magagiok様 こんにちは
karupapa21seiです。
karupapa21seiです。
コメントありがとうございます。
長文になりますので、こちらに書き込みをします。
長文になりますので、こちらに書き込みをします。
お答えします。
申し上げた「 仏法論争 」の論争は「 論理学的論争 」のことです。
仏法から見れば「 論理学 」は成立しませんので「 論理学的論争 」は
申し上げた「 仏法論争 」の論争は「 論理学的論争 」のことです。
仏法から見れば「 論理学 」は成立しませんので「 論理学的論争 」は
起こり得ないのです。
なぜなら「 諸法無我 」だからです。
なぜなら「 諸法無我 」だからです。
仏法について論争=「 論理学的論争 」が発生することは矛盾です。
論争をしている当事者が仏法からはなれている証拠です。
修行をしていない証拠になります。
論争をしている当事者が仏法からはなれている証拠です。
修行をしていない証拠になります。
>禅修業における悟りの定義とされる『 自分自身に落ち着くこと。
>既に解決している自分に落ち着くこと。』について、それが学術的に
>解明できるか、それとも実践で、現実の体験によってしか解明
>できないか、そこが争点なのでしょうか。
>できないか、そこが争点なのでしょうか。
曹洞宗にある「 正信論争 」はこのあたりになるでしょう。
>その悟りの定義そのものも争点になっているのでしょうか。
駒澤大学や研究センターの研究者はこのあたりでしょう。
>悟りの定義には異存がなくて、それを言葉で解明できるか、それとも
>実体験でしか解明できないか、
>という論争であるなら、それは成り立つのではないだろうか、
>という論争であるなら、それは成り立つのではないだろうか、
【 それを言葉で解明できるか 】は
二元相対世界で、実体を認め、言葉の絶対性( 実体 )を認めて、論理学が
二元相対世界で、実体を認め、言葉の絶対性( 実体 )を認めて、論理学が
成立する、前提が必要です。
そのようなことはないのですから、論争は起こり得ません。
そのようなことはないのですから、論争は起こり得ません。
ただ、仏法に実体を認めた話があるとすると、そこには矛盾があると
言っているだけです。
仏法に主張はありませんから、、。
仏法に主張はありませんから、、。
そして、悟りの定義=解脱は、結局のところ自身が決着を付けないと
解りません。
仏法の解明=解脱の実証は、修行するしかないのです。
その修行は「そのものになる修行」のことです。
仏法の解明=解脱の実証は、修行するしかないのです。
その修行は「そのものになる修行」のことです。