心の月を先立てて
金の三日月 照らしてぞ行く★
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伊達政宗公の
武将の器は魅力的です。
三日月の前立ては、
戦場での加護を願う武将たちの、兜や鎧を飾るモチーフの始まりとなりました。
金の三日月の前立てをつけた
「伊達な兜」です。
戦場でこそ、粋な男。
侍魂を感じる
真の漢。
政宗公の父である輝宗公が、
息子の旗印に日輪、
前立てに「月」を選びました。
この印象深い
金色の三日月には、
父、伊達輝宗公の息子に対する期待と、神仏加護を祈願する思いが煌めいています。
眼を患っていた為か、
大切に養育しなかった母親の裏切りや、弟の処刑など、政宗公は家族の縁が薄かった歴史が伝わっています。
「奥州の独眼竜」
と恐れられた戦国最後の英傑が生まれた背景には、「月の前立て」に託した父・輝宗公の思いが大きかったと感じます。
政宗公は生涯
この三日月型の兜を使い続けました。政宗公にとって夜空に輝く「月」の存在は、自分自身の人生、生きる象徴、だったのかもしれません。
政宗公は生涯
この三日月型の兜を使い続けました。政宗公にとって夜空に輝く「月」の存在は、自分自身の人生、生きる象徴、だったのかもしれません。
愛深き者は
非情にもなる
そんな武将です。
辞世の句と言われる歌の中で
辞世の句と言われる歌の中で
月を詠んでいます。
星を意味する「九曜紋」を家紋として使用することもあり、月や星、夜空を愛する人となりを感じ、その奥深さに
今も気持ちを
その気になれば 天下人
百世の鑑と すべき武夫なり★
百世の鑑と すべき武夫なり★
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井伊直政公は
15歳の頃、徳川家康公に見出され、小姓となりました。
「井伊の赤鬼」
井伊直政公は
15歳の頃、徳川家康公に見出され、小姓となりました。
「井伊の赤鬼」
と恐れられながらも人望厚き、男の鑑と評される人物像は、痺れるものがあります。
1600年
関ヶ原の合戦
東軍、直政公は
勇猛果敢に戦の口火を切り、
時を動かしました。
馬に跨り、威光を放ち、
閃光の如く走り出した
最初の武将です。
その耀きは、誰も疑わない
その耀きは、誰も疑わない
「威光無疑」
と例えられたほど。
颯爽と口火を切る
漢の辛口な生き様は
今も色褪せしません。
★★★★★★★★★★★★★
★★★★★★★★★★★★★
南部鉄器が 注ぐ夢
茶の湯に勝る 一服はなし★
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茶の湯が盛んであった
茶の湯が盛んであった
豊臣秀吉公の時代。
軍師・黒田官兵衛は
「茶の湯など、勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、極めて無用心だ」といって嫌いました。
そこで、秀吉公が
軍師・黒田官兵衛は
「茶の湯など、勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、極めて無用心だ」といって嫌いました。
そこで、秀吉公が
官兵衛を茶室に招き、茶は出さず戦の密談をした後
「こういう密談が茶の湯の一徳。何でもない普通の日に其方を招き密談をすれば、人々に疑いを生じ、禍を招くことにもなろう。ここならば例の茶の湯ということで、人から疑いを生じることはないではないか」
と耳打ちしました。
秀吉公の諭しに
官兵衛は感服。
秀吉公の諭しに
官兵衛は感服。
「拙者は今日、はじめて茶の味の素晴らしさを飲み覚えました。名将が一途に物にのめり込むことなく、心配りしておられる点は愚慮の及ばぬところです」
と言い、それ以来、官兵衛も茶の湯を好み、本当の茶の湯の意味を知ったそうです。
茶の湯こそ
茶の湯こそ
男の嗜み。
2人の茶の湯の場面を思い出し
今年の夏、購入した
2人の茶の湯の場面を思い出し
今年の夏、購入した
紅の南部鉄器。
争いの時代を生き抜いた
本物の漢たちの姿に
わくわくする瞬間がありませんか。
武将たちには
強く明確な
哲学があるからです。
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