先日イサオから電話がありました。
滋賀の実家近くに住む丁度40年来の親友です。

イサオは私の大学時代からのバンド仲間であり、ドラムを担当していました。

私が送ったCDが届いたというお礼の電話でした。
そのCDには1979年に録音した我々のバンド演奏のMP3が入っていました。
 
実は我々のバンド演奏の音源をここ何年間かメンバー全員が探していました。
数年前にイサオの自宅が全焼した時に我々のバンドの演奏を録音した全ての貴重なテープが灰になってしまったのです。
我々の青春時代が詰まっていた貴重な録音テープでした。
 
テープを全て灰にしてしまったイサオはバンドメンバーに申し訳ないと何度も謝ってくれたのですが、勿論誰も彼を責める者はいませんでした。
あの録音テープは我々の青春の大切な形見ですが、失ってから初めてその大切さが判るのですよね。
誰もバックアップを取っていなかったのです。
そしてその保管をイサオ一人に任せていたのです。
 
最近になって私のシカゴの家で日本から持ってきた荷物の中に、当時我々のバンドのライブに見に来てくれたお客様に450円で手売りしていたテープが一本だけ紛れ込んでいたのを発見したのです。
高価な音楽機材を持っているシカゴの音楽仲間にそのボロボロのテープを綺麗なデジタル音源にしてもらうことが出来たので、それをCDに焼いてシカゴのお土産と共にイサオに送ったのです。

 

今回我が家のダンボール箱から発見されたことに昔のバンド仲間は凄く喜んでくれました。

 

現在その当時のバンドの演奏を聞くとお尻が痒くなってしまうぐらい恥ずかしく思いますが、ヘッドフォンで大音響で聴くとあの頃に履いていた硬いジーパンの臭い匂いまでしてきそうな気がします。
 
イサオの自宅が全焼したのは十数年前まで同棲していた彼女の怨念からだと彼は言い訳しました。
イサオは同棲したいた女性が出て行って以来ずっと一人暮らしを続けています。
火事になった原因は同棲していた彼女が夢枕に立って、もう一度二人で七輪で焼肉を食べようと言ったので彼は久々に一人焼肉をしたからでした。

七輪の炭に火を点けて運んでいたところ、何かに蹴躓いて七輪をひっくり返してしまったそうです。
ひっくり返した時に落ちた炭を全て始末した積もりだったのですが、見逃していた小さな欠片があったようです。
イサオは一人焼肉を楽しんでいたのですが、変な匂いがすると気付いた時は既にカーテンに点火していました。
それからは物凄く早い速度で家全体が燃えていったそうです。

彼の何十万円もするパールのドラムセットも我々のバンドの全ての演奏の録音テープも全て灰になってしまいました。
現在イサオは全焼した家の土地に新しい家を建てるお金もなく、近くのボロアパートに住んでいます。
全焼した家の跡地は現在駐車場になっており、その土地を貸しているお金で現在のアパート代が払えるらしいです。
 
イサオとの出会いは私が大学一年生の1979年に遡ります。
私のバンドでドラムが抜けてしまったので新メンバーを探していたところ、森山という高校時代の友人が才能のあるドラマーを発見したとの連絡があったので指示された家に行ったのがイサオの家でした。
大きな家に高校三年生のイサオが一人暮らしをしたので不思議だと思ったら理由がありました。
 

中学三年の時に父親が病気で亡くなり、高三の時に母親が末期癌で病院に入院中だったのでその頃イサオは一人暮らしを強いられていたのです。

生活的にも苦しかったイサオは新聞配達をしていました。

 

出会った時のイサオはまだ高校三年生でしたが、彼のドラムの腕は私の大学の軽音でもトップクラスの者に匹敵するぐらいの実力と良いセンスを持っていました。
そして私のバンドに高校生のイサオが加わりました。

 

残念なことにイサオの母親はイサオが高校を卒業する年の成人式の日(我々世代の成人正式は1月15日)に亡くなったのを覚えています。

 

イサオとバンドを組んで初めてオーディションに受かったのが当時プロの登竜門と言われていたヤマハのポピュラー音楽コンテスト、ポプコンと呼ばれているものでした。

イサオは母親にポプコンで優勝してプロになると自慢していたのが最後の言葉になったと言います。

勿論ポプコンで優勝はできませんでしたので、プロになれなかったのは言うまでもありません。

 

そのロックバンドはそれから約10年間続きましたが、私が途中で勝手にジャズの方に行ってしまったのでイサオは新しいメンバーを立ち上げました。

しかしイサオとの付き合いはシカゴで暮らしている現在も続いています。

 
イサオは自宅が大火事になった時に火傷を負って入院しました。
 
イサオは何とか消火しようと努力しましたが、もうダメだと思って外に逃げた時にそのまま直ぐに消防署に連絡すれば火傷を負わずに済んだのですが、どうしても燃える家に飛び込んで持ち出さないければならない物を思い出してしまったのです。
 
それはオモチャのピアノでした。
 
そしてイサオは燃える家に飛び込んで火傷を負いながらそのオモチャのピアノを持ち出してきたところで倒れ、救急車で運ばれたらしいです。
 
あのピアノだ! 神棚みたいなところに置いてあったオモチャのピアノ!
 
オモチャのピアノは誰かに触られて壊されないように神棚みたいなところに置いてありました。
プラスティック製の鍵盤が20個ぐらいしかない、幼稚園児に買ってやるようなオモチャのピアノなんです。
よく覚えています。
 
ピアノの音と呼ぶのは恥ずかしいようなチープなピアノの電子音でした。
何故あんなオモチャのピアノがずっとあんなところに置いて大事に置いてあるのかを不思議に思ったのでイサオに訊いたことを思い出しました。

実はあのオモチャのピアノは母親の形見だったのです。

イサオの母親は歌謡曲好きだったみたいであり、時間があればよくそのオモチャのピアノで流行曲を弾いて楽しんでいたと言います。
楽譜の読み方もピアノの弾き方も全く知らないイサオの母親は右手と左手の人指し指の2本だけで器用に交互にピアノを弾いていたそうです。
特に大好きだった”ちあきなおみ”の「喝采」はレコードのイントロと同じようにちゃんと弾けていたとイサオは自慢していました。
子供の頃にイサオが好きだった「アタックナンバーワン」のテーマソングも弾いてくれたと言います。

イサオは母親が亡くなった時は全く涙が出てこなかったらしいですが、半年後のある夜にそのオモチャのピアノを眺めていたらと一晩中涙が止まらなかったそうです。
これまでに母親のことで泣いたのは高校を卒業したばかりの19歳の時のその夜だけだったと言います。

イサオの母親はその安物のオモチャのピアノを大人が弾いているのを見られるのが恥ずかしかったらしく、弾く時だけいちいち押入れから出してきていたそうです。
片手で運べる軽いものです。
イサオ自身も自分の母親が幼稚園児が遊ぶようなオモチャのピアノを弾いて楽しんでいるのを友達に見られるのが凄く恥ずかしかったと言ってました。

イサオが高校に進学した時に母親にお祝いとしてステレオセットを買ってもらったのですが、自分にステレオなんかを買ってくれるお金があるならもう少しマシなピアノを買ってくれと母親にお願いしたと言うのです。
友人に見られたら恥ずかしかったからです。
 
するとお母さんは...

お母さんはピアノの弾き方も知らないし、楽譜も読めないから..本格的にピアノを弾く積もりはないのよ。だからお母さんはこのピアノで十分なの。こうやってるだけで十分楽しいの。

”ちあきなおみ”の「喝采」を弾くのに楽譜なんか読む必要ないのよ。お母さんには良い耳があるから。お母さんが弾きたいのはモーツアルトではなく”ちあきなおみ”なんやから!高いお金を払ってピアノを習いに行く必要はないのよ。


そう言ってイサオの母親は右手の人差し指と左手の人差し指だけで入院する前日にもそのピアノを器用に弾いていたと言います。

そして同棲していたイサオの彼女も母親が使っていたそのオモチャのピアノを弾いて遊んでいたのも私は覚えています。
イサオは彼女に"ちあきなおみ"の「喝采」をちゃんと弾けるようになったら本格的な電子ピアノを買ってやろうと言ってましたが彼女はそんな本格的なものは要らないといつも断ってました。
彼女が本格的な電子ピアノを欲しがっているのではなく、イサオ自身がそれを買いたがっているのは傍から見ていても明らかでした。

私もその彼女が「喝采」を弾いているのを聴いたことがありますが、感動しました。
言うまでもなく、右手だけの演奏です。
仮に左手が使えても両手で弾けるだけの鍵盤があるピアノではなかったのですが...
私は小さい頃にピアノを習っており、基本的な指使いを知っているのですが、彼女は指が骨折しそうな指使いでも「喝采」を最後までちゃんと演奏した時には私は少し感動してしまいました。

 

こんな私の気持を読者の方達に理解してもらえるとは思っていませんが、人というのは素晴らしい演奏だけに感動するものではないと私は信じています。
だから私はこの歳になってもまだ下手なジャズやブルースをやっていられるのだと思います。

「ちゃんとピアノを弾ける人の前で演奏するのは恥ずかしいわ!」と言いながら「喝采」を最後まで演奏した後の彼女の照れ笑いを見たら私は自分がピアノを弾けることが恥ずかしく感じました。
そして音楽の教育を正式に受けた者だけが人前でピアノを弾ける資格があると大きな勘違いをしているような彼女を見ていると何だか切ない気持ちになりました。

彼女はイサオと同じ工場でエアコンの組み立て作業をしていると聞いてましたが、具体的にどんな仕事をしているかはピアノを弾いてくれた時のマネキュアの剥げ具合を見てよくわかりました。
こんな事を言っては彼女に失礼なのかも知れませんが、私は彼女のマネキュアの剥げ具合が凄くセクシーだと感じました。

「ほそみちさん、いやらしいわー、人の手ばかりじっと見て...」と叱られてしまいましたが、大きな工場の組立ラインで男性に混じって一生懸命に働いている女性の手には美しさがありました。
指に貼っている絵があるバンドエイドでさえ女性のセクシーさを感じてしまいます。

当時私が働いていた日本の会社でいい加減な仕事をする女性社員達のつるつるした手とは大違いでした。
一生懸命に働いている女性の手は何処かに傷の一つや二つぐらいはあるものなんだと悟りました。
それとは対照的にうちの会社の同年代の女子社員の手はつるつるでプラスティックのような不気味さがありました。

イサオの彼女はいくら綺麗にマネキュアを塗っても朝に会社に行って仕事をすれば直ぐに爪の先の方だけが剥げてしまうと話して苦笑いしてました。
それでも彼女が毎日マネキュアを塗っていることに本当のお洒落な女性というのはこういう人なんだと私は思いました。

髪型や顔はお金と時間をかければ相当なところまでいじれることができても、手だけはどうしても誤魔化せられないものだと私は思っています。


イサオは大人になったら母親にもっと良い電子ピアノを買ってやりたいとずっと思っていましたが、それは同棲していた彼女にも叶いませんでした。
彼女が"ちあきなおみ"の「喝采」を弾けるようになっても彼女は「私はこれで十分なの。」とイサオの母親と同じセリフを最後まで言い続けたのです。
 
私は彼女がそのオモチャのピアノで喝采を弾いていたのは自分がピアノが好きになって始めたいわけではないことを判っていました。
イサオは母親が生きていた頃とは違って電子ピアノを買ってやれるようになったのに彼女がその好意を受け取ってくれないことに苛立ってました。
男と女はこういう何でもない事ですれ違いをするものです。

そしてその彼女が家を出て行ってから何年か経ち、イサオがそのピアノを久しぶりに弾いてみたら低音部分のある音が出なくなってしまっているのに気付いたのです。
彼女が出て行った時には何の問題もなかったそうですが、そのまま全く触らずに神棚みたいなところに置いていだけなのに、なぜか押さえても出なくなってしまった音が出てきたのです。
 
イサオは電子機器メーカーの技術者である私が日本に帰って来た時に私にそのピアノを診て欲しいと言いました。
幾らお金がかかってもいいから修理してしてくれと言うのです。
 
私はイサオに私が日本に帰るのを待たずにシカゴまでそのピアノを送れ!と話していたのですが、そんなオモチャをシカゴまで送れば郵送料も高いし、そんなことでお前に迷惑かけるわけにはいかないと言うのです。
多分そのピアノは新品で買っても1万円か2万円程度のものだと思いますが、私にはイサオがそのピアノの修理代に10万でも20万でも喜んで出す積もりであるのは私には判っていました。

イサオがそのピアノを私のシカゴの自宅まで送ってきたら私はどんなことをしてでも音が出るように修理してやる積もりでした。
私のチームにスタンフォードの電子工学でマスター取った優秀なDaveという後輩がいるのですが、そいつはギターのVintageの真空管アンプやアナログのシンセサイザーを集めています。
自分の得意分野を活かせて、そういうVintage物をジャンク屋から安値で購入し、自分で修理した物を高値で売ったりするのも彼の楽しみの一つなのです。

Daveに70年代始めのオモチャの電子ピアノの修理について訊いてみたら、部品さえ手に入れば確実に直せるものだと言ってくれました。
先ずどんなICを使っているかを見なければならないが、当時の部品は手に入らなくても現在手に入る代用品で十分いける筈だと言います。
最悪の場合でもオリジナルの音質が変わってもいいなら、キーボードは単にスイッチとして使うことにして、内部の音源を発生する基盤を現行のものと交換してしまえばいいと言うのです。

しかし最新のリアルなピアノの音色になってもそれはそれで困るのです。
70年代のオモチャの電子ピアノの音色でないと意味がないような気がしました。
そしたら彼はその壊れた電子ピアノの幾つかはちゃんと音が出るなら、それをサンプリングして出せない音を作れると言うのです。
音源の基盤を最新の物に交換して、出せない音をメモリーさせばオリジナルの音が出せるようになると言うのです。
色々と方法があるんですね...感心しました。

そしてメカニカルデザイナーのHenryもそのプロジェクトに加わってくれました。
もしキーボードか内部のどこかのプラスティック部品が折れていたら、彼が図面を引いて会社の3Dプリンターで破損した部品を製作してくれると言ってくれました。
但し会社の3Dプリンターを使用出来るのは午後6時以降でないと皆にバレてしまうとのことでしたが...

学校の授業が終わってからのちょっとしたクラブ活動みたいになってしまったのです。
イサオのオモチャのピアノを修理する為にエリートエンジニア2人が立ち上がってくれたのです。
修理できない物はこの世には無いと言っても過言ではないと私は思いました。
涙が出るほど私は嬉しかったです!

そして私は彼らに修理費用に糸目はつけないと偉そうなことを言っておきながら、1000ドルまででお願いね!とお願いするところが私のセコいところです。
Daveは恐らく自宅に転がっている部品が使えると思うので、修理費用はかからないと言ってくれたのでほっとしたことを正直に言っておきます。

しかしイサオは最後までその壊れたピアノを送ってきませんでした。
私はイサオに修理の準備は整ったと何度電話をかけても彼はいつもそれをはぐらかすだけなのです。
それを梱包するのに時間がかかるとか、そこまで私に迷惑かけられないとか...
最後の方は私はイサオを電話で怒鳴ってました。

と言うのも数日前にイサオから送られてきたダンボール箱を空けてみたら、スガキヤラーメンとシカゴでは手に入らない日本の食糧などが入っているのです。
勿論それはそれで嬉しいですが、そんなものに郵送料だけで1万円以上も使ってくれるなら、壊れたピアノを送れたはずだと頭にきてしまったのです。
 
 
イサオの心の中では何かまだ整理がついていない何かがあるのかもしれません。
そのオモチャのピアノを修理してもらって全ての音が出るようになってしまえば絶対に戻ってこないものがハッキリしてしまうのが悲しいのではないかとも思います。
或いは人は歳をとる毎に何かを失っていく現実を素直に認めたのかもしれませんし、私が本気でそのオモチャのピアノを直してやると言った時点でイサオはそれだけで満足したのかもしれません。
 
何れにせよ、イサオが送ってくれたスガキヤラーメンはまた私の命をしばらく伸ばしてくれました。
元旦に去年送って貰った最後のスガキヤラーメンを食べてしまったので時々禁断症状が現れていました。
シカゴで買えるチャルメララーメンで何とか自分の胃袋を誤魔化していましたが、そろそろその誤魔化しも限界に近づいてきていたので少し焦っていたところでした。
 
スガキヤラーメンを作って一口食べた瞬間に身体の中の全ての細胞が喜んでいる歓声が頭の中に響きました。
電話でははっきりしないイサオの態度に少し大きな声で怒鳴ってしまいましたが、派遣社員の安い給料の中から私にスガキヤラーメンを食べさせるために一万円以上も航空便によく使ってくれたものだと感謝し、両手を合わせて美味しく頂きました。