イヴィツァ・オシムのサッカーとはなんであったのか。
問うておきながら、
その問いはまちがっている、
といった。

JEFオシム監督在任中、
試合に出場していたニッポン選手諸氏のオシム評に、
わたくしは疑問符がつく。
いったいオシムさんからなにをまねぶのであろうか。
そこがはっきりしてこない。
人生をおそわった、という。
オシムさんはサッカーのコーチである。
サッカーはどこへいったのか。
すべて抽象論で、
いってみれば、
いい加減な印象でしかない。

かれらは当時、
いわれるままの高校生のような意識しかなく、
批判的にみる、
かんがえる、
といった訓練がされていない。
ところが、
海外からの助っ人たちは、
すくなくともじぶんがなにを求められているか、
なにをすべきか、
くらいはしっている。
その違いが反映しているのではあるまいか。

助っ人たちとオシムさんの問答はみじかい。
確認すればいい。
けれど、
ニッポン人選手諸氏は、
直接オシムさんにふれなかった。
小声でぶつぶつ、
選手同士で勝手な像をつくりあげ、
勝手なものいいでオシムさんを評した。

なぜそうなるのか、
という根本の問いを、
オシムさんにつたえることをしなかった。
疑問すらうかべなかった。
勝手に近寄りがたくしてしまった。

だから、

イヴィツァ・オシムのサッカーとはなんであったのか。

つたわっていない。

だから、

説明できない。

 

畏怖しすぎ、とはこの意味である。

 

過去の記事から