当Blogでは「 似非仏法 」を
「 目眩がしそうなデタラメの仏法 」
と表現し、批判しています。
批判とは、
「 貴方の言説を厳しく吟味・精査する 」
「 貴方の言説を是としようとも、どうしてもそこには明らかな
不合理がある 」
との指摘です。
何度も繰り返しておりますが、
「 その方の人間性や人格・人柄を問題にしているのではありません 」
その方々も人生を掛け出家し、師にもとで長らく修行したのでしょう。
師の死後、禅指導者としてのその地位と名誉を手にし、指導者然として
来たのでしょう。
仏法は単純です。
ですから、逆に
禅修行は厳しいのです。
その厳しさは
「 見性 」「 悟り 」「 大悟 」を容易に許可するか否かに厳しさの
問題があるのであって、他にあるものではありません。
「 決着を付けたか、否か 」
何度も申し上げています。
「 空・無・悟・覚・法・解脱・脱落・見性・大悟・道 」
は同じ。
初心であれ、古参であれ、指導者であれ、省みて
「 仏法に納得出来ていない 」
と、するなら、
「 空・無・悟・覚・法・解脱・脱落・見性・大悟・道 」
一切に「 納得出来ていない 」ことです。
すなわち、昨日参禅した初心と何ら変わらない様子。
禅修行の厳しいところです。
逆に、禅修行者は「 独参のチリンチリン 」に、
「 仏法に納得出来ていない 」
と素直に自身を省みて頂きたいのです。
禅修行は「 自身に厳しく 」すなわち「 己事究明 」だからです。
「 悲しいかな、未だ正法に納得出来ていない 」
とする禅指導者は
「 空・無・悟・覚・法・解脱・脱落・見性・大悟・道 」
全てが
「 サッパリ解らない 」
状態なのです。
では、何故
「 サッパリ解らない 」
のか?
簡単です。
形式論理学的二元論で解釈しているからです。
自他を実体と認めた二元論、すなわち実在論に
終始しているからです。
分かり易い例が、先にも書きました
目を開ければ、目に触れる、見えてしまう「 もの 」が、
そこに「 有る 」。
それは「 茶碗 」とする認識以前の、考え以前の、流転の縁に
従っている「 もの 」である。
それは「 独立独歩の根源 」である。
そこには、認識以前の、考え以前の、人間的な価値を与える前の、
その「 もの 」には存在している「 絶対条件の尊厳 」がある。
目を開ければ、目に触れる、見えてしまう「 こちら 」も、空。
流転の縁に従っている「 もの 」も、空。
「 こちら 」の空と「 もの 」の空との出会いである。
空と空との出会いはひとつなること。
徹していれば、いつかひとつになり、空を知ることになる。
です。
龍樹を持ち出すまでもなく、少し丁寧に参究して頂ければ、
「 こちら 」も「 こちらの空 」も認識できない。
「 もの 」も「 ものの空 」も認識できない。
「 見る働き 」も「 見る働きの空 」も認識できない。
「 空 」ならば「 空 」すら、認識しないのです。
「 無 」ならば「 無 」すら、認識しないのです。
「 諸法無我 」ならば「 諸法無我 」すら、認識しないのです。
は容易に理解出来ます。
初心の方は「 自他を実体として認識出来ると錯覚 」しているのです。
形式論理学的二元論の世界で学び生活ですから止むを得ないのですが、、
臨済系は「 無字の公案 」を参じるようです。
趙州和尚、因みに僧問う「 狗子に還って仏性有りや也た無しや 」
州云く「 無 」
有名な祖録です。
専門僧堂の雲水も同じように初関「 無字の公案 」に参じるようです。
雲水も「 無字の公案 」に早い方で1年、苦労すると5年とかになります。
有名な話ですが、僧堂で雲水が「 ムー 、ムー 」と声を立て、そのあまりの
煩さに「 ムー 、ムー 」の声を禁じた僧堂があったと聞いています。
中には、日々の所作を「 ムー 、ムー 」と声を出しながら、ひとつひとつ
していた雲水すらいたと聞いています。
初心が陥り易い勘違いですね。
「 無字の公案 」で笑い話があります。
参禅者が朝、通りがかりの雲水に「 おはようございます 」と、
挨拶をしたところ、その雲水は「 ムー 」と発した。
初心なら仕方がないのかも知れないが、、
その雲水は
「 おはようございます 」
「 今日は良い天気ですね 」
と、言えなかったのです。
趙州が発した「 無 」と、参禅者の「 おはようございます 」が
異ならない姿、働きであることが解らなかったのですね。
では「 無字の公案 」に参じるとは何なのでしょうか?
初心の方には、
形式論理学的二元論の世界が錯覚であると知ることです。
自他に隔たりは無い、不二を知ることです。
すなわち、無に溶ける。
禅友は既にお解りの通り、自他に隔たりは無い、不二を知って頂きますと、
禅指導者の「 形式論理学的二元論、実在論の法話 」が
「 目眩がしそうなデタラメの仏法 」
であることが容易に理解出来ます。
厳しいですが、
その禅指導者が初関の「 無字の公案 」すら透過出来ない証左なのです。
ですから、直ぐに
仏法とは
「 自我・我見が無い事 」
禅とは
「 縁とひとつになって我を忘れる事 」
禅修行は
「 自我・我見のない世界に生まれ出る為に行ずる事 」
と、話し始めます。
更に、
「 その事だけになる 」
「 その事とはその事象 」
「 その事象は今しか無いから、今だけになる 」
「 心を持ち出さないように、心意識の運転以前のところになる 」
「 隙を与えないように、悪い心の癖を持ち出さないようにやる 」
「 見る物、聞く物の対象、つまり対象の物や人の縁は無限にある
から煩悩も無限にある 」
そして
「 その煩悩がそのまま真実の様子であることが解った時が悟り 」
「 煩悩が即菩提になる 」
となります。
この言説も見事なまでに形式論理学的二元論であり実在論です。
驚きですが、その禅指導者は
自他に隔たりは無い、不二が解らない。
形式論理学的二元論や実在論の意味すら理解出来ていない。
結果、同じところをグルグル回っているだけ。
その禅指導者は
「 悲しいかな、未だ正法に納得出来ていない 」
と、自身の様子を認めていますから、、
厳しですが、法話の前に
「 自身の修行が先 」
禅修行は「 無字の公案 」で足ります。
「 無字の公案 」に決着が付けば解決です。
禅友は趙州に
「 おはようございます 」
「 今日は良い天気ですね 」
と言える人になって頂きたい。
趙州が発した「 無 」と
「 おはようございます 」
「 今日は良い天気ですね 」
は異ならず、そして邪魔にならない。
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