先の酒井得元老師 2で、酒井得元老師について決着が付いていない、
と書きました。
禅僧としては仏法から離れています。

 

僧侶でもない一般人が、酒井得元老師のお話する非礼をお許し頂きます。
また、お亡くなりなった人の話より、今いる方の話をされた方がよいのでは、
との意見もあることでしょう。
酒井得元老師の話が終わりましたら、曹洞宗の論客ともお話をすることに
なります。
誤解を避けるために、
酒井得元老師の人間性・人格・生き様を問題視しているのではありません。
  (人間性・人格・生き様もありませんが、一応分かりやすく、、)


 

「 禅の指導者を気取り、奇妙な使命感で、、、」「 寺院の維持管理、
檀務の実際も知らない者が、、」とかの指摘を受けそうです。
仏教が「 苦の滅 」が目的ならば、細かな方法論などは「 どうだって良 い」
はずだ、との意見もあるかもしれない。
また、他には理解しがたい基準を持ち出し「 自分たちのやってきた禅修行だけが 」
釈尊本来の仏道修行だ、とのマニアチックな観念を振りかざし、
と考える方も現れるかもしれません。

 

酒井得元老師は駒澤大学で長らく指導されていましたの、学んだ曹洞宗僧侶は
沢山います。
結果、今日の曹洞宗には「 間違った仏法 」が是とされて広まっています。
すると今度は、曹洞宗の一僧侶である酒井得元老師の「 考え方 」について
お話することは、彼に学んだ若い曹洞宗僧侶の芽を摘んでしまいかねない、
との批判があるかもしれません。
当然、彼に学んだ若い曹洞宗僧侶の人間性・人格・生き様を問題視している
わけではありません。

 

ただひとつ、禅僧として酒井得元老師は「間違った仏法」を説いている、
と申し上げているだけです。
ただ、酒井得元老師は実体を認めていますので、厳しいですが仏法から
見れば0点です、と申し上げています。


 

では、さらに見ていきましょう。
****************原文**

 

ここで坐禅にご登場を願わなければならない。
実は坐禅の修行は「無所得、無所悟」をつとめることであった。
つまりこれは人生を放棄して、尽十方界真実人体を実践することで
あったのである。
「無所得」ということは、どんなに修行しても、収穫がないということ、
「無所悟」は悟ることがないということである。
結局、人体の一表情である人生を、かく修行することによって、これを超えて
尽十方界真実を実修し実証することであった。
このようなことを可能にする唯一のものが坐禅であったというのである。
ゆえに坐禅は、精神統一でも瞑想することでもあってはならなかった。
それでは「無所得、無所悟」を実際どういうようにすればよいのかというと、
道元禅師の『正法眼蔵』生死の巻のつぎの言葉を紹介しよう。
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、
こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。ということである。
これは外ならぬ坐禅の「無所得、無所悟」の修行の実態であった。
ここでわれわれには、ただ正身端坐することだけが要求されるのである。
正身端坐を厳密に行ずることが「無所得、無所悟」の行であった。
かくて正身端坐することが、真実の仏を修行することであったのである。
正身端坐には自分の欲するもの、追求などは一切放棄され、仏が仏である
ための修行であったので、坐禅のことを仏行といわれている

 

****************原文**


 

酒井得元老師は「 坐禅だけが仏行 」とみています。
言い方を変えれば、それ以外の「人の有り様・姿」は仏行ではない、
とみているのです。
二元相対世界で、明らかに坐禅を実体としてみています。

 

実はこの「 考え方 」は酒井得元老師が考え出したことではありません。
その師「 宿無し興道 」で有名な沢木興道老師からも、遡れば江戸時代から
ある考え方です。
「 無事禅 」と批判され続けた考え方です。
「 坐禅だけが身心脱落 」とも言われます。

 

二元相対世界で、人の有り様・姿を眺め、

 

【 つまりこれは人生を放棄して、尽十方界真実人体を実践することで
   あったのである。 】
【 このようなことを可能にする唯一のものが坐禅であったというのである。 】

 

その行=【 つまりこれは人生を放棄して、尽十方界真実人体を実践することで
あったのである。 】(その“行”は、間違えですが、、、)が坐禅に他ならず、
その行だけが仏行であると言うのです。

 

その坐禅は【「無所得、無所悟」の修行の実態であった。】

 

そして、
【「 無所得 」ということは、どんなに修行しても、収穫がないということ、
「 無所悟 」は悟ることがないということである 】
とすすみます。

 

【 ここでわれわれには、ただ正身端坐することだけが要求されるのである。】
【 正身端坐を厳密に行ずることが「無所得、無所悟」の行であった。】
【 かくて正身端坐することが、真実の仏を修行することであったのである。】
【 正身端坐には自分の欲するもの、追求などは一切放棄され、仏が仏である
  ための修行であったので、坐禅のことを仏行といわれている。】


 

  「 ただ坐れ 」
  「 坐禅に目的はない 」
  「 悟ることもない 」
  「 坐禅をして悟りを求めることは有所得行だ 」
  「 悟りを求めることは良くないことだ 」
  「 坐禅だけが身心脱落 」
の「 考え方 」に流れます。 


 

禅宗である曹洞宗に、禅とはかけ離れた、似て非なる禅の「 考え方 」が
あるのです。
仏法から「 遠して遠し 」なのです。
他より「 悟りを、仏法の根本を、明らかにする修行 」をするはずの曹洞宗に
間違った「 考え方 」があるのです。
結果、曹洞宗僧侶より、禅に関心を持つ一般人の方が、はるかに真剣に道を
探し求めています。


 

坐禅すら実体はありません。諸法無我故に
ですから、一切が仏行です。諸法無我故に
行住坐臥が仏行です。諸法無我故に
すなわち、一切が身心脱落、行住坐臥は身心脱落、身心脱落は行住坐臥。諸法無我故に

 

ですから、
酒井得元老師の【 かくて正身端坐することが、真実の仏を修行することで
あったのである。】は明らかに間違えです。
繰り返しますが「 坐禅だけが身心脱落 」とする「 考え方」は
明らかに間違えです。
そして、坐禅は悟りを開くことが目的です。
明確にしておきます。

 

酒井得元老師 4に続きます。