仏祖正伝の大道、すなわち「 悟り 」の定義は
「 自身が自身に落ち着く 」
実は大変解り難いのです。
曹洞宗・臨済宗で禅指導をしている方でもなかなか理解が
頂けない。
ましてや他宗派では「 異端・外道 」と言われそう。
ですが「 悟り 」の定義は
「 自身が自身に落ち着く 」
明確にしておきます。
言い方を換えれば、
釈尊
「 我と大地有情と同時成道す 」
です。
更に言えば、
「 既に解決しています 後はそれに気付くだけ 」
ですから、
「 自身が自身に落ち着く 」
「 坐禅は坐禅なり 」
今風に言えば、
「 AはAなり 」
「 A = A 」
「 坐禅 = 坐禅 」
すなわち、
「 坐禅は坐禅に落ち着いている 」
「 AはAに落ち着いている 」
至極、当たり前ですね。
しかしながら「 疑念 」が出て来ます。
人は「 二元相対に何の抵抗もなく 」生活しています。
当然の「 喜怒哀楽・四苦八苦 」です。
様々な「 不安 」です。
釈尊に異ならず。
すると、人は、
自身の「 心 」を修め「 喜怒哀楽 」に振り回されず、更に
「 安心 」を得るために「 四苦八苦 」から解放されたい、
解決したい、と熱望します。
釈尊が城を後にした様子ですね。
釈尊に異ならず。
そして釈尊、菩提樹下の
「 我と大地有情と同時成道す 」
の宣言です。
釈尊に異ならず。
釈尊は、
「 釈尊のみ成道ではなく、大地有情は成道している 」
と看破したのです。
「 大地有情は大地有情なり 」
「 大地有情は大地有情に落ち着いている 」
すなわち
「 大地有情は成道している 」
しかしながら、そう言われても、
二元相対に「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の生活をしている人は
「 不安 」の山。
それが、釈尊が城を後にした様子ではないか。
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の「 不安 」の釈尊は事実ではない
のか。
だから解決したい、解放されたいと、釈尊は城を後にした
のではないのか
それが、道元が支那に渡った事実ではないか。
なかなか解り難いところです。
解らないから探し始めます。
結果、釈尊後の様々な「 論・経典・宗派 」の成立です。
仏祖正伝の大道、すなわち「 悟り 」は
「 自身が自身に落ち着く 」
城を後にした釈尊は、ただ
「 自身 」に頷けなかった。
言い方を換えれば、
「 掴めない象徴の自己 」を釈尊は、掴み放さなかった。
具体的に言えば、
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の「 不安 」のままの釈尊が
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の「 不安 」のままの釈尊に
落ち着けなかった。
だから「 何か 」を探し始めた。
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の「 不安 」のままの釈尊の「 他 」に
何かを探し求めた。
「 何かがあるはずだ 」と城を後にし、探し求める旅に出たの
です。
経験でもそうでした。
釈尊ですら、、 道元ですら、、
修行者はそうするしかないのです。
「 自身が自身に落ち着く 」
原田雪渓老師
「 苦になり切る、迷いになり切る 」
「 修行というものは要らない 」
「 坐ってはいけません 」
「 何もしなくてもよい 」
何度も申し上げていますが、仏祖正伝の大道は
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」の様子から、修行をして
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」を解決し、解放され
「 安心を得る 」ことではありません。
仏祖正伝の大道は
「 我と大地有情と同時成道す 」
「 既に解決しています 」
「 自身が自身に落ち着く 」
ですから、
「 喜怒哀楽・四苦八苦のままに 」
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」のままの皆様が
「 喜怒哀楽・四苦八苦 」のままの皆様に
溶ける。
それを、原田雪渓老師は
「 苦になり切る、迷いになり切る 」
「 坐ってはいけません 」
「 修行というものは要らない 」
「 何もしなくてもよい 」
と示しているのです。
今日、この指導が出来る禅指導者はいない。
禅会の準備をしています。
見届けましょう。
原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:
https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo
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