歴史書には

「猜疑心」
※さいぎしん

という言葉が
よく登場します。

人、真実、場所、
食べ物、書状

戦国武将たちや
忍びの者
身分の高い家柄などで
健全に「疑う」ことは
当たり前の風習でした。

何事も鵜呑みにせず
「疑える」ことは

その家が持つ
「知力を示す」
ということです。



健全な猜疑心こそ、
ものごとの裏に潜む
本質を見極める近道である。




ロバート・ルービン
(米国の銀行財政家)

天下人、徳川家康公
その徳川家の猜疑心は
尋常ではありませんでした。

外様大名らの言動
家臣の一挙手一投足
食材、外交、会話
城の改築、増築、
婚姻関係に至るまで

「なぜ疑わぬ」

家訓のように
常に裏側を見て
過ごしたことが
よくわかります。

家康公による徳川幕府は
その後、260年余続きました。


噂話で民を翻弄する瓦版
邪心、別心を併せ持ち
味方のフリをした内通者

しかし

所詮、邪を持つ者は
隠しようがないものです。

ほんの少し炙るだけで
簡単に化けの皮が剥がれる
小心者ですが

寧ろ

そうでなければならない。

邪心者らは挙動不審で
虚偽と不正を
正論とする生き物。
真実に噛み付きだし
謙虚さや正直さなど

全て不知。

「私は不正な生き物です」
と顔に書かれているから
じっと見つめるだけで
本性を炙り出せるのです。

邪心を持つ者らが
立場を陥れる罠を仕掛け
食前には
毒味係が存在する時代。

「戦に限らず、誰が生きて誰が死ぬか、それぞれの集団が興亡した理由を知ることこそ「歴史」である。」

という視点での歴史学は
実に興味深いものです。

遺された
偉人たちの言葉に触れていくと、騙され、陥れられた人間の大きな「恨み」こそが歴史の歩みだと、辿り着く瞬間があります。

人が人から受けたことは
百年、千年経過しても
絶対に色褪せない
寧ろ常に新鮮な恐ろしさを
秘めているのです。

「不正な権力と
   戦えるものは知性」

という教えもあります。

知性のない
暴力的な思考しかない者が
容易く取り込まれてしまうのは
昔も今も変わらない。

歴史にある言葉から学び、
自ら教養を高め

下らないことで
下らない者の配下に
自分が取り込まれないように

健全な猜疑心と共に
知性を身に付け
嘘や不正を見抜く力を
養い続けなければならない。

今年、大嘗祭を拝見しながら
過去の歴史も振り返り、令和という時代の解釈が自分なりに出来そうな気がしています。

妙見(見通す力)です。

健全な猜疑心が
令和を生きる自分の説明となり
今を生きるための整理を
自然と明確にさせていく。

これが歴史の妙見
「見通す力」です。

実際に史跡を巡り、
偉人たちの言葉に触れ、偉人の人物像を想像しながら意味や謎を解き、その心意を推量することを趣味にしています。

歴史に潜む言葉には
思考力を向上させる
力があります。

歴史とはその時代、
智慧を上手に使った人物らによって、時代が動いたことだから。

それぞれの実記も
他の実記と読み比べ、自力で判断していくと、「嘘を嘘」と見抜ける要素を知り妙見を得ることができます。

そして案外
本丸こそ近くにいると
教えてくれます。

正しく判断する能力が
自分にどれほど
備わっているか。

「歴史を知らず生きる者など、自分さえ今楽しければ良く、他人の不幸を喜ぶ『愚痴の心』を持つ恥知らずな畜生と何ら変わらん 」

先人たちが叫び残し
歴史をきっかけに
改めて考える言葉

「猜疑心」

健全な猜疑心とは
「流される」
ことを良しとしない
鵜呑みにしない精神です。


何も疑わず
何でも容易く信じ込み
簡単に鵜呑みにして
その場のノリで無責任に
他言するような人物は

もはや善良とは言えないと
知るべきです。

成人として
社会人として
人としての独立精神。

「成熟した言論」
を持つための猜疑心なので
誤解のないように。

そして現代の
健全な猜疑心とは、疑念を抱く言動を繰り返す者から自分を守るための録音録画のデジタル記録を意味するのかもしれません。

本質を見極める近道として
常に記録することが
現代の猜疑心だと
示しているようです★




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