「 釈尊は縁起説を悟った 」と公言する研究者が駒澤大学にいます。

それは
 「  ” 仏教とは縁起説である ” と見なすことは、

  仏教の伝統的理解においても、また近代的な仏教学においても、

  ごく一般的なことだからである 」
と理由つけています。

彼らは「 坐禅は仏教ではない 」とまで言っているようです。
厳しく言えば、恣意的な解釈の【 子供のおとぎ話 】にすぎません。
論ずるに値しません。
当然「 釈尊は縁起説を悟った 」は間違いです。

根本は、縁起すら認めることは出来ません。
なぜなら、縁起説を認めたら「 諸法無我 」にならないからです。

ですか、教典には縁起の言葉が氾濫しています。
縁起を研究している研究者もいます。
従って、多くの研究者も僧侶も釈尊が説いたことは縁起であると考えます。
すなわち、仏教は縁起説を説いた教えであると。
多くの研究者も、教典にも「 釈尊は縁起を説いた 」とありますので、

その世界に自らを置けば「 正統派の研究者 」と評価される安心を得ようと

しているのかもしれない。

しかし繰り返しますが「 釈尊は縁起説を悟った 」は間違いです。
なぜなら、縁起説を認めたら「 諸法無我 」にならないからです。
森羅万象に実体が無いのに「 釈尊は縁起説を悟った 」とすると、縁起説を

実体として認めることになるからです。
簡単に言えば、論理矛盾です。
仏法に論理矛盾はあってはならないことです。

しかし、なかなか理解させないところです。


縁起説は「 悟・覚・法・解脱・脱落・空・無・見性・大悟・道 」の単なる

説明表現です。
そして、その「 悟・覚・法・解脱・脱落・空・無・見性・大悟・道 」ですら

説明でしかありません。
ですから「 釈尊は縁起説を悟った 」なぞ、あるわけがないのです。

では「 縁起説 」という表現で、単に説明したにすぎない

    「 悟・覚・法・解脱・脱落・空・無・見性・大悟・道」

が、さらに説明をしているのは何なのでしょうか。

         (  詳しくは「 禅友に贈る書 」にあります )