Kei様、コメントありがとうございます。
返事が遅れました。
いつも当Blogをお読み頂き、感謝申し上げます。

 

ご質問にお答えする前に、基本的な仏法の理解をお願いします。( 一応、、)
仏法の悟りには定義があります。
従って、その定義を間違えますと、とんでもない方向へいってしまいます。
仏法の悟りの定義
  「 自分自身に落ち着くこと 」
  「 既に悟りを開いている自身になる 」
  「 そのまま 」
とか表現します。

 

ご注意頂きたいことは、
悟りを標榜する宗教は古来から、現在まで色々とありますが、悟りの定義を
混同しないことです。
ですから、よく言われる「 悟るべき内容、悟った境地 」等があることは
ありません。

 

>悟りを開かれても、
ではなく、Kei様を始め一切は、「  既に悟りを開いている  」のです。
ここも、確認をしておいて下さい。

 

多くの方は、
  「 凡夫が厳しい修行をし、品格を磨き、煩悩を磨り潰して、煩悩が
   無くなったのが悟りを開いた 」と考えがちです。
  「 輪廻からの解放、体と心のあらゆる束縛・執着から解放 」
とか言います。

 

しかし、これが間違いなのです。

 

残念ですが、様々な仏教関係の本に、悟りとは「 輪廻からの解放、
体と心のあらゆる束縛・執着から解放 」と書かれています。
ですので、多くの方はそのようだ、と理解しています。
すると
  「 煩悩を全部すり潰して、煩悩がなくなることなど、なかなか出来る
    ものではないから、生まれ変わり死に変わり修行し続けることに
    よって、初めて悟りに達することができる 」
に流れてしまいます。
さらに
  「 凡夫は悟りを開くことは到底出来ず、気の遠くなるような未来世に
    しか、悟りに達することなど出来ない 」
になります。
そして最後は
  「 この世で悟りを開くことなぞ不可能なことだ 」
になります。
これは「 修行が足りない 」単なる言い訳です。

 

年を重ねた曹洞宗僧侶が言う、
   【 非才の私などは無い知恵を無理に出さずに、西天東土の仏祖方が
     明らかにした坐禅の事実をもって、只管打坐を信じ従っていく方が
     安心であり、迷わずに行じることができます。】
   【 平常心是道ではありますが、凡才の私などには平常信是道の方か
     良いのです。】
が典型的な例です。
厳しいですが、「 修行が足りない 」単なる言い訳です。
仏法から「 遠して遠し 」なのです。

 

くどいですが、
悟りとは、「 既に悟りを開いているその事実(自分自身)に落ち着けた 」
ことです。


 

ただ、「既に悟りを開いている」と言われてみても、腑に落ちない自己が
います。
従って仏道修行とは「腑に落ちない自己を忘れる」ことになります。
道元禅師の
  「 仏道をならふといふは自己をならふなり、自己をならふといふは
    自己をわするるなり」
です。

 

さて、ご質問の
>悟りを開かれても、焦燥感、不安、寂寥感を感じることがありますか
悟りとは、
  「既に悟りを開いているその事実( 自分自身 )に落ち着けたことです  」
  「  自分自身に落ち着くことです 」
  「 既に悟りを開いている自身になることです 」
当然
  「 悟るべき内容、悟った境地 」
  「 輪廻からの解放、体と心のあらゆる束縛・執着から解放 」
もありません。
言い方を変えれば
  「そのまま」
「そのまま」ですから、何も変わりません。
 
>焦燥感、不安、寂寥感を感じることがありますか
当然、感じます。

 

なぜなら「 焦燥感、不安、寂寥感 」も立派な法だからです。
ただ、そこに「 留まることはない」ということです。
「 縁のまま 」です。 
しかし、ここが分かり難いところです。

 

その為に無理やり言えば、しばらくの間の
  「 仏道をならふといふは自己をならふなり、自己をならふといふは
    自己をわするるなり」
の修行があるということです。

 

Kei様、必ず決着が付きます。
言い訳で、自分自身を誤魔化さなければ、、。

 

すいません。
仕事が忙しくなり、書き込みが遅れます。