酒井得元老師の言説を通して、曹洞宗にある、間違った「考え方」を
お話しました。

 

   「 ただ坐れ 」
   「 坐禅に目的はない 」
   「 悟ることもない 」
   「 坐禅をして悟りを求めることは有所得行だ 」
   「 悟りを求めることは良くないことだ 」
   「 坐禅だけが身心脱落 」

 

この「 考え方 」は酒井得元老師の師、沢木興道老師、更には江戸時代までに
遡ることが出来るようです。
従って、現在の曹洞宗には、かなり広まっている「 考え方 」です。
白隠禅師からも批判された「 無事禅 」とする「 考え 方」です。
       ( 白隠禅も梯子禅と逆批判されていますが、、、  
              白隠禅につきましては後に書く予定です )

 

駒澤大学の仏教関係の教授・研究者や曹洞宗総合研究センターの研究者も、
ほとんどがこの「 考え方 」を信奉していると言って良いかもしれません。
彼らの中に「 坐禅だけが身心脱落 」は間違いだ、とする方がいれば
嬉しいのですが、、。

 

近年では、臨済宗の修行経験を持つ原田祖岳老師は、この「 考え方に 」に
明確に異を唱えた方のようです
  ( 曹洞宗の歴史は詳しくありませんので、他にもいたかもしれません。)
  ( 昭和の曹洞宗にあった「 正信論争 」なる論争も有名です。)

 

従って今日、曹洞宗で
  『 坐禅は悟りを得ることが目的 』
  『 何としても道元禅師の身心脱落を実証することが曹洞宗僧侶の立場 』
  『 身心脱落は行住坐臥、行住坐臥は身心脱落 』
  『 静中の禅、動中の禅 』
を明確にし、「 公案・独参 」を指導している指導者は少なくなりました。

 

驚くべきことですが、その指導者は在家からの出家者が多く、また、その
弟子も在家からの出家者が多いのです。
立派な方が沢山いるようです。
不思議ですが、なぜか世襲の僧侶には少ないのです。
  ( 中には世襲の僧侶でも、「 一生趣味人で終わることは堪え難い 」と
    本物の修行に出た方もおります。)

 

ご存知の通り、日本曹洞宗は国内最大の宗教組織です。
永平寺、総持寺の両本山のもとに多数のお寺を配しています。

 

曹洞宗僧侶になるには、それなりのお寺か、両本山で修行をします。
大学を出ていますと、1、2年の修行で資格を取ることが出来るようです。
世襲の僧侶の多くは、駒澤大学に入学し、本山修行になります。
従いまして最近は、駒澤大学の4年間、本山修行の1、2年間、計5、6年を
同じ仲間と過ごすことが多いようです。
曹洞宗僧侶を志すのですから、それでも良いでしょう。
同期の仲間意識も大切なことでしょう。
本山の辛い修行も、お互いに励まし合い、頑張ること出来るようです。
本山修行は昔( 江戸時代、明治 )と変わらないようです。
「 厳しい 」の一言で終わってしまうようです。
  ( 本山修行の経験がない一般人がお話することではないかもしれない。)

 

ですが、問題があるのです。
聞くところによりますと、
1、2年間の本山修行ですと、順番に役を変わりながら、役の仕事や
「 作法・立居振舞 」を習っていきます。
すると、それだけで、1、2年の時が終わってしまうようなのです。
役の仕事や「 作法・立居振舞 」を習うだけで終わりなのです。
肝心な「 身心脱落を実証する禅修 行」をしないままで、終わりになる
ようです。

 

仏法から見れば「 作法・立居振舞 」も仏法ですので、おろそかには
できません。
しかし、問題はこの
【 作法・立居振舞も仏法です。】が解らずに、本山修行が終わって
しまうのです。
「 作法・立居振舞 」を習うことも大切ですが、修行の目的はあくまでも
【「 作法・立居振舞 」も仏法です。】を実証することです。
すなわち、
  「 行住坐臥は仏法 」
  「 行住坐臥は身心脱落 」
  「 作法・立居振舞は仏法 」
  「 作法・立居振舞は身心脱落 」
を実証することです。

 

しかし、本山修行は「 作法・立居振舞 」を習うだけで終わりなのです。
何度もお話していますように「 実証する 」と「 習う 」は全く別なのです。

 

さらに、そこには曹洞宗にある「 考え方」
   「 ただ坐れ 」
   「 坐禅に目的はない 」
   「 悟ることもない 」
   「 坐禅をして悟りを求めることは有所得行だ 」
   「 悟りを求めることは良くないことだ 」
   「 坐禅だけが身心脱落 」
がありますから、
曹洞宗の若い修行僧は二重に「 仏法から離れる 」ことを、強いられて
いるのです。
今日の曹洞宗の若い修行僧は「 作法・立居振舞 」を習い思えることで時間が
切れ、さらには間違った「 考え方 」を刷り込みされることにより、
結果、仏法からどんどん離れているのです。
人生を曹洞宗僧侶として旅立つ若者を「 仏法から遠して遠い 」世界に
引きずり込んでいるのです。
これでは、あまりにも若い曹洞宗僧侶が可哀想です。


 

これは若い修行僧が悪いのではありません。
現在の曹洞宗の指導者層に責任があります。
特に、駒澤大学、曹洞宗総合研究センター等の研究機関に席を置く研究者・
指導者に責任があります。
彼らは仏法を西洋哲学・文献学レベルの研究手法を( 二元相対世界で )
使って研究しています。
何度もお話していますように、これでは「 諸法無我 」になりません。
仏法から離れるだけです。
しかし、彼らは無自覚に、二元相対世界で、西洋哲学・文献学レベルの研究手法
で仏法を研究しているのです。
結果、そこにはとんでもない解釈が出て来ます。
その解釈が
   「 ただ坐れ 」
   「 坐禅に目的はない 」
   「 悟ることもない 」
   「 坐禅をして悟りを求めることは有所得行だ 」
   「 悟りを求めることは良くないことだ 」
   「 坐禅だけが身心脱落 」
の理論的支えになっているようです。

 

速やかに、これを正しませんと「 仏法から離れた若い曹洞宗僧侶 」が、
これからも育てられることになります。

 

すると、仏法から離れたまま年を重ねた曹洞宗僧侶は、自身のHPやBlogで、
以下のような考えを書くようになります。
  【 非才の私などは無い知恵を無理に出さずに、西天東土の仏祖方が
    明らかにした坐禅の事実をもって、只管打坐を信じ従っていく方が
    安心であり、迷わずに行じることができます。】

 

  【  平常心是道ではありますが、凡才の私などには平常信是道の方か
     良いのです。】

 

祖師方が実証したその事を信じることで安心を得ることができ、日々それに
添う生活を行ずることが信の道であり、私には合っている、と考えている
のかも知れません。
謙虚な仏様のような僧侶を感じます。
しかし、キリスト教のような絶対神を仰ぐ宗教ならばともかく、曹洞宗僧侶
ではあってはならないことです。
何度もお話ししていますように、【 信じ従っていく 】は、その対象を
認めているからです。
二元相対世界にいます。
「 諸法無我・仏法 」から離れています。

 

厳しく言えば、
  「 行住坐臥は仏法 」
  「 行住坐臥は身心脱落 」
  「 作法・立居振舞は仏法 」
  「 作法・立居振舞は身心脱落 」
が解らないから、

 

仕方なしに「 祖師方が実証したその事を信じ る」ことで、自身を誤魔化して
いるのかもしれない。
多分、決着の付いていない自身を眺め、内心忸怩たるものがあるのでしょう。
しかし、如何ともしがたく、「 西天東土の仏祖方が明らかにした坐禅の
事実をもって 」を信じることで、自身を誤魔化し、安心を得ようとして
いるのでしょうか。


 

もし、自分の息子を曹洞宗僧侶にされる親が当Blogをお読みていましたら、
愛する息子には、この間違いを繰り返さず「 仏法から離れ僧侶 」に
決してしないことです。

 

『 坐禅は悟りを得ることが目的 』と明らかにし、「 身心脱落を実証するのが
曹洞宗の立場 」と示し、本来の禅修行をしている専門僧堂での、5年10年の
修行を課してください。
それが、愛する息子のためです。