二十数年前まで私は日本の某メーカーでエンジニアをしていました。

二流大学出身の私は京大出身の上司から随分冷や飯を食わされていました。

上司の大学の後輩達などの学歴エリート達が後から入社してきて、あっという間に私を追い抜かしていくのをじっと指をくわえて何度も見ていました。

納得できない日々が続いていた私は上司の机の上に辞表を叩きつけたかったんですが、嫁さんも息子もいる身であり、そんなTVドラマのようなカッコいいことは臆病な私にはできませんでした。

 

そんな日々の愚痴を聞いてくれていたのはドイツやアメリカのエンジニア達でした。

 

「そんな会社ならうちの会社で働けばいいのに...」と言ってくれていたのですが、まさか本当に飛行機のチケットを送ってくるとは夢にも思っていませんでした。

取り敢えずシカゴに来て具体的な仕事の話をしようと言われたのです。

 

当時三十代後半の私は世界で俺より賢い奴がいるのか?という大きな勘違いをしていたのですが、私の上司はその私の勘違いを利用して年に一回行われる同業種のセミナーに出席することを命じされました。

私が社内を代表するような優秀なエンジニアだと認められていたわけではありません。

毎年ゴールデンウイークのど真ん中に3日間開催されるセミナーに社内のエンジニアの誰も自分の休暇を犠牲にして海外に出張したいと手をあげる者がいなかったので、上司は私に「お前がそんなに実力があると言うならセミナーでプレゼンしてこい!」と命じられただけだったのです。

 

日本大好き、スガキヤ大好きの私が息子と遊んでやれる時間が一年中で一番多くあるゴールデンウイークに海外に出張するなど到底考えられなかったのですが、そういう嫌な仕事はいつも私に回ってきました。

「ちゃんと学校出ているのか?お前の英語は出鱈目じゃないか!」と普段は言われていたのですが、そういう時だけは社を代表して業界のセミナーに出席を命じるのです。

4月の後半、ゴールデンウイークが近づいてくると皆はワクワクしてきますが、当時の私は英語もまだまだだったので英語でのプレゼンをするのに何度も何度も練習していました。

 

それが5年連続でした。

私の息子は幼稚園から小学校低学年まで父親の私と子供の日に遊んだことはありませんでした。

 

上司からはちゃんとセミナーに出席さえすれば私が何をプレゼンしてもいいと言われていたので、私がそれまでに開発した自慢できるものを取り上げました。

私もそのセミナーで勉強になりましたし、私にも技術的な質問が幾つも着ました。

それがキカッケで海外のエンジニア達との人脈が出来ていったのです。

 

確かに私は「こんな会社、今度こそ辞めてやる!」と何度もメールに書いたのは事実ですが、彼らがその愚痴を本気にしてビジネスクラスの飛行機のチケットを送るなんてことを言うとは思いませんでした。

私は慌てて面接の件を断ったのですが、嫁さんに後で凄く叱られました。

嫁さんが「こんな滋賀の田舎で一生暮らすのは絶対に嫌や!勝手にシカゴ行きを断りやがって!離婚するで!」と言い出し、当時小学生の息子と嫁さんの家族3人で結局渡米する羽目になりました。

 

当時小学生の息子も私もスガキヤラーメンが命だったので「世界中何処へ行こうとも、スガキヤのラーメンが食べられないような場所には我が家の幸せは絶対にない! 」と本気で嫁さんと話し合いましたが「我が家で大切なことは私が決める!」と嫁さんに言いきられてしまいました。

私は嫁さんを怒らせるほど勇気のある男ではありません。

 

人事部の面接の為に取り敢えずシカゴ本社に来てくれということだったので、私は有給休暇をとって会社に内緒でシカゴに行きました。

すると面接試験はなく、いきなり私に任せる仕事の詳細な打ち合わせから始まり、人事部の者との面接は私の家族全員のグリーンカードを申請するので日本でどういう書類を揃えなければならないかの打ち合わせでした。

嫁さんも小学生の息子も直ぐに英語で生活できるわけではないと話すと英語の家庭教師をつけてやるから問題ないと押し切られ、シカゴでの生活が始まりました。

 

仕事に関しては当時の私は世界で一番のエンジニアだと信じていたので彼らに教えてやる積りでいましたが、それが大きな勘違いであることに気付くのにそんなに時間はかかりませんでした。

 

スタンフォード?MIT?それがなんぼのもんじゃ!と勇んで仕事をやり始めたものの、彼らの天才的な頭脳に私は全く歯が立たず、私は仕事のストレスから鬱病になっていまいました。

英語では何らかの問題があるかもしれないと覚悟はしていましたが、まさか仕事についていけないとは夢にも思っていませんでした。

やはり東大の上の上の世界のエリート大学の出身者だけあって、頭の回転の速さは私の予想を遥かに超えていました。

彼らがどんな風に仕事をし、どんな風に物事を解決していくかを学べたことは人生の財産になったと思っています。

 

鬱病になった時期は午前中は頭がほとんど回転せずに毎日タイプしている私のパスワードが思い出せなくなってコンピュータにログインできない日々が続きました。

オフィスを抜け出して会社の駐車場の私の車の中入り、このまま家に帰ろうか、もう少し待てば頭が回転し始めてパスワードが思い出せるだろうか...と自問自答する日々が続いていましたが、午後になると雲が晴れたように頭の機能が正常になるのです。

そして翌日になるとまたその繰り返しでした。

 

私は脳に腫瘍が出来たと思い込んでドクターに脳の専門医を紹介してもらいました。

MRIなどの精密検査を受けた結果、典型的な鬱症状だと判断されたのです。

ドクターからは鬱病は無意識に自傷行為をする可能性もあり、処方箋を書いてやると言ってくれましたが、一旦薬に頼ってしまえば長期間服用することになることも説明してくれたので、私は一切薬を使用しない方法を選びました。

正直に言うと、それは私の力でなく、何年も止めていたタバコを吸い始めてからかなり精神的にも肉体的にも楽になったことを言っておきます。

アメリカではタバコは麻薬並みの扱いをされていますが、私のドクターはタバコで鬱病を克服したことを凄く褒めてくれたのが嬉しかったです。

薬だとやはり副作用があるからです。

 

あれから二十数年が経ち、去年私はその年の最優秀エンジニアに送られるAce Awardを受賞しました。

あの頃のことを考えるとAce Awardを受賞するまでに色んな苦労がありました。

嫁さんも死ぬか生きるかの病気になり、TVドラマ「ER」でお馴染みのシカゴ大学で手術をしてもらいました。

その時に日本円で換算すると960万円の請求書を受け取ったこともありました。

マザコンの息子はその当時は嫁さんの病気が完治できる治療薬がなかったので「僕が研究者になって100%完治する特効薬を開発するかから、お母さんそれまでは頑張ってくれ!」と言っていたのですが、まさか本当に研究者になってNIH(National Institutes of Health、
アメリカ国立衛生研究所)で医療の研究者になるとは夢にも思いませんでした。

そして息子が中国人女性の研究者と結婚するとも夢にも思いませんでした。

今や息子達がワシントンDCからシカゴの自宅に訪ねてくると家の中は英語での会話です。

 

色んなことがありました。

気が付けば三十代後半の私が還暦が手に届くまでになっていました。

疲れました。

 

今年中には会社を辞めて日本に永久帰国し、学生時代からの夢だったジャズギターリストに挑戦しようと思っています。

お金を稼げるジャズギターリストに成れるとは夢にも思っていませんが、シカゴの小さなBlues/Jazzバーでも演奏させてもらっていたので、滋賀の田舎町にあるライブハウスなら演奏させて貰えるのではないかと期待しています。

 

スガキヤのラーメン無しでは生活できないと思っていましたが、友人達に航空便で定期的に送ってもらいながら何とか二十数年間は生きてこられました。

日本に帰れば480円でスガキヤ店で食べられる一番高い特製ラーメンが食べられるのはどれだけ幸せなことであるかが地球の裏側のシカゴに二十数年間住んでみてよーく判りました。

やはりあの時に「世界中何処へ行こうとも、スガキヤのラーメンが食べられないような場所には我が家の幸せは絶対にない!」というのは私にとっては本当のことでした。

 

長くなってしまいましたが、機会があればこれまでのシカゴ生活で馬鹿した話や、日本に帰国するまでのことを少しづつ書いていきたいと思っております。