東日本大震災から4年が経ちました。
改めまして犠牲となった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々へ心よりお見舞いを申し上げます。

4年前、私は2011年4月の統一地方選挙への出馬に向けて準備をしていました。
会社を2010年10月一杯で退職し不退転の思いでした。
荷物を取りに自宅へ戻ったわずかの時間に経験したことがない強い揺れを感じ、ただ事ではないと感じました(豊島区は震度5弱、23区内は5弱~5強のところが多かったと記憶しております)。
消防団の活動服に着替えて家族の安否が確認できてから、すぐに分団庫へ出動して数名の分団の先輩と手分けして管内を確認。火災などはなかったので巣鴨分署で待機となり、この日は23時位までの出動でした。
待機が解かれた後、白山通りばかりか、巣鴨地蔵通り、路地までが車で溢れ、徒歩で自宅へ向かっている方々で歩道が渋滞していたのを覚えております。

その日のニュースの映像が現実に起きていることのようには思えませんでした。
岩手の沿岸部に住んでいる友人の安否が気になりましたが、携帯も通じず確認のしようがありません。
twitterの方が情報が早いということだったので、その町の情報を少しでもつかみたいと思いましたが、思うようにいきませんでした。
この時ほど情報が大切だと思ったことはありません。

4年前の3月は日本全体が喪に服したような状態で、お祭りなどは自粛、卒業式や入学式までも自粛する動きがあったほどです。
ガソリンは不足し乾電池などが手に入りづらくなるなどの混乱もありました。

当然ながら選挙どころの話ではありません。
しかし、自分にできることが現実には殆どない。
募金活動に参加し、当時は情報が錯そうしていたのでBlogに放射線量や計画停電の情報をまとめて発信するようなことをしていました。

自然災害を全て防ぐことはできませんが、安全・安心なまちづくりがいかに大切かということが身に沁みました。
現職だった方はもちろんなのでしょうが、4年前に初めて統一地方選にチャレンジした人たちは、党派が違っても恐らく私と同じような思いを持ったのではないかと思います。

あれから4年が経ちました。
都や豊島区の防災関連の取組は、当時と比べて大きく進んでおります。
帰宅困難者対策、木密住宅不燃化10年プロジェクト、特定整備路線整備、
災害対策本部の立ち上げなど初動対応、事業継続計画(BCP)、救援センターの物資などの充実、
防災課による安全安心メールの強化やFacebook・twitterなどによる情報発信…
しかし、先日3年ぶりに都と合同で池袋駅にて行った帰宅困難者対策の訓練でも課題が見つかったように、これで十分ということにはならないのだろうと思います。
前回は情報を得るのに役に立ったSNSも、今のようにスマートホンが普及した状況では、災害時にどこまで機能するかはわかりません。
結局はアナログの情報発信との組み合わせにならざるを得ないだろうと考えております。

一方で東北の復興、自治体ごとで進捗状況に大きな差が生まれているとも聞いております。
昨年視察で伺った地区でも場所によって街の姿が異なりました。
また、東北に限らず日本が人口減少社会に突入した今、単に前の状態に戻したら地域が活性化するという話しでもありません。街の将来像をどう描くのか、これが問われるでしょう。
それでも復興に向けての後押しは政府としても緩めることなく続けて頂きたいと思います。

ビートたけしさんのインタビュー記事を拝読したとき、本当に考えさせられました。
(⇒コチラ
「2万人が死んだ一つの事件」ではなく、「そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだ」
このことは忘れてはいけない観点だと胸に刻みました。

東日本大震災のもう一つの教訓、日本人が忘れかけていた日本人の美徳を思い出させて頂いた、ということだと思います。
将来の世代へも日本人の美徳が引き継げるよう、周囲への感謝の念や相手を思いやる気持ちを育む教育はしていかねばなりません。

4年前を改めて振り返り、思いを新たにしております。
もともと出馬を決意した時に抱いていた思いは、将来世代への責任を果たす政治をしたい、というもので政策は「教育」が柱でした。
しかし、東日本大震災をきっかけに、「安全・安心なまちづくり」、がいかに大切かということに気付かされました。
また、実際に地方政治に携わるなかで、生まれ育った豊島区をよくするためには、「地域の活性化」をして街を元気にしていく必要があるということも痛感しております。
(このことは政策の柱にしております⇒細川正博 政策