自分という象徴=「 見る自己 」は、存在しないから、

  「 見られるもの 」も「 見る働き 」も、ともに存在しない。

  「 眼耳鼻舌身意 」は、存在しない故に。

対象という象徴=「 見られるもの 」は、存在しないから、

  「 見る働き 」も「 見る自己 」も、ともに存在しない。

  「 眼耳鼻舌身意 」は、存在しない故に。

掴める働き=「 本当に見る・本当に聞く 」は、存在しなから、

  「 本当の事 」も「 真実 」も「 今 」も「 縁 」も、ともに存在しない。

  「 眼耳鼻舌身意 」は、存在しない故に。

 

皆様のご承知の通り、仏法の根本は

   「 自他不二 」

   「 諸法無我 」

   「 空 」

です。

大乗仏教では「 空 」が強調されています。

龍樹は「 中論 」で説一切有部の「 法の実有 」の実在論を完膚なきまでに

論破し「 空 」を宣言しています。

 

「 空 」で有名な経典に「 般若心経 」があります。

般若心経も祖師方同様、最初に「 結果 」を示しています。

   「 五蘊皆空 」

五蘊に実体( 固有の本性 )は存在しない。

五蘊は「 皆様の様子 」ですね。

   「 皆様の様子に実体はありませんよ 」

実体はありませんので「 無我 」です。

原田雪渓老師は「 自分という象徴は掴めない 」と表現しています。

般若心経は

「 皆様の様子 」を「 五蘊皆空 」と最初に「 結果 」を示しています。

五蘊「 皆様の様子 」に実体は存在しない。

皆様、すなわち森羅万象一切は「 空 」である。

原田雪渓老師は「 掴めない象徴 」と表現しています。

 

何度も申し上げて居ますが、

「 般若心経 」を文献とした「 対象 」として参究してはダメです。

「 自身の事 」として参究して頂かなくては禅修行になりません。

   「 自他不二 」

   「 諸法無我 」

   「 空 」

の参究です。

「 般若心経 」は続きます。

   「 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 」

皆様の様子を示します。

般若心経は更に続きます。

   「 無眼耳鼻舌身意 」

   「 無色声香味触法 」

   「 眼・耳・鼻・舌・身・意 」は存在しない。

   「 色・声・香・味・触・法 」は存在しない。

当然ですね。

      「 五蘊皆空 」

龍樹

    「 自身からも、

      他からも、

        その両方からも、

        無因からも

        どこにおいても、

        いつにあっても、

        もろもろは生じない 」 

  見る働きを、離れても、離れなくとも「 見る自己 」は、存在しない。

    見る自己は、存在しないから「 見られるもの」も「 見る働き  」も

    ともに存在しない。

「 空 」と看破しています。

 

従って、

  「 無眼耳鼻舌身意 」

  「 無色声香味触法 」

  「 眼・耳・鼻・舌・身・意 」は「 空 」である。

  「 色・声・香・味・触・法 」は「 空 」である。

当然です。

仏道の「 イロハのイ 」です。

 

しかしながら、禅指導者がいます。

  「 眼耳鼻舌身 」を磨け。

  「 眼耳鼻舌身 」とは「 外境、外の状況、環境 」を獲得する「 窓口 」で

   ある。

   見て、聞いて、感じて、味わって、触れて、その「 窓口 」の総合的な

   判断で人は生活している。

 

「 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚 」は存在し「 外部環境や外部状況 」も

存在し「 窓口 」として「 外境 」を獲得する「 眼耳鼻舌身 」は存在する。                               

    目眩がしそうな「 デタラメな法話 」。

    典型的な「 実在論 」。

 

根本は、

   「 自分という象徴 」は実存せず

   「 皆様の様子の五蘊 」は実存せず

   「 眼・耳・鼻・舌・身・意 」は実存せず

      「 色・声・香・味・触・法 」は実存せず

 

 自分という象徴 =「 人の働き 」は存在しないから、

          「 私は見る 」も「 本当に見た 」も「 眼耳鼻舌身意 」も

          ともに存在しない。

 対象の物 = 「 迷わされ、苦しめられる 」は、存在しないから、

        「 迷わされ、苦しめられる働き 」も「 迷わされ、苦しめられる

         自己 」もともに存在しない。

 

原田雪渓老師

  >「 眼耳鼻舌身意の人の働きというものによって、私は見る、本当に

  >見た、という 」

  >「 本当には見ていない、本当に聞いていない 」

原田雪渓老師は、

「 掴めない自分という象徴 」が

 >「 眼耳鼻舌身意の人の働きというものによって、私は見る、本当に見た 」

する「 不合理 」を明確に指摘し、

  >「 本当には見ていない、本当に聞いていない 」

と、看破しています。

 

   「 本当に見る・本当に聞く 」は存在しなから、

   「 本当の事 」も「 真実 」も「 今 」も「 仏性 」も「 縁 」も

    ともに存在しない。

    そして「 仏法 」すら、存在しない。

    なぜなら「 眼耳鼻舌身意 」は、存在しないから。

 

では何故、禅指導者が

 五感「 眼耳鼻舌身 」を磨け。

 眼耳鼻舌身とは、人に元より具わっている「 外境 」を獲得する「 窓口 」

 である。

 その「 窓口 」で獲得した本来自然で迷っていない「 外境 」に、人は

 「 引っかかる 」。

 「 引っかかる 」その問題を引き起こすのが「 意 」である。

 「 人類が進化の過程を通して獲得した自己保存本能の自我 」の「 意 」

 である。

 「 過去の業障・心の癖 」である。

 前後裁断し「 過去の業障・心の癖 」を落とせば「 本当の事・本当の真理  」

 を知ることが出来る。

 その「 本当の事・本当の真理 」を体得することが禅修行の目的である。

とする「 実在論・似非仏法 」を叫び続けるのか。

 

「 般若心経 」に

  「 五蘊皆有 」

  「 有眼耳鼻舌身意 」

  「 有色声香味触法 」

と叫ぶのか。

 

  「 掴めない象徴の自己 」の「 窓口 」とする「 眼耳鼻舌身 」は

  「 掴むことが出来るのか 」

 

 

 「 仏祖正伝の大道 」

    悟り

        「 自身が自身に落ち着く 」

     禅修行

         「 苦になり切る、迷いになり切る 」

     坐禅

        「 坐ってはいけません 」

 

 

    禅修行者は改めて確認して下さい。