ケン太「前回は、難しかったね」
諏訪「反省している……って、その前に手紙が一通」
神崎「差出人の名前がありませんね」
諏訪「えぇ、何々?……『その3人だと、会話がつまらない。 ガンさんを入れろ』??」
ケン太「…つまらないかな?」
??「つまらんぞい!」
神崎「っ! 誰?」
岩田「ファッファッファッ、岩田参上!」
諏訪「ガンさん!」
神崎「つまらないとはご挨拶ですね」
岩田「説明役が1人にボケ二人じゃ、バランス悪かろう」
神崎「誰がボケ役か」
諏訪「まぁ、良い。 じゃあもう一人のボケ役も参加したまえ」
岩田「誰がボケ役か」
…
諏訪「さて…今回はまず、常松以後の尾張守護代の変遷を、羅列してみようか」
織田常松(教広)【1402頃~1428】
↓
織田朝長【1428~1429】
↓
織田教長【1429~1431】
↓
織田淳広【1431~1435頃】
↓
織田右長【1435頃~?】
↓
織田郷広【?~1441】
↓
織田久広【1441頃~1454頃】
↓
藤原久嘉【1454】
↓
織田敏広【1454~1459頃】
↓
織田輔長【1459~1460頃】
↓
織田敏広【1460~1476】
↓
織田敏定【1476~1495】
…(以下略)
ケン太「へ~、割とはっきり判ってるんだね」
岩田「ただし、史料によっては受領名しか書いてなかったりもするの」
諏訪「そう、だからある程度は、予測も含めて書いた。 今回説明する人物は赤字にしておいたよ」
ケン太「赤字は、この事務所の経営状態でしょ?」
諏訪「やかましい」
…
諏訪「さて今回は、常松の次の代の話だね」
ケン太「常松政権は、どの程度続いたの?」
諏訪「応永九年(1402)~三十五年(1428)の、およそ26年間だ」
神崎「ずいぶんと長期政権でしたね」
岩田「まず、前年末に常竹が史料から姿を消し、『織田勘解由左衛門尉朝長』という人物が、常竹の後の守護又代に就任する」
応永三十四年(1427)末
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田常松
尾張守護又代 織田朝長
諏訪「そして翌年(1428)閏八月に、常松が病に倒れた事が『満済准后日記』に書かれているね」
(正長元年閏八月)六日、(中略)今朝大館入道来、相語云、武衛下国有増事堅固荒説之由存処、跡形有事候也、其故ハ先日織田伊勢入道所労以外聞、為訪遣使者候キ、其時織田弾正出逢密々ニ物語使者候事ハ…(後略)
神崎「あれ? 『織田弾正』という名が書かれてますね」
諏訪「そう、実はこの時、病中の伊勢入道(常松)の元にいたのが、信長の先祖と思われる織田弾正だ」
ケン太「へ~」
正長元年(1428)末頃
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田朝長
尾張守護又代 織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
神崎「あれ? 守護又代が3人になってますよ?」
諏訪「ここ重要。 後でまた出るよ」
ケン太「でも、翌年に『教長』という人に守護代が替わってるよね」
諏訪「さて、そこで今回の考察だが…」
神崎「はい」
諏訪「俺はこの『教長』は、(=朝長)だと思うんだ」
ケン太「えっ! 朝長と教長は同一人物って事?」
神崎「てっきり教長の『教』は、斯波義教からの一字拝領かと…」
岩田「普通に考えたら、そうじゃの」
諏訪「考えてほしい。 朝長と教長は、共に偏諱『長』が同じで、しかも同じ『勘解由左衛門尉』を名乗っている」
神崎「はい」
諏訪「短期間で、同じ名乗りを2人が名乗っているとしたら、先代が死んだ場合に限られると思うが…」
岩田「そういえば、朝長が死んだ記事は、どこを見ても見当たらないの」
ケン太「なるほど、現役守護代の死亡記事なら、史料に残りそうだよね」
諏訪「しかも仮に別人ならば、なぜ主君から一字を拝領しなかった朝長が、拝領したと思われる教長より先に、守護代になれる?」
岩田「う~む、そう言われると…」
神崎「で…でも、朝長は先代の主君の偏諱『教』を、勝手に名乗ったら、まずいのでは?」
諏訪「そう、勝手には名乗れない。…だから朝長は『教』を一字拝領したんだと思われるんだ」
神崎「???」
ケン太「…さっき、『朝長は一字を拝領をしなかった』って言ってたじゃん」
岩田「ワシも何を言ってるか判らんの」
諏訪「俺は、『朝長は主君から一字を拝領しなかった』と言ったはずだ」
神崎「へ?」
ケン太「じゃ、じゃあ誰から?」
諏訪「尾張守護代にとって、主君以上の上位権力と言ったら?」
岩田「そりゃあ将軍じゃ。 ……あ!」
ケン太「征夷大将軍、足利義教!」
諏訪「ご名答」
岩田「そ、そりゃ無理な話じゃ」
神崎「陪臣(家臣の家臣)が、将軍から一字拝領だなんて…」
諏訪「…では、年表を追って説明するか」
応永三十五年~正長元年(1428)
閏3月23日、常松、又代織田朝長に書状を出す
8月6日、常松、病に臥す
朝長この頃守護代か?
正長二年~永享元年(1429)
3月15日、足利義宣、将軍宣下を受けて義教と改名
4月29日以前、朝長、織田因幡入道・矢野民部入道・坂井彦左衛門入道を又代に指名
8月24日、斯波義淳、将軍の求めにより管領就任
秋頃、朝長、教長に改名
永享二年(1430)
9月某日、義淳、管領辞任を求めるが認められず
永享三年(1431)
3月上旬、この頃、織田淳広守護代就任。併せて又代に柏尾十郎左衛門入道・岡三郎右衛門尉を指名
6月6日、将軍義教、甲斐・織田らに義淳の管領辞任を翻意させるよう命じる
永享四年(1432)
10月10日、義淳、管領辞任
永享五年(1433)
12月1日、義淳没。弟義郷が跡を継ぐ
永享六年(1434)
7月6日、淳広、岡三郎右衛門に遵行状を出す
8月11日、淳広、織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦(左)衛門入道の三人に対し幕府からの指示を命じる
永享七年(1435)
12月14日、元阿と右長、織田彦九郎・矢野石見入道・坂井彦衛門入道の三人に幕府からの指示を命じる
ケン太「…この年表の意味する所は?」
諏訪「先に宣言しておく。 俺は、常松以来の『~広』の系図が織田伊勢守家。 朝長以降の『~長』の家を織田大和守家という視点で語っている」
【織田伊勢守家系図(推定)】
教広(常松)
┃
淳広
┣郷広━敏広
┗久広
【織田大和守家系図(推定)】
朝長(教長)
┣右長
┗久長━敏定
岩田「つまり、朝長は伊勢守家から尾張守護代を奪ったと?」
諏訪「そう。その手段として、将軍足利義教に近づいたんだと思う」
神崎「将軍の側に、メリットはあったんですか?」
諏訪「そもそも義教は、当時の政治が足利義持の時代以降、有力守護らの合議制になっていた事に憤慨していた」
ケン太「ほう?」
諏訪「そこで、権力を奪い返す手段の手始めとして、管領に斯波義淳を指名したんだ」
神崎「斯波義淳は優秀だったんですか?」
諏訪「逆。 無能…というか弱気に過ぎる人だったから、御しやすいと踏んだんだろう」
岩田「そういえば、将軍の使者に対し、斯波家臣の甲斐・朝倉・織田らが、
武衛管領職事非器
(うちの主人はあかん子なんで勘弁してや)
と、断ってきたと『満済准后日記』に書かれておるの」
諏訪「そう。 一方で織田朝長は、水面下で義淳を管領に推戴する事を条件に、将軍の後援を約束してもらったもの…と考えている」
ケン太「なんで?」
諏訪「義淳が管領になった前後で、朝長は教長に改名しているからだよ」
神崎「なるほど…」
岩田「そうなると、伊勢守家の淳広は面白くないの」
諏訪「そうだね。 だから伊勢守家は、義淳側についたんだと思う」
ケン太「年表を見ると、義淳は再三、管領を辞めたがってるよね」
諏訪「そりゃそうだ。 義淳が管領になって以降、守護大名らの合議の決済文書である管領奉書が、一切発給されていないんだ」
岩田「替わって、将軍自らの御判御教書や奉行人連署奉書で、ほぼ全ての政治が決裁されておるからの」
神崎「義淳は将軍に顔をつぶされ、諸侯に顔が立たない状況だから、早く管領を辞めたかった?」
諏訪「そこで義淳と淳広は将軍に対し、管領の辞意撤回と引き換えに、守護代への介入を止めるよう、説得したんだと思う」
ケン太「それに将軍は応じた…んだね?」
諏訪「おそらくね」
神崎「そこで、教長が守護代から降ろされて、淳広が守護代になったんですね」
永享三年(1431)春頃
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田淳広
尾張守護又代 柏尾十郎左衛門入道・岡三郎右衛門尉
ケン太「守護又代まで替わったね」
岩田「尾張守護代職が伊勢守家に戻って、淳広も安堵したじゃろう」
諏訪「2年間はね」
神崎「えっ?」
諏訪「淳広の思惑は意外な所から綻ぶ。 永享五年(1433)12月、主君斯波義淳が死んでしまうんだ」
ケン太「あらら…」
神崎「でも、何か伊勢守家に不安要素はあるんですか?」
諏訪「大ありだよ。 当時の守護大名の家督は、将軍に決める権限があった事から…」
岩田「義淳の弟義郷は、斯波家当主にしてもらった手前、将軍義教に逆らえなくなってしまったんだ」
ケン太「そこで将軍義教は織田淳広に対し、リベンジに出る訳だね」
諏訪「そう。 まず、淳広の子飼いの守護又代を更迭させて、教長時代の守護又代3人を復職させると…」
永享六年(1434)7月頃
尾張守護 斯波義郷
尾張守護代 織田淳広
尾張守護又代 織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
岩田「そうか…その後、淳広を更迭して、教長の子と思われる『右長』を守護代に仕立てたんじゃな」
諏訪「ちなみに、右長の発給文書に一緒に連署している『元阿』という存在は、『元阿弥』…すなわち教長の出家名と思われるね」
永享七年(1435)12月頃
尾張守護 斯波義郷
尾張守護代 織田右長
尾張守護又代 織田彦九郎・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
神崎「なんか…ドロドロですね」
ケン太「前回以上に難しい上、長いよ!」
諏訪「…すまん。 会話形式だと、どうしても説明スピードが遅くなるんでな」
岩田「次回は、応仁の乱辺りかの?」
諏訪「あぁ、一気に時代を進められるといいね」
ケン太「ありがとうございました~。 …あぁ肩凝った」
~続~
諏訪「反省している……って、その前に手紙が一通」
神崎「差出人の名前がありませんね」
諏訪「えぇ、何々?……『その3人だと、会話がつまらない。 ガンさんを入れろ』??」
ケン太「…つまらないかな?」
??「つまらんぞい!」
神崎「っ! 誰?」
岩田「ファッファッファッ、岩田参上!」
諏訪「ガンさん!」
神崎「つまらないとはご挨拶ですね」
岩田「説明役が1人にボケ二人じゃ、バランス悪かろう」
神崎「誰がボケ役か」
諏訪「まぁ、良い。 じゃあもう一人のボケ役も参加したまえ」
岩田「誰がボケ役か」
…
諏訪「さて…今回はまず、常松以後の尾張守護代の変遷を、羅列してみようか」
織田常松(教広)【1402頃~1428】
↓
織田朝長【1428~1429】
↓
織田教長【1429~1431】
↓
織田淳広【1431~1435頃】
↓
織田右長【1435頃~?】
↓
織田郷広【?~1441】
↓
織田久広【1441頃~1454頃】
↓
藤原久嘉【1454】
↓
織田敏広【1454~1459頃】
↓
織田輔長【1459~1460頃】
↓
織田敏広【1460~1476】
↓
織田敏定【1476~1495】
…(以下略)
ケン太「へ~、割とはっきり判ってるんだね」
岩田「ただし、史料によっては受領名しか書いてなかったりもするの」
諏訪「そう、だからある程度は、予測も含めて書いた。 今回説明する人物は赤字にしておいたよ」
ケン太「赤字は、この事務所の経営状態でしょ?」
諏訪「やかましい」
…
諏訪「さて今回は、常松の次の代の話だね」
ケン太「常松政権は、どの程度続いたの?」
諏訪「応永九年(1402)~三十五年(1428)の、およそ26年間だ」
神崎「ずいぶんと長期政権でしたね」
岩田「まず、前年末に常竹が史料から姿を消し、『織田勘解由左衛門尉朝長』という人物が、常竹の後の守護又代に就任する」
応永三十四年(1427)末
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田常松
尾張守護又代 織田朝長
諏訪「そして翌年(1428)閏八月に、常松が病に倒れた事が『満済准后日記』に書かれているね」
(正長元年閏八月)六日、(中略)今朝大館入道来、相語云、武衛下国有増事堅固荒説之由存処、跡形有事候也、其故ハ先日織田伊勢入道所労以外聞、為訪遣使者候キ、其時織田弾正出逢密々ニ物語使者候事ハ…(後略)
神崎「あれ? 『織田弾正』という名が書かれてますね」
諏訪「そう、実はこの時、病中の伊勢入道(常松)の元にいたのが、信長の先祖と思われる織田弾正だ」
ケン太「へ~」
正長元年(1428)末頃
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田朝長
尾張守護又代 織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
神崎「あれ? 守護又代が3人になってますよ?」
諏訪「ここ重要。 後でまた出るよ」
ケン太「でも、翌年に『教長』という人に守護代が替わってるよね」
諏訪「さて、そこで今回の考察だが…」
神崎「はい」
諏訪「俺はこの『教長』は、(=朝長)だと思うんだ」
ケン太「えっ! 朝長と教長は同一人物って事?」
神崎「てっきり教長の『教』は、斯波義教からの一字拝領かと…」
岩田「普通に考えたら、そうじゃの」
諏訪「考えてほしい。 朝長と教長は、共に偏諱『長』が同じで、しかも同じ『勘解由左衛門尉』を名乗っている」
神崎「はい」
諏訪「短期間で、同じ名乗りを2人が名乗っているとしたら、先代が死んだ場合に限られると思うが…」
岩田「そういえば、朝長が死んだ記事は、どこを見ても見当たらないの」
ケン太「なるほど、現役守護代の死亡記事なら、史料に残りそうだよね」
諏訪「しかも仮に別人ならば、なぜ主君から一字を拝領しなかった朝長が、拝領したと思われる教長より先に、守護代になれる?」
岩田「う~む、そう言われると…」
神崎「で…でも、朝長は先代の主君の偏諱『教』を、勝手に名乗ったら、まずいのでは?」
諏訪「そう、勝手には名乗れない。…だから朝長は『教』を一字拝領したんだと思われるんだ」
神崎「???」
ケン太「…さっき、『朝長は一字を拝領をしなかった』って言ってたじゃん」
岩田「ワシも何を言ってるか判らんの」
諏訪「俺は、『朝長は主君から一字を拝領しなかった』と言ったはずだ」
神崎「へ?」
ケン太「じゃ、じゃあ誰から?」
諏訪「尾張守護代にとって、主君以上の上位権力と言ったら?」
岩田「そりゃあ将軍じゃ。 ……あ!」
ケン太「征夷大将軍、足利義教!」
諏訪「ご名答」
岩田「そ、そりゃ無理な話じゃ」
神崎「陪臣(家臣の家臣)が、将軍から一字拝領だなんて…」
諏訪「…では、年表を追って説明するか」
応永三十五年~正長元年(1428)
閏3月23日、常松、又代織田朝長に書状を出す
8月6日、常松、病に臥す
朝長この頃守護代か?
正長二年~永享元年(1429)
3月15日、足利義宣、将軍宣下を受けて義教と改名
4月29日以前、朝長、織田因幡入道・矢野民部入道・坂井彦左衛門入道を又代に指名
8月24日、斯波義淳、将軍の求めにより管領就任
秋頃、朝長、教長に改名
永享二年(1430)
9月某日、義淳、管領辞任を求めるが認められず
永享三年(1431)
3月上旬、この頃、織田淳広守護代就任。併せて又代に柏尾十郎左衛門入道・岡三郎右衛門尉を指名
6月6日、将軍義教、甲斐・織田らに義淳の管領辞任を翻意させるよう命じる
永享四年(1432)
10月10日、義淳、管領辞任
永享五年(1433)
12月1日、義淳没。弟義郷が跡を継ぐ
永享六年(1434)
7月6日、淳広、岡三郎右衛門に遵行状を出す
8月11日、淳広、織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦(左)衛門入道の三人に対し幕府からの指示を命じる
永享七年(1435)
12月14日、元阿と右長、織田彦九郎・矢野石見入道・坂井彦衛門入道の三人に幕府からの指示を命じる
ケン太「…この年表の意味する所は?」
諏訪「先に宣言しておく。 俺は、常松以来の『~広』の系図が織田伊勢守家。 朝長以降の『~長』の家を織田大和守家という視点で語っている」
【織田伊勢守家系図(推定)】
教広(常松)
┃
淳広
┣郷広━敏広
┗久広
【織田大和守家系図(推定)】
朝長(教長)
┣右長
┗久長━敏定
岩田「つまり、朝長は伊勢守家から尾張守護代を奪ったと?」
諏訪「そう。その手段として、将軍足利義教に近づいたんだと思う」
神崎「将軍の側に、メリットはあったんですか?」
諏訪「そもそも義教は、当時の政治が足利義持の時代以降、有力守護らの合議制になっていた事に憤慨していた」
ケン太「ほう?」
諏訪「そこで、権力を奪い返す手段の手始めとして、管領に斯波義淳を指名したんだ」
神崎「斯波義淳は優秀だったんですか?」
諏訪「逆。 無能…というか弱気に過ぎる人だったから、御しやすいと踏んだんだろう」
岩田「そういえば、将軍の使者に対し、斯波家臣の甲斐・朝倉・織田らが、
武衛管領職事非器
(うちの主人はあかん子なんで勘弁してや)
と、断ってきたと『満済准后日記』に書かれておるの」
諏訪「そう。 一方で織田朝長は、水面下で義淳を管領に推戴する事を条件に、将軍の後援を約束してもらったもの…と考えている」
ケン太「なんで?」
諏訪「義淳が管領になった前後で、朝長は教長に改名しているからだよ」
神崎「なるほど…」
岩田「そうなると、伊勢守家の淳広は面白くないの」
諏訪「そうだね。 だから伊勢守家は、義淳側についたんだと思う」
ケン太「年表を見ると、義淳は再三、管領を辞めたがってるよね」
諏訪「そりゃそうだ。 義淳が管領になって以降、守護大名らの合議の決済文書である管領奉書が、一切発給されていないんだ」
岩田「替わって、将軍自らの御判御教書や奉行人連署奉書で、ほぼ全ての政治が決裁されておるからの」
神崎「義淳は将軍に顔をつぶされ、諸侯に顔が立たない状況だから、早く管領を辞めたかった?」
諏訪「そこで義淳と淳広は将軍に対し、管領の辞意撤回と引き換えに、守護代への介入を止めるよう、説得したんだと思う」
ケン太「それに将軍は応じた…んだね?」
諏訪「おそらくね」
神崎「そこで、教長が守護代から降ろされて、淳広が守護代になったんですね」
永享三年(1431)春頃
尾張守護 斯波義淳
尾張守護代 織田淳広
尾張守護又代 柏尾十郎左衛門入道・岡三郎右衛門尉
ケン太「守護又代まで替わったね」
岩田「尾張守護代職が伊勢守家に戻って、淳広も安堵したじゃろう」
諏訪「2年間はね」
神崎「えっ?」
諏訪「淳広の思惑は意外な所から綻ぶ。 永享五年(1433)12月、主君斯波義淳が死んでしまうんだ」
ケン太「あらら…」
神崎「でも、何か伊勢守家に不安要素はあるんですか?」
諏訪「大ありだよ。 当時の守護大名の家督は、将軍に決める権限があった事から…」
岩田「義淳の弟義郷は、斯波家当主にしてもらった手前、将軍義教に逆らえなくなってしまったんだ」
ケン太「そこで将軍義教は織田淳広に対し、リベンジに出る訳だね」
諏訪「そう。 まず、淳広の子飼いの守護又代を更迭させて、教長時代の守護又代3人を復職させると…」
永享六年(1434)7月頃
尾張守護 斯波義郷
尾張守護代 織田淳広
尾張守護又代 織田因幡入道・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
岩田「そうか…その後、淳広を更迭して、教長の子と思われる『右長』を守護代に仕立てたんじゃな」
諏訪「ちなみに、右長の発給文書に一緒に連署している『元阿』という存在は、『元阿弥』…すなわち教長の出家名と思われるね」
永享七年(1435)12月頃
尾張守護 斯波義郷
尾張守護代 織田右長
尾張守護又代 織田彦九郎・矢野石見入道・坂井彦左衛門入道
神崎「なんか…ドロドロですね」
ケン太「前回以上に難しい上、長いよ!」
諏訪「…すまん。 会話形式だと、どうしても説明スピードが遅くなるんでな」
岩田「次回は、応仁の乱辺りかの?」
諏訪「あぁ、一気に時代を進められるといいね」
ケン太「ありがとうございました~。 …あぁ肩凝った」
~続~