「 空 」
仏法の根本を表した言葉です。
大乗仏教の動きが起きた頃、大乗教典と共に「 空 」が
広がりました。
般若心経が有名です。
「 空 」を徹底したのが龍樹です。
有名な「 根本中頌 」。
中論です。
龍樹は「 説一切有部 」の実在論を徹底批判しました。
その厳しさに中論は「 論争の書 」とも言われています。
今風に言えば龍樹は、
正義感が強く、行動的で、当時のインドを広く遍歴し、
様々な指導者、仏教修行者、論師を相手に論争し、
悉く論破していた。
今では龍樹の実像はよく分かりません。
中論の正式名称は「 根本中頌 」。
「 根本中頌 」は龍樹の著作である事は研究者によって
認められているようです。
難解と言われています。
要点を極めて簡素な詩文で表しているのです。
注釈本の併読が必要なのかも知れません。
「 自身からも、
他からも、
その両方からも、
無因からも
どこにおいても、
いつにあっても、
もろもろは生じない 」
少し具体的に「 眼耳鼻舌身意 」で
「 視覚器官 」があろうと、なかろうと
「 見る自己 」は、存在しない。
見る自己が、存在しないから「 視覚対象 」も
「 視覚器官 」もともに存在しない。
「 視覚対象 」と「 視覚器官 」が、存在しないから、
「 聞く自己 」や「 聴覚器官 」
「 嗅ぐ自己 」や「 嗅覚器官 」
「 味わう自己 」や「 味覚器官 」
「 触れる自己 」や「 触覚器官 」
「 考える自己 」や「 思考器官 」
などは、上記の「 視覚器官の考察 」によって、
既に説き明かされている。
「 眼耳鼻舌身意 」は存在しない。
般若心経
「 五蘊皆空 」
「 無色無受想行識 」
「 無眼耳鼻舌身意 」
「 無色声香味触法 」
如何なる理由を挙げようとも実体を認めた言説は「 不合理 」。
須く実在論は「 不合理 」です。
その論者は「 自己矛盾 」。
龍樹は冷徹までに論敵を批判、否定、論破、突き放します。
その厳しさに龍樹も批判されます。
多くはヨーロッパの研究者からです
「 虚無主義 」「 否定主義 」「 唯名論 」とか。
それほどまでに「 根本中頌 」は解り難いのでしょう。
専門僧堂の雲水も10年20年の歳月が流れますから、
無理のないことかも知れません。
皆様は禅修行において
如何なる理由を挙げようとも実体を認めた言説は
「 不合理 」に堕ちる。
須く実在論は「 不合理 」。
その論者は「 自己矛盾 」。
実在論の「 説法・法話・提唱 」は「 似非仏法 」。
を頭の入れて頂き、ご注意をして頂ければよいです。
ですから、ある禅指導者が叫んでいる
五感「 眼耳鼻舌身 」を磨け。
眼耳鼻舌身とは、人に元より具わっている「 外境 」を
獲得する「 窓口 」。
その窓口で獲得した「 外境 」に人は「 引っかかる 」。
引っかかる問題を引き起こすのが「 意 」である。
「 人類が進化の過程を通して獲得した自己保存本能の
自我 」の「 意 」で「 過去の業障・心の癖 」である。
「 過去の業障・心の癖 」を落とせば「 本当の真理 」を
知ることが出来る。
「 菩提心で今しかない今の一息に徹しいれば、意の発生
する前の無心の禅定を得ることが出来る。
そのうちに向こうから悟りの方からやってくる 」
は寝言。
目眩がするほども実在論。
「 似非仏法 」
皆様には
見る働きを、離れても、離れなくとも「 見る自己 」は、
存在しない。
見る自己は、存在しないから「 見られるもの」も
「 見る働き 」もともに存在しない。
を探究して頂ければ嬉しいです。
言い方を換えれば「 知る 」の探究です。
慧可
「 不可得 」
慧能
「 本来無一物 」
南嶽
「 説似一物即不中 」
道元
「 眼横鼻直 一毫無佛法 」
も同じです。
ですから、禅修行は
「 空 」の実証。
「 諸法無我 」の実証。
すなわち、
「 掴めない象徴の自己 」が「 掴めない象徴の自己 」に
落ち着く。
そして、何度でも申し上げます。
「 いつでも、どこでも、誰でも可能 」
「 必ず、出来ます 」
「 安心して、まっしぐら 」
原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:
https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo
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