を悟ったのか?

釈尊の「 何を悟ったか 」の具体的言及はありません。

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

有名な三法印です。

仏法の根本を明らかにしているとされています。

削ぎ落とした短い文です。

結果、解り難い。

 

多くの方は、

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

を大自然の「 姿 」として、自己の外の対称に「 三法印 」を

眺めます。

自身を取り巻く「 大自然 」の神々しさや、神々を信仰の

対象として眺めます。

山岳信仰や修験道とかでしょうか。

大自然の神々しいその姿に畏敬の念を、圧倒的なその雄大な

姿に癒しを感じることになります。

不思議なことではありません。

 

 

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

の「 三法印 」は皆様です。

「 日々の様子 」の皆様です。

一瞬たりとも留まることのない皆様です。

自己の対称にある大自然ではありません。

何故なら、

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

は、ひとつだからです。

そこに繋ぎ目はありません。

 

 「 皆様は大自然に溶けている 」

 「 大自然は皆様に溶けている 」

繋ぎ目はありませんから「 苦・楽・平等・差別・生・死 」も

溶けています。

ですから「 苦・楽・平等・差別・生・死 」は認識することも、

掴むことも出来ない。

 

すなわち「 涅槃寂静 」。

 釈尊 「 我と大地有情と同時成道す 」と宣言しました。

 慧能 「 本来無一物 」と看破しました。

 

禅修行は

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

に腑に落ちて頂ければ解決です。

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

は皆様だからです。

皆様が皆様に落ち着いて頂ければ良いのです。

禅修行は「 自身が自身に落ち着く 」。

悟りは「 自身が自身に落ち着く 」。

道元 「 修証一等 」「 修証不二 」です。

禅修行は

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

の実証です。

言い方を換えれば、

皆様は「 釈尊・龍樹・慧可・慧能・南嶽・道元 」に異ならず。

ですから、

 「 いつでも、どこでも、誰でも可能 」

 「 諦めなければ、ゴールの手前 」

 

見届けましょう。

 

 

 

これで終わりなのですが、、

真剣な禅修行者でもすんなりと腑に落ちる方は少ないので

しょう。

 「 何となく理解は出来るが、、」

禅指導者の中に、

 「 まず三法印を信じなさい 」

とする方が出てきます。

更には

 「 私を正師と信じ、師の言う通りに行じよ 」

と叫ぶ方までも現れます。

信じ切れれば良いのでしょうが「 信は不信の始まり 」。

禅修行に信仰は不要です。

 

「 何となく理解は出来るが、、」からのスタートで良い

ですね。

繰り返しますが、三法印は「 日々の様子 」の皆様です。

他に求めては禅修行になりません。

ひとつだからです。

自身が解決すれば一切は解決します。

 「 雲収まりて、山露骨す 」

 「 廬山は煙雨、浙江は潮
 未だ到らざれば千般恨み消せず
 到り得て帰り来たれば別事無し
 廬山は煙雨、浙江は潮 」

 

 

 「 諸行無常 」

当Blogにお越しの方々はそれぞれの日常を過ごしている

のでしょう。

言い方を換えれば、

 「 全ての事象は過ぎ去る 」 

 「 決して戻ることはない 」

皆様の様子です。

しかし、この言葉に無情や儚さを感じるのかも知れない。

人に「 生・老・病・死 」です。

時に人は、

「 悔しい事ばかり、なぜ妬み苦しむのか、楽の道はないのか 」

と叫ぶことになります。

 

「 諸行無常 」に親しくない方は「 二元相対で分別 」します。

分かり易い例で、

 人には生得的に「 心 」があり「 自己 」と「 外境 」が

 存在し「 内なる魔物 」「 外なる魔境 」と向き合う

 「 意の働き 」が具わっている。

 眼耳鼻舌身は、人に元より具わっている「 外境 」を獲得

 する「 窓口 」。

 その窓口で獲得した「 外境 」に人は「 引っかかる 」。

 引っかかる問題を引き起こすのが「 意 」である。

 「 人類が進化の過程を通して獲得した自己保存本能の自我 」

 の「 意 」である。

 「 過去の業障・心の癖 」である。

 「 過去の業障・心の癖 」を落とせば「 本当の真理 」を知る

 ことが出来る。

 だから「 眼耳鼻舌身 」を磨け。

 

「 二元相対認識 」で「 自己 」や「 外境 」を実体として

認め「 眼耳鼻舌身 」を生得的な実体とした錯覚ですね。

見事なまでの「 似非仏法 」。

「 子供の寝言 」

禅修行にはあってはならないことです。

 

すると、

人は時に「 二元相対認識 」で眼耳鼻舌身の窓口で獲得した

とする「 外境 」が異常に気になり、

 「 考えれば考えるほど悔しい! 」

 「 頭に来る! 」

 「 癪に障る! 」

 「 此畜生! 」

 「 いつか復習してやる! 」

とまでに「 激しい情念の炎 」を燃やす事になります。

 「 外境や他者の刺激 」に「 内なる心 」が反応し、外境や

 他者に「 心を奪われ、持って行かれ 」不安が「 怒り 」に

 なり「 激しい情念の炎 」と燃え上がり、呪縛となるので

 しょうか。

「 二元相対認識 」を「 自明 」とした結果ですね。

「 激しい情念の炎 」は心の病ともされます。

 

 

それでも、

「 全ての事象は過ぎ去る 」 

「 決して戻ることはない 」

更に言えば、

「 留まることはない 」

 

禅修行は

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

の実証です。

「 皆様自身の実証 」です。

 「 自己 」も「 眼耳鼻舌身 」も「 外境 」も「 意 」も実体と

 して存在しない。

 「 自己 」も「 眼耳鼻舌身 」も「 外境 」も「 意 」も掴む

 ことは出来ない。

 「 日々の様子 」も「 皆様 」も実体として存在しない。

 「 日々の様子 」も「 皆様 」も掴むことは出来ない。

 

慧能 

 「 本来無一物 」

龍樹

 「 自身からも、

 他からも、

 その両方からも、

 無因からも

 どこにおいても、

 いつにあっても、

 もろもろは生じない 」

道元

 「 自己をならふといふは、自己をわするるなり 」

 

ですから、

皆様が皆様に落ち着いて頂ければ良いのです。

禅修行は「 自身が自身に落ち着く 」。

悟りは「 自身が自身に落ち着く 」。

道元 「 修証一等 」「 修証不二 」。

 

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

は日々の様子の皆様。

禅修行は

 「 諸行無常 」

 「 諸法無我 」

 「 涅槃寂静 」

のまま。

 

「 日々の様子の皆様が日々の様子の皆様に落ち着く 」

 

それを原田雪渓老師は

 「 苦になり切る、迷いになり切る」

 「 修行というものは要らない 」

 「 坐ってはいけません 」

 「 何もしなくてもよい 」

と丁寧に示しています。

 

改めて、見届けましょう。

 

 

 

 

 原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:

https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo

 

「 禅友に贈る書 」 Amazon:URL

http://www.amazon.co.jp/禅友に贈る書-禅解説書-町野-久義/dp/4884695968/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230515546&sr=8-1

 

「 宝鏡三昧普説 」 Amazon:URL

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